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2021年6月27日日曜日

『桜の季節』ー「自分を映す鏡」から「やるせない」へ[志村正彦LN279]

 四月以降、『桜並木、二つの傘』、続けてNHKの番組新日本風土記「さくらの歌」で取り上げられたこともあり、『桜の季節』について書いてきた。すでに梅雨の日々、もうすぐ初夏の季節を迎えるので、今回でひとまず区切りたい。

 志村正彦は、アルバム『TEENAGER』に関連して次のように語っている。(『FAB BOOK』p89) 

歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ。

 かなり前のことになるが、この発言について次のように書いた。[「鏡」「予言書」「謎」としての歌(志村正彦LN 9)]やや省略してまとめてみた。

歌詞を始め、言葉で表現された作品は、自分の内部にあった言葉が、声や文字として外部に現れ、形あるものとして定着されていく。表現後は、録音された声や印刷された文字は、作者から独立した作品となり、それを聴いたり読むことを通して、作品の方が逆に、作者自身に語りかけるようになる。内部から外部へという動きが逆転し、外部から内部へという動きが生まれる。それは、鏡面という外部にある自分の像がそれを見る自身に送り返される「鏡」というものに喩えられる働きであろう。志村正彦が言うように、歌詞そのものが「自分を映す鏡」となる。鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される。(中略)例えば『桜の季節』で、「桜の季節過ぎたら」「桜のように舞い散ってしまうのならば」というように、未来のある時点を設定したり、仮定したりして、物語を述べることが彼の歌の特徴の一つになっているということだ。未来の出来事やその仮定から始まり、逆に現在や過去の方へと遡っていくような、逆向きの時間の通路が敷かれている。そのような不思議な時間の感覚が存在していることが、「予言書みたないもの」という発言とどこかつながるのではないだろうか。

 「例えば」以下は、《志村正彦ライナーノーツ》で『桜の季節』の歌詞を引用して論じた初めての文章である。ここでは「自分を映す鏡」を〈鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される〉と捉えているが、『桜の季節』の〈不思議な時間の感覚〉が「予言書みたないもの」という発言につなげるところに論の中心がある。今回読み直してみて、〈鏡に反射される自分の像との対話を重ねる〉ということに立脚して、『桜の季節』をたどりなおしたらどうか、と考えた。


 「ohならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう/作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」の「手紙」は投函されなかったが、「手紙」そのものは書かれた。つまり、自分が自分へと手紙を書いたのである。書き終わった時点で目的は達成される。手紙は自分のもとに留まる。その場合、手紙は「自分を映す鏡」のようなものになる。別の観点でいえば、手紙の書き手と読み手、差出人と宛先人は同一の人物、歌詞の中では「僕」という存在になる。『桜の季節』から〈鏡の中での手紙のやりとり〉という光景が浮かんでくるかもしれない。鏡に反射される自分の像との対話が重ねられる。さらに踏み込むのなら、「僕」という主体と「僕」の鏡像(分身として見てもよいかもしれない)との間で「手紙」が交換される、と考えられる。実際に有るものの交換ではなく、無いものの交換である。「作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」というのは、そのような無いものの交換についての〈感動〉のような気がする。

 抽象的な考察になってしまったが、要は、『桜の季節』が、「僕」が「僕」に送った「手紙」の歌だということにある。その「手紙」そのものが「自分を映す鏡」となる。その鏡を前にして、「僕」は「作り話」に花を咲かせる。桜の季節の美しい花のように、鏡の中で言葉の花を咲かせる。歌詞の物語からはそういう解釈は成立しないだろうが、物語の解釈を超えた次元では、そのような隠された構造があるとも考えられる。志村正彦は意識的無意識的にそのような構造を創り上げた。そしてその構造についての一種の感情が、「やるせない」ではないだろうか。鏡像の中に自分が閉じこめられたとしたら、それはやるせない。

 「やるせない」は「遣る瀬無い」。なにかを「遣る」、どこかに行かせようとしても、その「瀬」、場所がない。心の中の想いを解き放とうとしてもその方法が見つからない。「瀬」は、流れが速く水深が浅い河川の場所を指すので、「遣瀬無い」という言葉自体から自然の光景が浮かび上がる。川の流れにまかせて解き放とうとしても、それが不可能なのだ。流れることなくいつまでもそこに滞留する。


 「桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない」は四回繰り返される。「やるせない」の四度の反復は、合わせ鏡の像のように『桜の季節』の言葉の中で増殖していく。歌が終わった後でも、この「やるせない」のリフレインは続く。こころのなかでこだまする。志村正彦の感情、形容詞というべきものを抽出するとしたら、そのひとつはこの「やるせない」にたどりつくだろう。『桜の季節』はやるせない。


2021年6月20日日曜日

『桜の季節』と『Day Dripper』[志村正彦 LN278]

 前回、『桜の季節』のABCDという起承転結的な物語を新たに設定してみた。楽曲全体ではA→B→A→C→D→B→A→Aという展開になった。実際の歌では〈結・D〉の後に〈承・B〉が続いている。


D  坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く
    そして追いかけていく/諦め立ち尽くす
    心に決めたよ

B  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
   作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!


