11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

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ラベル 『赤黄色の金木犀』 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2025年10月7日火曜日

十月の金木犀 [志村正彦LN372]

 今朝、仕事に出かけようと玄関を開けて車に向かった瞬間、全身があの甘い香りに包まれた。記憶のなかの金木犀の香りに間違いない。やっと金木犀の季節が到来したのだ。


 毎年、9月の下旬になるといつ金木犀の香りが漂うのか気になって仕方がない。あたかも〈世の中にたえて金木犀のなかりせば秋の心はのどけからまし〉といった心境なのだ。 気温が下がることによって金木犀は開花する。ところが、今年は九月になっても夏のような気候が続いた。志村正彦は「赤黄色の金木犀」で〈冷夏が続いたせいか今年は/なんだか時が進むのが早い〉と歌った。確かに冷夏が続くと夏が短く感じられ時の速度も早くなるような気がする。6月、7月から8月、9月まで非常に暑い日々が連続した今年の夏はとても長く感じられた。時の速度もゆっくりとしていた。まるで永遠に夏が終わらないようでもあった。


 このブログでは毎年のようにこの時期に金木犀の報告をしてきた。2022年には〈毎年、甲府盆地では9月の26日か27日頃に香り始める〉と書いてある。しかし、2023年は10月15日の日付で〈数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い〉とあり、10月10日頃だったようだ。2024年は10月17日の日付で〈一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる〉とあるので、10月15日だった。今日は10月7日。ということは去年よりも一週間ほど早かったことにはなる。

 2023年、2024年、2025年と三年続きで10月の第一週から第二週にかけて開花しだしたのは、実感としてはやはり、夏の季節が長く続き、秋の到来が従来より遅くなっているからであろう。


 金木犀が香り始めた今日、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」ミュージックビデオ(YouTube フジファブリック Official Channel)と歌詞の全部を紹介したい。




  「赤黄色の金木犀」 (作詞・作曲:志村正彦)



  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた

  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道

  期待外れな程
  感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびに
  あの日の言葉が消えてゆく

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 大学で担当している「日本語スキル」という科目は読解力・思考力・表現力を育成するものだが、後期開始の9月下旬の授業ではここ数年「赤黄色の金木犀」を取り上げている。日本語の詩的表現について考えるためだ。今年も先週行ったが、その際の学生の感想を記したい。


  • 私は金木犀が大好きなので、最初に映し出された時にどんな歌だろうと思ったが、実際に聴いて歌詞を見てみて、志村さんの作詞能力がどれほど優れていたかが伝わった。
  • 「赤黄色の金木犀」は最初と最後が切ない感じでしたが中盤が盛り上がっていてアップダウンが激しい曲だと思いました。
  • 時間が過ぎるのが早く焦り始める気持ちが、今の私と重なる部分がある。
  • 志村正彦さんの作詞力とメロディの乗せ方が上手で、その時代に生きていたかったと思うとともにその才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれるなと思った。


 志村正彦の優れた作詞能力、最初・最後・中盤のテンポ、時間と焦りの感覚についての的確な指摘があった。最後の学生は〈その才能が存分に発揮されなかったことが非常に悔やまれる〉と述べている。志村がその短い生涯で才能を十分に発揮したことは言うまでもないが、この学生が言いたかったことはおそらく、志村が今も存命であればその才能をさらに発揮して素晴らしい作品を創造したが、それが現実として叶えられなかったことに対する〈非常に悔やまれる〉想いを伝えたかったのだろう。同じような想いを私も抱いている。


 毎年、この秋の季節に「赤黄色の金木犀」の歌を聴くと、たまらなくなって、何故か無駄に胸が、騒いでしまう。


2024年11月10日日曜日

2024ハタフェスと「赤黄色の金木犀」の黒板画[志村正彦LN357]

 もう三週間前になるが、10月19日、「山梨学Ⅱ」という授業で30人の学生と一緒に富士吉田の「2024ハタオリマチフェスティバル」に行ってきた。地域活性化の先進的な試みを学ぶための現地見学と調査だ。ここ数年の間、行っている。朝9時にバスに乗って大学を出発。心配していて天気も何とかもちそうで、御坂トンネルを越すと、富士山がその美しい姿を現した。少し雲はかかっていたが、まだ雪はなかった。夏山の富士だった。10時に富士吉田市役所の駐車場に到着。バスを降りて会場に向かった。引率教師と学生たちが集団で歩く姿は、まるで小学生の遠足のように見えただろう。

 ハタフェスは富士吉田の秋祭り。二日間、本町通り沿いの各会場でハタオリの生地や製品を販売したり関連のイベントをしたりする街フェスだ。昼までは五人ずつの六つのグループに別れて見学し、インタビューなどを通して調査を行い、見学報告のSLIDEを作成するのが課題だ。午後は各自の自由見学という流れだ。僕もいくつかのスポットを廻った。ところどころで学生たちとも出逢った。


 まずはじめに、KURA HOUSEで開催の「私のハタオリマチ日記展」。イラストレーターのmameさんが描いてきたRIHO、SACHI、AOIの物語とそのイラストが展示されていた。mameさんの絵のキャラクターはとにかく愛らしいのだが、状況や背景もしっかりと描かれているので、その場の雰囲気がよく伝わる。富士吉田という街と人の物語が浮かんでくるのだ。志村正彦ゆかりの喫茶店と言われる「M2」の前で佇むイラストも飾られていた。ポスターやポストカードのプレゼントもあったのが嬉しかった。


 今年はフードコートのようなエリアが充実していた。甲府のAKITO COFFEEの店があったので、フィルターコーヒーを深煎りで注文した。出来上がりまでの時間、このエリアにいる人びとを眺めると、各々がゆっくりとこの場にいることを楽しんでいるようだ。一息つくことができた。コーヒーで身体が温まる。チョコレートのマフィンも美味しかった。

 次は小室浅間神社。ここに来るといつもポニーを見に行く。可愛い眼が和ませる。こういう場もあるのがハタフェスのよいところだ。



 この後、中村会館を目指して本町通りを上がっていく。途中で驚くことがあった。M2近くにある謎の古書店「不二御堂」が何とオープンしているではないか!ここは何度も通ったことがあるが、いつも閉まっていた。初めて入り、高速に眼を動かして、書籍を物色。僕の趣味に合う本が多い。懐かしい本もたくさんあった。「現代詩手帳」のバックナンバーに掘り出し物があったので購入した。

  中村会館のエリアには黒板当番さんのコーナーがある。毎年ここに寄るのを楽しみにしている。志村正彦の黒板画をプリントした小さな絵が並んだパネルが立っていた。何度見てもあきることがない。


 

 さらに、富士山駅まで歩いていく。ゆるやかだが上り坂なのでけっこうしんどい。目指すは、駅ビル『ヤマナシハタオリトラベル』にある、志村正彦・フジファブリック「赤黄色の金木犀」をテーマとした黒板画だ。

