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2013年4月28日日曜日

聴き手中心の歌(志村正彦LN 22)

 前回、『茜色の夕日』に関連して言及したことについて、もう少し書いていきたい。
 志村正彦の場合、自分自身を、自分の歌の第一の聴き手として歌を作り上げていくというスタンスが、他の歌い手に比べて際立っている。なかなか適切な言葉が思い浮かばないのだが、仮に、彼の歌のあり方を「聴き手中心の歌」と名づけよう。
 日本の音楽シーンの中で、歌い手中心の歌、歌い手が歌いたいものを作るというスタンスではなく、聴き手中心の歌、聴き手が聴きたいものを創造するというスタンスを、志村正彦は徹底させたのではないだろうか。その聴き手中心の歌というのは、まず第一に自分自身を聴き手とするものであるが、自分に閉じられていくのではなく、むしろ、より普遍的な聴き手を対象とするものである。

 彼は、『bounce』259号(2004/10/25)の久保田泰平氏とのインタビューで、メジャーデビュー作『フジファブリック』について次のように語っている。(http://tower.jp/article/interview/2004/11/11/100039281

「いろんな人に聴いてもらいたいと思ってますからね。無理矢理聴いてもらう、っていうのじゃなくて。音楽性は豊かだけど音楽に詳しいような人しか聴かないバンドって、すごいと思うけどなりたいと思わない。それこそ高校生の人にも聴いてもらえて、音楽としてもちゃんとしてるっていうのが理想だと思ってます」

 この発言から分かるように、彼が求めたものは、聴き手を限定するものではなく、彼の歌をまったく知らない人にも聴いてもらえるような音楽であった。彼はおそらく普段ロックを聴かないような人に自分の歌を届けたかったはずだ。聴き手中心の歌というのはこのような意味の歌である。それは、聴き手に迎合するのでもなく、聴き手の好みにあわせるのでもなく、端的に言えば、流行りのもの、ヒットしそうなものを追求するのでもない。

 最近の日本のロックやJポップは(「最近の」という漠然とした言葉であるが、具体的な作品を示す意図はないのでこのように書く)、聴き手に届いていかない歌が多いような気がする。あるいはもともと届ける気などない、ただ単にビジネスとして、生産され消費される歌が多すぎる。そのような傾向が、ビジネスとしての音楽の衰退を招いていることは間違いない。

 そのような状況下で、優れた作品を作り続けている音楽家もいるが、ビジネスとして成立するかどうかというという境界線で、苦しい立場に追い込まれているようだ。しかし、インターネットという環境の中では、ビジネスが縮小しても、コストを削減することで、音楽の伝達が成立する可能性があることは、一つの希望であり、今後ネットを利用する方法はさらに発展していくだろう。
 また、聴き手の立場からすると、「現在のシーン」を追いかけるという呪縛から離れて、過去の音源、日本語のロックの半世紀近い歴史とその蓄積からなる作品群を主体的に聴いていく方向がある。この方向はこれからますます強くなっていくだろう。

 現在の「メジャー」なアーティストは、ネットを使う「マイナー」なアーティストと過去の「メジャー」さらには「マイナー」なアーティストという二つの方向から追い上げられていると言ってよい。
 先の引用と同じインタビューの中で、彼はこう語っている。

「時代とか関係なく、グッとくるものはなんでも聴いてるんですけど、いちばんかっこいいと思うのは、ロックのクラシックと、そういうものを基盤にした日本の歌。自分が持ってるCDのなかで相変わらず聴いているものっていったら、ビートルズとか70年代のロックとか、〈オリジナル〉の人たちなんですよね。」

 今、私たちの前にはまさしく、日本語のロックの最も新しい世代の〈オリジナル〉であり、〈クラシック〉でもある作品として、志村正彦が作り歌った八十数曲の作品群がある。
 彼は、聴き手を限定するのではなく、彼の歌をまったく知らない人にも届くようにと、二十九歳という短い生涯の中で、ロックやポップという枠組みを超えて、「日本の歌」を創造してきた。志村正彦の歌は、これからもますます、新しい聴き手に届いていくだろう。

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