   「心に決めたよ 」「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」という言葉の連接が生まれる。歌の主体「僕」は、諦め立ち尽くして心に決めた結果、「愛をこめて」「手紙をしたためよう」とする。そのようなストーリーが読みとれるだろうか。

 すでにこのブログに二度ほど引用したことがあるが、『桜の季節』の「手紙」について志村はこう語っている。(『音楽と人』2004年5月号、インタビュー:上野三樹)


 -しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。

「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」

 -そこでまたひとりになると。

「そうですね。」


 作者自身が「手紙を書いて、そこで終了している曲」だと述べている。手紙は投函されていない。「愛をこめて」手紙をしたためたのかもしれないが、結局、「手紙」は宛先人に届くことがない。つまり「愛」がそのまま言葉として伝わることはない。歌の主体は「そこでまたひとり」になる。

 『桜の季節』以外で「愛」という言葉が使われている歌詞は、『Day Dripper』と『Bye Bye』だけである。『桜の季節』の「愛をこめて」との関連からすると、 『Day Dripper』の次の一節が目にとまる。


  溢れ出してる 泉のように意味のない言葉
  それら全てにおいて 真実味はないぜ

  とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう
  だから立派な作家のように高い筆を買う


 この『Day Dripper』は志村が書いた歌詞の中でも難解なものである。いまだに意味はよくつかめないのだが、そのような場合、言葉そのものの動き方や作用の仕方を受けとめるしかない。題名からすると、ビートルズの『Day Tripper」(デイ・トリッパー)も連想される。『Day Dripper』もまるでトリップしたかような不思議な世界を歌っている。

 『Day Dripper』の「Dripper」「ドリッパー」から思いつくのは、やはり、コーヒードリッパーだろう。歌詞の中に「コーヒーにミルクが混ざる時みたいに」という一節もある。コーヒーを抽出させるという機器との関連からすると、「Day Dripper」は一日の出来事を抽出する働きをするものだろう。そう捉えると、「溢れ出してる 泉のように意味のない言葉」から、コーヒードリッパーから注ぐコーヒーが器から溢れ出していくというイメージが浮かんでくる。一日の終わりに、意味のない言葉が頭から溢れ出してくるのだろう。その言葉は「それら全てにおいて 真実味はないぜ」ということに帰結する。そうなると、「とらわれたように 愛を語ろう 粋なことを言おう/だから立派な作家のように高い筆を買う」もかなりアイロニーの響きを帯びてくる。「愛を語ろう」とするのも、おそらく、「意味」や「真実味」のない行為なのだ。


 志村正彦は『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』( SPACE SHOWER BOOks 2009/03/25 )で次のように語っていた。 (取材と文/青木優)


ただ、その「茜色の夕日」にしても、ストレートに「好きだ」と告白している歌ではないですよね。そこまでその娘に対する想いがリアルなのであれば、そうなってもいいはずなのに、志村くんには、まったくそういう曲がない。

 僕に「愛してる」とか「好きだ」みたいな歌詞がない理由というのは、自分でもわかってます。それは僕の中にある醒めた客観視、「んなこと言われても!」って考えのせいなんですね。だって、僕がそういう曲を聴いた際の感想というのは、「へえ―、そうですか、愛してるんですか」っていう程度のものでしかないんですけど、場合によっては、「え、好きだからなんなんですか?」「愛してるからなんなんですか?」「ちなみにその愛の内容は、どういうことを経験しての愛なんですか?」みたいな詮索がスタートしてしまう。で、結局最後は「だったら愛してればいいじゃん!満たされてんだったらなんで曲なんか作んの?」みたいなことになっちゃうんですよ。

 でも、それと同時に、僕が自分に対してまだ一流だと思えない理由というのも、そこにあったりするんです。愛してるってことが歌えないからこそ、一流になれないというか。だって、それを歌えるアーティスト、たとえばミスチルみたいなアーティストというのは、やっぱりそのぐらい自分に自信があるんでしょうし、いろんな愛を歌うことで、世間をハートマークだらけにしていく自信があるってことじゃないですか。でも、残念ながら、僕にはそれがない。そういう自信がないからこそ、「愛してる」が書けていないとも言えますね。寂しいことですけど。