 今年はいつもと違い、エレベーター近くの目立つ場所に飾られていた。
 絵の全体が赤黄色の色合いに溶け込んでいる。金木犀が香ってくるようだ。チョークの綺麗な点描で志村正彦の表情が繊細に描かれている。黒板当番さんがたくさん描かれてきた志村画のなかで、この絵がもっとも好きになった。




 見学から一週ほど後に、授業で六つのグループによる「ハタフェス見学報告」SLIDEの発表会を行った。全グループをまとめると120枚のSLIDEが出来上がった。いろいろな観点からハタフェスの魅力を語り、地域活性化のためのアイディアを考えた。課題や改善点も探った。

 あるグループが「YOUは何しにハタフェスへ」と題して、海外から来た人へのインタビューをまとめた。このユニークなテーマが大好評だった。フランス人夫婦(40代)、台湾人カップル(30代)、ドイツ人女性(30代)、オーストラリア人女性(40代)、マレーシア人男性(20代)と、国際色がほんとうに豊かだ。
 ハタフェスについては、「民泊のところに置いてあったチラシで知った」「泊まってるホテルから教えてもらった」「富士山や新倉山浅間公園を見に来たら、たまたまやっていた」という回答。みんな、雰囲気が素晴らしいと答えてくれたそうだ。

 これから、富士吉田の「ハタオリマチフェスティバル」が世界に知られるようになるのかもしれない。この街にはそのようなパワーがある。

2024年10月17日木曜日

「赤黄色の金木犀」と「金麦〈帰り道の金木犀〉」[志村正彦LN356]

 僕の住む甲府では、毎年、九月の下旬には金木犀が香り出すのだが、今年はまったくその兆しもなかった。金木犀は気温があるところまで下がってくと、花が開花し、香り始める。今年はあまりにも猛暑が続いた。その影響で全国各地で金木犀の季節が遅れているようだ。

 もしかすると今年はもう香らないなのかもしれない。そんな心配をしていたところ、一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる。暑い季節と寒い季節の二つが巡っているような季節感が定着しだした。秋は束の間に過ぎ去っていく。


 毎年、金木犀が香り始めると、志村正彦・フジファブリックの『赤黄色の金木犀』の音源をあらためて聴くことにしている。大学の日本語表現の授業では、短い時間を使って曲の歌詞を分析して、日本語の詩的表現の特徴を伝えることがある。一昨日、この授業があった。このタイミングしかないと思って『赤黄色の金木犀』を取り上げた。学生に音源を聴かせた後で、特に〈赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって/何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道〉の箇所について次のようなことを語った。


  • 香りというものは我々の記憶の深いところに作用する。意識にも上らない何かの出来事と金木犀の香りが結びつき、無意識の底に張り付いているのかもしれない。
  • 〈何故か〉〈無駄に〉〈胸が〉〈騒いでしまう〉。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列による表現はなかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。〈胸が〉〈騒いでしまう〉想いの内実は明かされることなく、言葉の間に隠されているが、〈何故か〉〈無駄に〉という修飾語が痛切に響く。
  • 歌詞の全体に三拍の言葉によるビート感があり、〈強・弱・弱〉の反復がリズムの区切りとなっている。特に〈何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道〉の〈なぜか・むだに・むねが・さわい・で・しまう・かえり・みち〉というフレーズは、三拍の頭の〈な・む・む・さ・し・か・み〉の強い響きが、何かに急き立てられるような感覚を打ち出す。


 この九月サントリーが発売した発泡酒「金麦〈帰り道の金木犀〉」が、志村ファンの間で話題になった。そのWEBには〈アロマホップを使用し、上面発酵酵母を用いて醸造することで、甘く爽やかな香りを実現しました〉とある。〈帰り道の金木犀〉という命名は、〈帰り道〉〈金木犀〉という語を各々使うことはあるかもしれないが、〈帰り道〉〈の〉〈金木犀〉という言葉の連鎖になると、おそらく、「赤黄色の金木犀」の歌詞から着想を得たものだと思われる。あるいはむしろ、この歌に対するオマージュのような気もする。9月のアルコール飲料売上ランキングの1位はこの〈帰り道の金木犀〉だったという記事を読んだ。商品名のセンスが良いことも売れている要因だろう。



 販売開始後まもなくスーパーで買ってきたのだが、僕は酒がまったく飲めない。缶を眺めるだけの日々が続いたが、昨夜、甘い香りがする酒を飲む夢を見た。これまで酒を飲む夢を見たことは一度もない。間違いなく、金木犀の香りがしたことにも触発されて、僕の無意識が〈帰り道の金木犀〉を飲みたいという欲望を成就させたかったのだろう。


 今夜、10月17日のNHK「クラシックTV」という音楽番組を見た。テーマは「音楽会議ふたたび! エモいって何?」。〈最近よく耳にする「エモい」ってどういう意味?に音楽から迫る「音楽会議シリーズ」第2弾!エモい感情を生み出す音楽とは?おすすめの「エモ曲」と共にひも解きます〉という趣旨だった。

 この番組で〈世の中には「これはエモい!」と感じるエモ曲があります〉というナレーションとともに、フジファブリック「若者のすべて」のMV映像が一瞬だけ流れた。志村の声も聞こえてきた。「エモ曲」の代表曲としての扱いだが、時間が短すぎて「エモい」感じに浸れなかった。他にいくつもの曲が紹介されていたが、音楽はそもそもエモいものである。


〈エモい〉の辞書的な意味は〈感情が揺さぶられて何とも言い表せない気持ちになること〉だと説明されていた。このような意味合いであれば、志村正彦のかなりの、というよりもほとんどすべての曲は、エモいと言える。「若者のすべて」は、当然、エモい。しかし、エモい感情や感覚が最もあふれている曲は、「赤黄色の金木犀」ではないだろうか。

 この曲は聴き手の感情を揺さぶる。イントロとアウトロの志村によるアルペジオのギター音が流れ、歌詞の言葉は繊細に情緒深くつながる。曲が金木犀の香りを想起させる。音と言葉、様々な要素が複雑に共鳴して、感情を揺さぶり続け、何とも言えない気持ちにさせる。まさしく、〈何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道〉にいるようなエモい想いに聴き手は包まれる。


  金木犀が香りはじめた。「赤黄色の金木犀」に耳を澄ました。「金麦〈帰り道の金木犀〉」の缶を眺めていた。甘く香る酒の夢を見た。何故か、無駄に、僕の無意識が騒いでしまった。


2023年10月15日日曜日

植物、享楽、無限の痛み―「赤黄色の金木犀」[志村正彦LN338]

 数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い。この地では例年、九月の二十六日頃に香りはじめる。春、夏、秋、冬の四季というよりも、暑い、寒いという二つの季節に変わってきたというのが大方の実感であろう。その影響で、秋という季節が失われてきた。金木犀の花もどこか寄る辺がない。香りも微かに漂うだけだ。

 現実の季節の変容にもかかわらず、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」は確かな初秋の季節感を伝えている。


 赤黄色の金木犀の香りがして
 たまらなくなって
 何故か無駄に胸が
 騒いでしまう帰り道

 

 歌の主体〈僕〉は、〈金木犀の香り〉を身体で受けとめ、たまらなくなる。抑えがたい何かにとらわれる。〈何故か無駄に〉記憶の中の何かが回帰してきて〈胸が騒いでしまう〉。〈帰り道〉とあるのは、〈僕〉が実際に歩く〈帰り道〉であると同時に、過去の記憶への〈帰り道〉でもある。〈過ぎ去りしあなた〉と〈金木犀〉の記憶。〈香り〉の〈記憶〉への〈帰り道〉を〈僕〉は歩むことになる。

 香りは直接身体に作用する。香りの物質が鼻膣内の細胞を刺激したときに起こる感覚だ。身体にとって直接の享楽ともなる。

 

 精神分析家の新宮一成は、「夢と無意識の欲望」という論考で、聖書の「野の百合」の喩えについてのジャック・ラカンの言及を引用して、次のように述べている。(『無意識の組曲』岩波書店1997)

 

 ラカンはこの一節に触れてこう言っている。「野の百合、我々はそれを、すみずみまで享楽にゆだねられた、一つの体として想像してみることができる。……植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう。」(ラカン『セミネール第十七巻』)。ラカンにとって、植物が「享楽」を体現しているとすれば、動物は「快感」を体現している。精神分析では「享楽」と「快感」をはっきり区別しなければならないというのが彼の考えであった。動物というものは、「無限の痛み」のような享楽が最小限になるように、場所を移動する。それが動物特有の、快感原則に沿った暮らし方なのである。人間もその例外ではない。その中で、この暮らし方の外に出ようと意志する人のみが、自分をむち打って、苦行の中で植物のように暮らそうとするのである。

 

  〈植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう〉という文を理解することは難しいが、ラカンの言葉は読む者に作用する。「野の百合」が喩えであるように、喩えの表現として受けとめてみたい。喩えは連鎖させることができるだろう。


 志村正彦「赤黄色の金木犀」とラカンのこの言葉を意味や論理の関係として結びつけることはできないが、直感として連鎖するところがある。

 〈赤黄色の金木犀〉も〈無限の痛み〉のようなものとして咲いている。〈無限の痛み〉のように香っている。


 この曲を聴いていると、いつも、どこか、かすかに、痛みのような感覚におそわれる。


2022年9月29日木曜日

三拍の言葉-『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN317]

 一昨日の夜、仕事の帰りに建物から外に出た瞬間、金木犀の香りが漂っていた。毎年、甲府盆地では9月の26日か27日頃に香り始める。今年は例年通りだ。九月の中旬までは夏の暑さが続く。下旬になると秋が訪れ始める。金木犀は、夏の終わりと秋の始まりの狭間に香り出す。

 今日9月29日は、志村正彦・フジファブリック『赤黄色の金木犀』のシングルCDリリース日。2004年のことだからもう18年が経つ。

  久しぶりにこの曲をかける。言葉がリズムに乗って次第に加速していく。前へ前へというよりも、後ろから追いかけられるようにして、歩みを速める。その速度の感覚を志村正彦は巧みに言葉で表している。


 冷夏が続いたせいか今年は
 なんだか時が進むのが早い
 僕は残りの月にする事を
 決めて歩くスピードを上げた


 冷夏の後、秋を迎える。〈なんだか時が進むのが早い〉ので〈残りの月にする事を決め〉る。この〈月〉は九月だろう。歌の主体〈僕〉は〈歩くスピードを上げた〉。

 志村はこの歌について〈秋は夏が終わった憂いがあって、四季の中でも一番グッとくる季節だし、前々からいい形で秋の曲を作りたいと思っていたんです。秋の風景にはいろいろありますけど、今回はある帰り道に思ったことを瞬間的に切り取って曲にしました〉と述べたことがある。

  〈夏が終わった憂い〉とあるので、『赤黄色の金木犀』は『線香花火』『陽炎』などの夏歌との関連があることに気づく。〈憂い〉が色濃くなる季節、歩行の速度を上げる。〈僕〉はなんらかの〈憂い〉に追い立てられるように歩いているのかもしれない。憂いと焦燥感。そのリズムの加速がこの歌の感覚の鍵となっている。


 いつの間にか地面に映った
 影が伸びて解らなくなった
 赤黄色の金木犀の香りがして
 たまらなくなって
 何故か無駄に胸が
 騒いでしまう帰り道


 このブロックの言葉自体のリズムが三拍であり、ブレスを含めると四拍になることに、今まで気を止めていなかった。久しぶりに聴いて、言葉の三拍のリズムが妙に身体を貫いてきた。歌詞を平仮名にして記してみる。


 いつの・まにか・じめん・に・うつった
 かげが・のびて・わから・なく・なった
 あかき・いろの・きんも・くせい・の・かおり・がして
 たまら・なく・なって
 なぜか・むだに・むねが
 さわい・で・しまう・かえり・みち


 三拍の言葉によるビート感が基調にある。〈強・弱・弱〉の反復がリズムの区切りとなって、言葉が表出される。特に〈何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道〉〈なぜか・むだに・むねが・さわい・で・しまう・かえり・みち〉のところで、三拍の頭の〈な・む・む・さ・し・か・み〉の強い響きが、何かに急き立てられるような感覚を打ち出す。志村は言葉を切り取る「拍」の感覚にも優れていた。


 金木犀の香りが訪れる感覚にも似ている。突然、鼻腔に強い香り、刺激的な香りがどこからともなくやってくる。その後、やや弱い香り、甘い香りがなだらかに続いていく。金木犀の香りにも〈強・弱・弱〉のリズムがあるのかもしれない。

 あの美しいイントロ・アウトロのギターのアルペジオにも〈強・弱・弱〉のビートがあるようにも聞こえてくる。これはすべて聴き手としての僕の感覚にすぎないのではあるが、今日は三拍の言葉が強く響いてきた。


2021年11月21日日曜日

志村正彦の母校での講義 [志村正彦LN297]

 先週、志村正彦の母校の山梨県立吉田高等学校で、志村正彦の歌詞についての出張講義を行ってきた。担当の先生から山梨英和大学に直接の依頼があった(ロックの歌詞に関する私の講義を聴いた吉田高校出身の学生が、その内容を母校の先生に話してくれたことがきっかけになったそうである)。志村の母校からの依頼はとても嬉しかった。光栄でもある。そもそもフジファブリックは高校時代のバンドが元になっている。この高校での出会いや様々な経験は、志村正彦という人間の形成にとって重要なものとなった。