 「愛してる」「好きだ」という言葉に対する〈醒めた客観視〉、そう歌うことについての〈自信がない〉という認識。そのような自己認識、醒めた客観視は、志村の歌詞から「愛」という言葉を遠ざけていった。仮に使われるとしても(三例しかないのだが)、『桜の季節』の「ならば愛をこめて」「手紙をしたためよう」も、『Day Dripper』の「とらわれたように 愛を語ろう」も、直接的な愛の表現ではなく、そもそも「よう」「う」という文末が示しているように、願望の表現にすぎない。志村は「愛」という言葉を自らに禁じているようにもみえる。

2021年6月14日月曜日

「坂の下~心に決めたよ」の部分-『桜の季節』[志村正彦LN277]

  2019年7月の志村正彦没後10年『FAB BOX III 上映會』(『FAB BOX III 』)についての文(7月6日『FAB BOX III 上映會』[志村正彦LN224])で次のように書いたことがある。

5周年ツアー時の『桜の季節』は歌詞の一部(坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く そして追いかけていく/諦め立ち尽くす 心に決めたよ)が歌われなかった。なぜだろうか。歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない。かねてからそう考えていたのでこの改変には納得できたのだが、どういう意図からそうしたのかという関心を持った。

 こう書いてそのままにしておいたのだが、確認のために『Official Bootleg Movies of “デビュー5周年ツアーGoGoGoGoGoooood!!!!!”』のDVDを見てみると、この「坂の下~心に決めたよ」の場面で、志村はマイクを観客席の方に向けている。つまり、この部分を観客に歌わせる意図があったようだ。広い画角の映像で確認は難しいのだが、志村の口元に注意すると、自分で歌詞を口ずさんでいるように見える。この場面の終わりになる頃にマイクを自分の方に回転させようとするのだが、「心に決めたよ」の時にもう一度マイクを観客側に向け直し、そして、最後に自分の方に向けている。観客側の声は最初は小さかったが、「心に決めたよ」のところでは大きなものとなっていた。

 全国8会場で10公演が開催されたデビュー5周年ツアーの最後の曲は、メジャーデビュー曲の『桜の季節』だったようだが、毎回、この「坂の下 手を振り~心に決めたよ」の箇所でマイクを観客に向けるパフォーマンスが行われたのかは確認できないが、おそらくそうだったのだろう。デビューから5周年、さらなる飛躍にむけて、「心に決めたよ」という意志を観客と共有したかったのだろうか。

 「oh その町に くりだしてみるのもいい/桜が枯れた頃 桜が枯れた頃」が『桜の季節』の起承転結〈A起・B承・C転・D結〉の〈D結〉にあるというのが僕の基本的な見方だった。この一節に、歌の主体そして志村正彦のパッション(情念・受苦)が最大限に込められているからだ。未来の出来事(そう想定されるかもしれない)ラストシーンである。しかし、別の捉え方もあるだろう。「坂の下~心に決めたよ」の別離の場面をラストシーンとする考えである。その場合、歌詞の展開順の通り、この部分が、〈A起・B承・C転・D結〉の〈D結〉となる。そうなると、以前書いた「歌詞の流れからするとこの箇所は必要がないかもしれない」という見方が修正されることになる。リフレインの部分を取り除いて、歌詞を整理してみよう。色分けした説明図も示したい。


A  桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?
    桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない

B  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
   作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!

C  oh その町に くりだしてみるのもいい
    桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

D  坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く
    そして追いかけていく/諦め立ち尽くす
    心に決めたよ




 このABCDの構成で、起承転結的な物語を読むとしたら、どのようになるだろうか。ABCは、過去のある時点での未来の出来事の仮定による想像、Dが現在時点で、〈振り〉〈告げる〉〈消えて行く〉〈追いかけていく〉〈諦め立ち尽くす〉という現在形の動詞の連続が〈心に決めたよ〉という動詞の完了形で完結していく。〈心に決めたよ〉がこの歌の中心、起承転結の結であるのなら、何を心に決めたのか、という問いが当然浮かび上がるが、この歌詞の中でその答えを求めるのであれば、心に決めたものはABCの内容そのものだ、ということになるだろう。歌の展開としては、「諦め立ち尽くす/心に決めたよ」のすぐ後に「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」と続き、この二つは繋がっているようにも聞こえる。つまり、「心に決めたよ」という歌詞内の世界での現在時のDの決意から、それ以前の過去の時点へと回帰するのだ。そうなると、「oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう」、さらに「oh その町に くりだしてみるのもいい/桜が枯れた頃 桜が枯れた頃」という行為を〈心に決めたよ〉という解釈の流れが成立する。「oh」は決意の表明の叫びとも考えられる。実際の歌でも、DのあとでB→A→Aとリフレインされている。楽曲全体ではA→B→A→C→D→B→A→Aという展開になる。