 この講義は、1学年の総合的な探究の時間「富士山学Ⅰ」、スポーツ・観光・国際・芸術文化・街づくり・防災の6分野の講座のうちの一つだった。今年度のテーマは「地域を知ろう!」。担当の先生の教科が音楽であり、芸術文化の分野だったことことから、富士吉田出身、吉田高校の卒業生である志村正彦がテーマとして選ばれた。

 担当の先生とメールや電話で打ち合わせをした。「若者のすべて」教科書採用の話題で盛り上がった。合唱部も指導していて、「若者のすべて」の四部合唱もすでに試みたそうである。来年度からの吉田高校の音楽の授業では、「若者のすべて」が重要な教材になることは間違いない。吉田高校でも志村正彦の知名度が上がり、関心が高くなっている。放送部でも志村に関する番組を制作したそうである。音楽の授業で「若者のすべて」を歌い奏でる。部活動で志村正彦を探究していく。吉田高校の今後の活動がとても楽しみである。

 当初はオンライン遠隔授業の予定だったが、山梨県ではコロナ感染者も激減していたので(最近は感染者ゼロが続いている)、高校での対面授業に変更することができた。せっかくの機会なので、私も担当の先生も対面の方が良いと判断した。

 生徒の事前アンケートが送られてきて、志村正彦の存在は知ってるが、その作品はあまり聴いたことがないということが分かった。昨年、山梨県内では、「若者のすべて」が「STAY HOME」のCMで繰り返し流されていたので、この曲は知っているようだった。この高校は進学校であり、富士吉田市以外の市町村からも入学してくる。そのような事情も影響しているかもしれない。

 今回の講義では、音楽の教材となる「若者のすべて」と共に、「富士山学」の「地域を知ろう!」というテーマから、富士北麓地域の風景や季節感とのつながりが深い四季盤の作品、「桜の季節」「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」も取り上げることにした。「志村正彦・フジファブリック-四季盤と「若者のすべて」の歌詞を読む-」というテーマを設定して、特に四季盤については新たにSLIDE資料32枚を作成した。授業時間は45分と短いので、その全てを講義することはできない。講義では要点を話し、SLIDEは印刷資料やpdfにして配付するように計画した。そのSLIDEの一枚を紹介したい。(ABCという記号は三項から成る構造の各要素を示している)



 四季盤の春夏秋冬は、〈桜→陽炎→金木犀→銀河〉と変化していく。その季節の舞台となっている場は、〈坂の下→路地裏→帰り道→丘〉と移動していく。志村は具体的な地名や場所を記してはいないが、富士吉田がその場としてあるいは原風景としてイメージされていることは確かであろう。今回、四季盤の曲を繰り返し聴いていくうちに、富士吉田という場の中で四季の変化と具体的な場所の移動が循環しているように感じた。そのような時と場の循環のなかで、歌の主体(僕)は、言葉では伝えることのできない想いを抱えている。そのような観点に基づいてSLIDE資料を構成した。「桜の季節」「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」の四つの作品の構造を個別に分析する資料を作成した。

 当日は甲府から車で吉田に向かった。あいにく富士山は雲に隠れていた。吉田高校は二十年ほど前に校舎が新築された。この校舎に入るのは初めてだった。その前の旧校舎で志村は学んでいた。三十年ほど前、僕の友人が吉田高校に勤めていたときに、旧校舎に一度だけ行ったことがある。そんなことも思い出した。

 受付を済ませ待機していると生徒が迎えに来てくれた。1年生の教室は四階にあった。廊下の窓から周辺の山々が見えた。ところどころ紅葉していて美しい。教室に入ると生徒でいっぱいだった。コロナ禍での外部講師による出張講義ということもあり、生徒はやや緊張している様子だ。教室の後に数名の先生もいらしたのでこちらも少し緊張する。

 プロジェクターでSLIDEを投映しながら、〈志村正彦は富士吉田の坂の下や路地裏や丘を繰り返し歩いたのだろう。帰り道は高校から自宅までの道のりかもしれない。そして、春に桜を見て、夏は陽炎が揺れ、秋の金木犀の香りに包まれ、冬は銀河のきらめく星を眺める。季節の移ろう中で歌の主体(僕)は、誰か大切な人に想いを伝えようとするのだが、言葉で伝えることは難しい。そのような高校時代の経験が四季盤の歌詞に反映されているのではないだろうか〉というように、生徒に直に語りかけた。

 いつも心がけていることだが、こういう講義の場合、私自身の歌の解釈を示すことは最小限にとどめている。歌詞を聴き、読む上で参考となる語り方の構造やモチーフの関係の分析と、作品についての志村の証言に限定している。歌の解釈は聴き手のものである。歌の意味は、歌い手と対話しながら、究極的には、一人ひとりの聴き手が作りだすものである。この講義は一つの参考資料にすぎない。生徒自身が志村正彦・フジファブリックの言葉と楽曲を経験して、その世界を味わって読みとってほしい。吉田高校の生徒にそのことを伝えたかった。

 吉田高校のHPの新着情報に、吉高フォトダイアリー(1学年総合的な探究の時間「富士山学Ⅰ」)という記事がUPされていた。当日のいろいろな分野の講義の写真が十数枚掲載されている。そのなかに、黒板に「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターが小さくだがかすかに見えるものがある(SLIDEは文字と図が中心なので、このポスターを掲示していただいた)。ポスターの横で私が立っている。当日の雰囲気が伝わる大切な記念写真となった。

 2011年、当時勤めていた高校で志村正彦の歌詞の授業を始めた。ちょうど十年後に彼の母校で授業を行った。この間、勤務先の高校や大学でこのテーマの授業を続けてきた。今年はすでに三つの高校で出張講義をした。拙い講義を受講してくれた生徒・学生、そして高校・大学という場に感謝したい。あらためて十年という時の重みを想う。

 


2019年10月22日火曜日

金木犀の香り、ふたたび。 [志村正彦LN237]

 一週間ほど前からだが、ほのかに金木犀の香りがする。九月の下旬に香り始めたと以前書いた。でもすぐに消えてしまった。今年はほんの短い間だけなのかと思っていたら、このところふたたび金木犀の香りが漂う。どういうことなのか。花についても植物についても知識がないが、一部の花が咲き始め、遅れて、別の花が咲いたということなのか。とにかく例年にない現象だ。不思議である。

 20日、フジファブリック 15th anniversaryのSPECIAL LIVE at 大阪城ホール2019「IN MY TOWN」が成功のうちに終わったようだ。フジファブリックのファンにとって特別なライブだったのだろう。そのことは祝福したい。12月にwowowで放送されるのでそれを待ちたい。

 今日は朝から冷たい雨が降っていた。祝日で一日家にいたが、冬物を取り出した。ついこの前まで夏の暑さが続いていた。台風が来て、悲惨な災害が起きた。山梨は東京方面の交通が断絶した。季節の変調が続いている。
 夕方、「富士山で初冠雪 例年より22日遅く」とニュースが伝えていた。一日でかなり雪を被った富士山の映像。これまでは夏山のような富士山だったのに、一日で景色が変わった。

 金木犀の香りに戻りたい。今年の不思議な香り方は、金木犀がその香りの名残を惜しんでいたのかもしれない。過ぎ去ってしまわないようにと。
 志村正彦・フジファブリックの『赤黄色の金木犀』は、時間や季節の流れ方を歌っている。過ぎ去ったものを追いかけていく。


  もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても 心の中 準備をしていた


 「過ぎ去りしあなた」に伝えることは「叶えられない」。時を遡ることは不可能だが、そうだとしても「準備をしていた」「心の中」は何を追い求めていたのか。準備するのは時間との対話でもある。


  冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を 決めて歩くスピードを上げた


 「時が進むのが早い」ことに気づいた「僕」は「歩くスピード」を上げて、「残りの月」にする何を決めたのか。歩行の速度がその何かを追いかけていく。

 すべては「冷夏が続いた」せいなのか。季節の変調に呼応するかのように、「僕」は時の速度を感じ、時の流れを想う。「僕」は「過ぎ去りし」ひとやものやことを追いかけようとする。ほんとうは逆転していて、「過ぎ去りし」ひとやものやことが「僕」を追いかけてくるのかもしれない。


  赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって
  何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道


 一度消えてからふたたび香り始めた金木犀。香りがその香りを想起させるためにもう一度、いや何度も漂いだすかのように。なんだかたまらなくなった。追いかけていくもの。追いかけてくるもの。過ぎ去っていくもの。回帰してくるもの。

 今年の秋は、金木犀がふたたび香り、「たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう」ような経験をした。そのことをこれからも想いだすだろう。
 秋は短く、もう冬が訪れる。

2019年6月30日日曜日

FAB LIST I - 2004~2009 投票結果 [志村正彦LN223]

 注目の「FAB LIST I - 2004~2009」投票結果が発表された。1位から15位までの15曲が『FAB LIST 1』に収録される。特設サイトから30位までの作品を列挙する。


 1 .赤黄色の金木犀
 2. 星降る夜になったら
 3. 若者のすべて
 4. 茜色の夕日
 5. バウムクーヘン
 6. 虹
 7. 陽炎
 8. サボテンレコード
 9. 銀河 (Album ver.)
10. 花屋の娘

11. ロマネ
12. Sugar!!
13. 笑ってサヨナラ
14. 桜の季節
15. Anthem
16. TAIFU
17. ペダル
18. ダンス2000
19. 記念写真
20. 線香花火

21. シェリー
22. TEENAGER
23. エイプリル
24. 花
25. 環状七号線
26. Day Dripper
27. 打上げ花火
28. タイムマシン
29. クロニクル
30. NAGISAにて


 僕が選んだのは『花』、『セレナーデ』、『ルーティーン』の三曲。『花』は24位、『セレナーデ』、『ルーティーン』は30位までにも入らず圏外。予想はしていたが、実際はどのくらいの投票だったのだろう。せめて50位くらいまで公表してもらえれば、フジファブリック・ファンの好みが分かるのだが。

 1位『赤黄色の金木犀』、2位『星降る夜になったら』、3位『若者のすべて』の並びで意外だったのは『星降る夜になったら』。この作品は作詞:志村正彦、作曲:金澤ダイスケ・志村正彦。フジファブリックの中では明るい曲調とロマンティックな歌詞が特徴である。若い世代に支持者が多いようだがそれが反映された2位なのだろう。3位の『若者のすべて』はトップ3に入るのは確実だと予想していた。志村正彦作品の中で最も知名度が高く、人々に愛されている曲であることは間違いない。

 『赤黄色の金木犀』が1位だったことには納得できる。歌詞、楽曲、演奏ともに完成度がきわめて高い。総合的な完成度という観点ではナンバー1といえるだろう。ファンが支持しているのもうなずける。
 歌詞の世界は、金木犀の花、香り、秋の季節感と日本文学の伝統とも呼応する。「過ぎ去りしあなたに」の「し」という文語助動詞も効いている。イントロアウトロの志村が奏でるアルペジオ。次第にスピート感を増すテンポ。言葉の世界と楽曲が見事に溶け合っている。ミュージックビデオの同一ポジションを維持した実験的な撮影も秀逸だ。
 以前この歌詞について書いた拙文を引用する。


  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。


 あらためて『赤黄色の金木犀』を聴いてみた。
 歌詞の行間に沈められた作者志村の想いが静かに溢れてくる。
 「僕」は僕の「影」を追いかけ、僕の「影」が「僕」を追いかける。この曲には何かに追いかけられるような焦燥感がある。夕暮れ時に「僕」は「帰り道」にいるのだが、その道は遠く感じられる。
 「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」という言葉の連鎖は、志村正彦が表現した言葉の中でも最も痛切に哀切に響いてくる。

 日本語ロックの枠を超えて日本語の歌として傑出した作品『赤黄色の金木犀』がファン投票の1位だったことを素直に喜びたい。

 『FAB LIST 1』は8月28日EMI Records / UNIVERSAL MUSICから発売される。初回生産限定盤は、TOP15曲を収録したプレイリストCDとフジファブリックEMI在籍時代のツアーやライブより厳選した貴重なライブCDの2枚となる予定だ。

2016年10月31日月曜日

瞬間と永遠―『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN143]

 フジファブリック『赤黄色の金木犀』、四季盤の秋の曲はどのようにできあがったのだろうか。
 志村正彦はあるインタビューで次のように語っている。(oricon style  文:井桁学)

秋は夏が終わった憂いがあって、四季の中でも一番グッとくる季節だし、前々からいい形で秋の曲を作りたいと思っていたんです。秋の風景にはいろいろありますけど、今回はある帰り道に思ったことを瞬間的に切り取って曲にしました。

 歌詞の該当部分を抜き出してみる。

  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道          (『赤黄色の金木犀』志村正彦)


 ある帰り道で「金木犀の香り」がする。その香りで「たまらなくなって」、「何故か無駄に胸が騒いでしまう」。香りというのは我々の記憶の深いところに作用する。意識にも上らない何かの出来事、その香りが意識の底に張り付いているのかもしれない。「何故か」「無駄に」と形容しているように、それがで何あるかは歌の主体にとっても分からない。あるいはすぐには思い出せないものかもしれない。

 「金木犀の香り」の到来、「胸」の騒ぎ、どちらも瞬間的にしか切り取ることができないもの、それを楽曲に変換していく。言葉で語ることのできない何かを言葉で分節しないままに、身体の律動や感覚の揺れとして楽曲を形作る。前奏と後奏のアルペジオの印象に近いものかもしれない。その流れの中で、言葉が、歌詞の元となるものが浮上する。それは断片的なモチーフに過ぎないが、楽曲と複合していくことで『赤黄色の金木犀』の原型が形成される。これはあくまで推測であるが。