 それにしてもここには、現在から過去へと遡るという時間のねじれのようなものがある。起点としての過去から現在へ、その現在から過去へと時間が遡り、その過去から再び未来へ。その過去の時点で、未来の〈手紙をしたためよう〉〈その町にくりだしてみるのもいい〉という行為を仮定し想像している。歌の主体「僕」は〈桜の季節〉につながる想いや行為のすべてを〈心に決めたよ〉と伝える。この「僕」は作者志村正彦の分身であろう。『桜の季節』には時間の循環のような謎めいた複雑な構造がある。

                          (この項続く)


2021年6月6日日曜日

『桜の季節』の眼差し[志村正彦LN276]

 前回は、BSプレミアムの新日本風土記スペシャル「さくらの歌」での志村正彦・フジファブリックの『桜の季節』の取り上げ方について問いを投げかけた。これは、『桜の季節』という歌がそもそも捉えにくいことにも起因しているかもしれない。この歌はこのブログで繰り返し語ってきた。『若者のすべて』もそうなのだが、歌の世界をたどりきれないようなもどかしさがある。だからこそ何度も書いてきたのだが、志村正彦の作った「桜の季節」の「迷宮」に迷い込んでいるようでもある。

 歌詞について再考してみたい。この歌詞は三つの部分に分けられる。青色、黄色、赤色、に分けて図示してみよう。図1は歌詞を三つの部分に色分けして並べたもの、図2は構造を簡潔に図示したもの。(Google スライドをPNG画像に変換して添付したので、鮮明さにかけることをお断りします。クリックすれば見やすくなります)

図1

図2


 青色の部分が主要なモチーフであり、分量的には歌詞の大半を占めている。『桜並木、二つの傘』分析の際に参照した荒川洋治の〈詩の基本的なかたち〉をここで再度紹介したい。

 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
     こんなことがある       A
   そして、こんなこともある   B
   あんなこともある!      C
   そんな ことなのか      D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。

 このABCD(起承転結)による〈詩の基本的なかたち〉を『桜の季節』の青色の部分にあてはめてみよう。色々な分析の仕方があるだろうが、以下はあくまでも僕の観点によるものである。

A  桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?
B  桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない
C  oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
D  作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!

 この青色の部分には、ABCD、やや変則的であるが起承転結の展開がある。「桜の季節過ぎたら」という近い未来に時を設定し、歌の主体「僕」は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、「桜のように舞い散って/しまうのならば」という仮定のもとに「やるせない」いう感情を歌いあげる。その未来の想像の出来事を「oh ならば」とさらに仮定して受けとめた上で、「愛をこめて」「so 手紙をしたためよう」という意志を告げるのだが、その手紙では「作り話に花を咲かせ」ている。「僕は読み返しては 感動している!」という多分にアイロニカルな表現は、おそらく、この手紙が投函されないことを伝えている。「やるせない」という感情はあるのだが、その感情も桜についての伝統的な感性、桜の美学的なものからはかなり隔たっている。この「やるせない」はむしろ、「遠くの町」「手紙」というモチーフの方に強く関わるとも読める。この青色の部分で気になる表現は「愛をこめて」だろう。この「愛」については後述したい。

 黄色の部分はこうなるだろうか。

A  ( 桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい? )
B  ( 桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない )
C oh その町に くりだしてみるのもいい
D 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 ABの部分は(桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?)(桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない)が省かれ、CDの部分だけが言葉として語られていると考えてみたい。歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」が「その町」なのだろう。「くりだしてみるのもいい」とあるから、ここでも未来の時が設定されている。その未来の時点は「桜が枯れた頃」という季節だ。「桜が枯れた頃」という季節についてはすでに何度か考察してきた。

 赤色の部分は、歌の主体「僕」が経験した現在に近い過去の出来事を語っている。「坂の下」で「別れを告げる」という場面が描かれている。

A 坂の下 手を振り 別れを告げる
B 車は消えて行く/そして追いかけていく
C 諦め立ち尽くす
D 心に決めたよ

 「手を振り 別れを告げる」「追いかけていく」「諦め立ち尽くす」という現在形の動作の主体は「僕」であろう。「心に決めたよ」の「た」という過去の助動詞がこの一連の動作を完結させている。「諦め」が「僕」の想いの中心にある。この部分では、歌の主体「僕」は、場面の中にいる「僕」を対象化して眼差している。

 青色と秋色の部分には現在から近い未来へという方向の眼差しがあり、赤色の部分には近い過去から現在へと到る眼差しがある。

        (この項続く)