 フジファブリックがスタジオに入り、楽曲が完成する。前回も引用した志村の発言がそこからの過程を明らかにしている。

ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。

 夏が終わった憂い。秋の日の帰り道。その時その場の瞬間的な想いから、言葉として楽曲として『赤黄色の金木犀』が完成するまではかなりの時間を要したことだろう。
 言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げていく。瞬間が作品となる。ある永遠となる。それを志村正彦の時間と名付けてみたい気がする。

2016年10月23日日曜日

「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」-『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN142]

 一週間ほど前、甲府のある通りを歩いている時、ほのかに金木犀の香りがした。もうこの花の季節は終わっているようなので意外だった。似た香りの違う花だったのかもしれない。あるいはやはり、少し遅く咲く金木犀の種があるのか。分からなかったが、記憶の中の香りと比べてすでに懐かしい気がした。

 昨年、ある古書市の目録で『ニューミュージック・マガジン』(1969年4月~1979年12月)、『ミュージック・マガジン』(1980年1月~現在)の1970年から2012年までの500冊を超えるセットが売り出されているのを見つけた。70年代半ばから80年代半ばまでの号は毎月購入していたが、その後の号はほとんど持っていなかった。この雑誌は基本として洋楽中心だが、時々邦楽についての特集もある。冊数が冊数だけに値は張ったが、リーズナブルな値段だった。初期の号を含めた一揃いが古書市場に出ることはなかなかない。思い切って抽選に応募して、運よく入手できた。大量の雑誌が宅配便で運ばれたときは置き場に困ったが、大きな書棚一つを用意してなんとか配架できた。

 1969年創刊のこの雑誌は、少なくとも70年代までは日本語ロックをめぐる考察や議論の中心となったメディアである(『ニューミュージック・マガジン』の誌名の時代と完全に重なる)。索引が充実しているので資料としての価値も高い。
 時々、余裕があるときに思いつくままに読んでみようとした。なかなかその時間が取れずにいたが、先日、背表紙を眺めていると2004年12月号の「特集 日本音楽の現在」という文字が目にとまった。取り出して目次を見ると驚いたことにフジファブリックの二頁に及ぶ記事があった。特集の一つではなく、「Tune In!」という話題のバンドやアルバムを取り上げる企画だ。これまでフジファブリックを取材した雑誌はかなり調べ集めてもきたが、『ミュージック・マガジン』は未確認だった。迂闊だったが、見つけることができたのは幸いだった。

 記事名は『フジファブリック=謙虚で苛烈な80年代生まれバンドを”追ってけ追ってけ”』、取材と文は志田歩氏。11月発売のメジャー1stアルバム『フジファブリック』に焦点を当てたもので、写真1頁、文章1ページの構成だ。当然だが写真も未見の一枚、「硬派」の老舗音楽誌という性格を反映してか、5人のメンバーはやや緊張した真面目な表情をしている。

 記事の一部を紹介したい。志田氏は「特に本作にも収められた最新シングル〈赤黄色の金木犀〉は、楽曲、歌詞、アレンジの絡み方が、ただならぬ密度の濃さを感じさせる」と述べ『赤黄色の金木犀』を高く評価していた。この楽曲についての志村正彦の発言が引用されている。

そうですね。自分でもあの曲は聴く度に発見があります。勢いだけでできる曲じゃない。根本的なメッセージがないと伝わらないですから。ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。そもそも自分にとって引っかかりの意識が持てない歌詞は忘れちゃいますから、歌ってる自分についてはウソがない感じですね。

 曲は聴く度に発見があること、根本的なメッセージがないと聴き手に伝わらないこと。歌ってる自分についてウソがないこと。志村が繰り返し語ったことがすでにこのインタビューに現れている。さらに、「歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ」ということを明言しているのが貴重だ。他のインタビューでも同様の発言があるので、志村は所謂「曲先」で後で歌詞を作るのが基本だったようだ。ただし、「曲先」「歌先」と言っても、創作は複雑な過程であり、意識的な作業の裏で無意識なものが様々に動いている。楽曲、歌詞、どちらが先に来てどちらが後に来るとしても、全体としてみれば、一つのものとして創造されるとも考えられる。現実の作業には順序があるのは当然だが。

 志村の作品は、言葉と楽曲のファブリック(織物)の完成度が高い。言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げている。彼がロックの曲と歌詞の定型に寄りかかることなく、楽曲と必然的に結びついた言葉を練り上げていったことは、フジファブリックのアルバムを聴けば明らかだ。ここで述べられた「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」という志向がそれを証している。

     (この項続く)

2016年9月26日月曜日

ある問いかけ [志村正彦LN141]

 一昨日、富士の山頂に初雪が降ったそうだ。今朝、勤め先のいつもの位置から遠くの富士を眺めたが、甲府からではやはり分からない。
 今夜、駐車場に向かう途中、あの香りが微かな風に乗って鼻腔に届いた。金木犀だ。昨年も今頃だった。家に帰り、フジファブリック『赤黄色の金木犀』をかける。毎年の恒例だが、歌は不思議なもので、不意にある言葉が迫ってくる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった   (作詞・志村正彦)

 彼岸が過ぎて、日に日に昼が短くなっていく。陽は傾き、影が長く伸びるようになる。陽が弱くなり、影がうすく、その輪郭もぼんやりとしてくる。この歌詞の一節は、この季節に特有の「影」を描いている。影が季節の影となる。そんなことをふと思った。

 HINTOの新作『WC』がリリースされた。注文したが売れ行きがよく在庫がないようでまだ届かない。新曲『なつかしい人』のミュージックビデオを見たが、言葉、楽曲、演奏、映像、すべてが極めて高い次元で融合している。アルバム全体を聴くのが待ち遠しい。
 ネットを検索すると、HINTOのドラムス菱谷昌弘氏のtwitter(ひしたにビッツまさひろ https://twitter.com/hishitanese 9月21日) にこういう呟きがあった。

作り手がその作品を作るにあたって、どんな想いで、どれだけ頭ひねって、どれだけ苦労して作りあげたのか、ちゃんと批評する人たちには今一度その事を考えてみて欲しい モノを作る人なら尚更

 率直であるがゆえの深い問いかけだ。僕は批評家でも作家でもないこのblogの単なる書き手だが、この菱谷氏の言葉は肝に銘じたい。

 数分ほどのロックの歌。それらが集まった数十分のアルバム。
 その作品に、どれだけの「想い」と「頭」と「苦労」が込められているのか、どれだけの時間が凝縮されているのか、どれだけの闘いの痕跡があるのか。そのことを丁寧に測量するのがこの「偶景web」の仕事だと考えている。あえて「仕事」と書いたのは、自己表現や趣味ではないという実感があるからだ。「しごと」の本来の意味、「すること」というのか「すべきこと」というのか。すべきことであるから、する。続ける。

 昨日、ページビューが十五万を超えた。拙文を読んでいただき、感謝を申し上げます。

2015年9月25日金曜日

雨と水と金木犀 [志村正彦LN113]

 今夜、仕事を終え、帰り道を歩き出した。
 昨日からの激しい雨は少し小降りになっていたが、まだ視界は雨の空気に覆われていた。
 歩き出すと、雨の匂いがする。ほのかに水の香りを感じる。霧雨のようでもある。鼻腔だけではなく、皮膚の周りにも、雨の水滴の感触のようなものが少しばかりまとわりつく。

 さらに歩き出す。
 やや広い空き地に踏みだしたとき、かすかに甘い香りがした。何かはわからない。花の香りであるようだが、水の香りと混じり合っていてすぐに識別できない。
 金木犀の香りが漂いだしたのだ、と気づいたのは、今が九月下旬であることが頭に浮かんできてからだ。九月の下旬という時節が、金木犀の季節を告げていた。

 ただし、雨と水の香りと溶けあっているようで、金木犀の香りは実に仄かだ。仄かではあるのだが、いや、仄かであるがゆえにだろうか、それは記憶を呼び覚ます。

 昨年のことを思い出した。確か、昼間、風に乗ってそれは訪れた。今年は、雨に運ばれるようにして訪れた。
 昨年も今年も、樹は見えない。「赤黄色」の花も見えない。見えないからこそ、香りだけが漂う。あたりが、少しずつ、金木犀に染め上げられる。


         赤黄色の金木犀の香りがして
    たまらなくなって
    何故か無駄に胸が
    騒いでしまう帰り道         ( 『赤黄色の金木犀』志村正彦 )



 年齢を重ねるということには絶対に抗しがたい何かがある。なすすべもなく、抗しがたく、感受性もうすまっていく。
 年を積み重ねることの遙か前の年月、むしろ時が進まないような、時が止まってしまうような年月にしか、(それを若さの時といえばそうなのだろうが)「何故か無駄に胸が騒いでしまう」という類の感受性と身体の感覚に包まれることはない。

 感受するとは、自分の身体の感覚を、心がくりかえし受けとることであるのなら、年を重ねると、感受性は自然にうすれていく。

 「何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道」、そのような帰り道を、志村正彦も、ある年齢を過ぎれば、歩むことはなかったのかもしれない。それが失われてしまっても、別の帰り道が待っていたかもしれない。

 そんなことをなぜか考えてしまった。

2014年11月24日月曜日

歩行-『赤黄色の金木犀』と『若者のすべて』-[志村正彦LN95]

 
 寒さが厳しくなり、甲府盆地の北側の山々の紅葉も終わりに近づいている。それほど高い山ではないので鮮やかではないが、その分おだやかな「赤色と黄色」の風景が続いている。
 ここ数年、相対的に暑い季節と、相対的に寒い季節という、暑さ寒さの感覚からすると、「二つの季節」に変化しているようにも感じる。夏と冬という季節が際立ち、その狭間に春と秋という季節が佇む、そんな印象なのだが、風景には、やはり、春、夏、秋、冬という「四つの季節」が色濃く反映されているようだ。秋の色彩は、金木犀の花の「赤黄色」で始まり、山々の樹木の「赤色と黄色」で終わろうとしている。

 歌われる世界において、歌の主体をどのように動かすのか。作者の好む型があるが、志村正彦の場合、歌の主体は歩行することが多い。
  『赤黄色の金木犀』では、第2ブロックの「僕は残りの月にする事を/決めて歩くスピードを上げた」が「行動の型」の土台をなすだろう。「何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道」とあるように、この歩行は「帰り道」にあり、「いつの間にか地面に映った/影が伸びて解らなくなった」とあるように「地面」の「影」を見つめる視線もある。歌の主体「僕」は、「歩くスピード」を上げて、「地面」の「影」と共に、「帰り道」を歩行している。

 「僕」は「過ぎ去りしあなた」を想起しながら歩いている。この「あなた」は、もしかすると、純然たる他者ではなく、自己自身、「僕」の影が投影されているのかもしれない。「過ぎ去りしあなた」には「過ぎ去りし僕」が不可分に結びついている。だから、この歩行は時間をさかのぼる行為でもあるのだ。

 志村正彦の歌には、「歩く」「僕」、《歩行》する主体がよく現れる。それは歌の中の現実の場面であったり、過去の回想シーンの中の出来事であったりする。


 茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
 晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと     『茜色の夕日』


 歌いながら歩こう 人の気配は無い
 止めてくれる人などいるはずも無いだろう          『浮雲』
 

 すりむいたまま 僕はそっと歩き出して             『若者のすべて』


  『茜色の夕日』の主体は、「日曜日の朝」「誰もいない道 歩いたこと」を想い出している。『浮雲』では、「歌いながら歩こう」とする主体がいる。『浮雲』は「いつもの丘」、彼の実家近くの眺めのいい「丘」が舞台となり、高校時代の経験を元に作られた歌だ。また、『茜色の夕日』の「歩いたこと」の回想も、彼の故郷での出来事のような気がしてならない。この二つの歌が彼の初期作品であることも関係している。

 7月に開催された「ロックの詩人 志村正彦展」では、志村正彦の母妙子さんによる『上京の頃』と題したパネルが展示された。「自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿」という、母親でしか捉えられない視点からの大切な証言である。(「ロックの詩人 志村正彦展」web「ご両親・ご友人・恩師の言葉」(http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html

 志村正彦は、散歩することが好きで、故郷の街や丘をよく歩いていたようだ。特に上京前には、富士吉田の風景を記憶に刻みつけるように歩いていたに違いない。それは、その時点の眼前の風景であると共に、すでにその時点では過去となり回想となった出来事の風景も含まれていた。そのような彼の経験が、『茜色の夕日』、『浮雲』、そして『赤黄色の金木犀』には映し出されているのだろう。少年期から青年期にかけての、その時代にしか持ち得ない「孤独」の影のようなものが滲み出ている。

 これらの初期の作品に比べて、『若者のすべて』の「歩き出して」からはむしろ、都市の街中を歩き出そうとする主体の決意のようなものが伝わってくる。一連の『若者のすべて』論で、《歩行》の系列という枠組を《縦糸》にして、《花火》の系列、「最後の花火」を中心とするモチーフを《横糸》にして、『若者のすべて』の物語は織り込まれている、と書いた。

 彼は『音楽と人』2007年12月号で、「一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに」と述べている。この時期の彼にとって、歌詞のモチーフという以上に、彼自身の人生において、「歩き出す」ことの意味が重要となっていいる。

 《歩行》というモチーフは彼が初期から追い続けてきたものだが、そのモチーフの歩みの到達点が『若者のすべて』だ。両国国技館ライブのMC「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたるってのがトクじゃないかな、って思って。だから言ってしまえば、止まってるより、歩きながら悩んで」と作者が語っているように、歌の主体は、「歩きながら」、「感傷」や「悩み」との対話を試みる。そして、歌の主体は心のスクリーンに、「僕」と「僕ら」の物語を上映していく。

 作者志村正彦はある種の成熟を経験したのだろう。そのことによって、歌の主体の《歩行》もある種の自由と自在さを手に入れた。それは『若者のすべて』の楽曲にも影響を与えている。ピアノを中心とするリズムはのびやかでゆったりとした雰囲気をもたらしている。聴き手にある種の「解き放たれた」感覚を与えるというか、あるいは、ある種の「眠り」へと導くような効果もあるかもしれない。切なくやるせないが、同時に、ここちよく漂うような感覚とも言えよう。

 それに対して、『赤黄色の金木犀』のリズムは終わりに向けて次第に早くなる。歌詞の言葉も、メロディもリズムも、歌詞の一節に「歩くスピードを上げた」「何故か無駄に胸が騒いでしまう」とあるように、その速度を上げていく。ミュージックビデオの志村正彦の眼差しも、次第に何かに追い立てられるように見えてしまう。アウトロになると、その進行は押さえられ、ひとまずの安らぎを覚えるのだが。

 『若者のすべて』と『赤黄色の金木犀』の言葉とリズムの違いは、モチーフとなっている《歩行》の律動の差異から起きているのだろう。《歩行》についてのさらなる考察は、他の楽曲を含めて、別の機会に設けたい。

2014年10月26日日曜日

「時」と「影」-『赤黄色の金木犀』2 [志村正彦LN93]

 『赤黄色の金木犀』は、ロック音楽では標準的な四分ほどの時間を持つ作品だ。
 以前ある若者が、この数分の短い時間の中で金木犀が香り始め、曲が終わると共にその香りが消えていくように聞こえてくる、と筆者に語ってくれたことがある。四分という時の中で、金木犀が香り続ける。若者らしい感受性にあふれた捉え方だ。

 短い時の流れの中で生まれそして消えていくもの。ロック音楽そのものが数分間の生成と消失をその宿命としている。そしてまた、時の中の生成と消失は、志村正彦が繰り返し描いたモチーフでもある。『赤黄色の金木犀』は次のように歌い出される。

  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた


 「過ぎ去りし」という文語的な表現の助動詞「し」は、過去の出来事を主体的に直接的に経験したことを表す。「あなた」と歌の主体との間には、後戻りすることのない時間が流れている。
 「もしも」「のならば」という仮定は、途中に「叶えられないとしても」という留保を挟みながら、「準備をしていた」という帰結に掛かっていく。歌の冒頭にある、この複雑な仮定と帰結のあり方は、歌の主体「僕」の「時」への関わり方がかなり独特であることを告げている。

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた


 「冷夏」が続くと「時が進むのが早い」。秋がすでに訪れてしまった気分になるのだろうか、季節と時の歩みに敏感な「僕」は、「歩くスピード」を上げる。季節は時の循環の感覚を支えるが、「冷夏」のように循環のリズムが崩されると、時の歩みが一気に早まる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。
 「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。
 一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。
 「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。

 
 歌の主体「僕」は「帰り道」にいる。「僕」は僕の「影」と共に、日々の生活の中での短い「時」の旅を終えて、帰路についている。楽曲のリズムも、次第にテンポが速まり、歌の言葉を追いかけるようにして、四分間の音楽の旅を終える。

    (この項続く)

2014年10月21日火曜日

季節の中の『赤黄色の金木犀』 [志村正彦LN92]

 先週の木曜日。富士の初冠雪。その日の夕暮れ、西側から陽が当たり、富士が赤く照り返されていた。
 甲府盆地からは夕暮れ時の「紅富士」が、やや遠景ではあるのだが、時に現れる。青黒い御坂山系に遮られて、富士は半分ほども見えないのだが、その白い肌が薄赤く染まる。台風も過ぎ去り、空の青も透き通っていた。彩りが美しい。甲府盆地からやや南西側にある富士山の位置がこの幸いをもたらしている。
 富士が雪化粧をすると、秋を通り越し、冬が近づいている実感を持つ。

 一月近く前になる。9月の下旬、甲府でも金木犀が香りだした。
 昼間、勤め先の近くで、香りをのせた風に包まれた。見渡しても、金木犀の樹は見えない。少し歩くと、香りが強まったり弱まったりする。強まるあたりで金木犀を探しても、見えない。香りをたよりに歩行を続ける。しかし、相変わらず樹の姿は見えない。探すことをあきらめて立ちつくす。樹の姿が現れないからこそ、風景が金木犀に染め上げられる。
 一週間ほど経つと、金木犀の香りは消えてしまった。香りの命は短く、目に見えない金木犀の風景も過ぎ去ってしまう。

 十年前の2004年9月29日、『赤黄色の金木犀』シングルCDがリリースされた。その日の前後、このことに触れたツイートが多かったようだ。十年という時を経てもますます、この作品は秋の季節の歌として聴き継がれている。
 ミュージックビデオの監督スミス氏も「懐かしい」と呟いていた。このMVは出色の出来映えだ。長野県上田市でロケされ、同一のポジションで撮影したシーンをつなげていくという作業を経て完成した。撮影と編集の作業そのものが、秋の日の時の流れを感じさせる。この季節に久しぶりに見ることにした。

 二十四歳の志村正彦はやや暗い眼差しでこちら側を見つめている。珍しく、視線はまっすぐなのだが、それでもやはり少しだけ傾けているのが彼らしい。クリーム色のテレキャスターを弾き、歌いかける。独自の言葉の世界が広がっていく。
 イントロとアウトロのギターの旋律は、金木犀の香り、どこからとも流れてくる風に乗った香り、その目には見えない動きを奏でている。ギターリストとしての彼の才能を感じさせる。

 今、巡回中のフジファブリックの LIVE TOUR 2014 "LIFE"の仙台公演で、『赤黄色の金木犀』が演奏されたそうだ。2010年7月、「フジフジ富士Q」でクボケンジが歌った以来のことになるのだろう。山内総一郎がどのように歌いこなしたのか、興味深い。志村正彦を離れて、この歌はどのように聴き手に伝わっていくのか。そのことに関心がある。『赤黄色の金木犀』は、志村の作品の中でも最も彼らしい言葉の世界を構築しているからだ。

 季節の感覚が薄まりゆくこの時代、金木犀という花の香りや『赤黄色の金木犀』という歌の響きによって、私たちファンは、秋という季節を感じ、秋という季節を想っているのかもしれない。

 (この項続く)