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2013年4月14日日曜日

春の富士(志村正彦LN16)

 この週末、二人で富士吉田に出かけた。一昨年、昨年の志村正彦展の実行委員や関係者の方々とお会いできるという、思いがけない、貴重な機会を得て、春の吉田を訪れることとなった。
 今、「吉田」と書いたが、「富士吉田」という名は1951年にこの地に「市」が誕生する際につけられた新しい名称であり、伝統的には「吉田」と呼ばれていた。その方が簡潔なこともあって、山梨の人は「吉田」と言うことが多い。

 甲府から吉田まで、車窓の風景を眺める。御坂の山に沿って標高が高くなると、まだところどころに桃の花がきれいに咲いていた。春の桃花、その濃い彩りを楽しんだ。
 御坂を超え、下り坂へ。以前は、カーブを幾度か回り、時折顔を出す富士を見ながら、河口湖へと少しずつ下っていったが、数年前に開通した新しいトンネルを利用すると、一直線に河口湖まで進んでいく。御坂峠からワープしていくかのような奇妙な感覚にとらわれる。

  産屋が崎を通り抜けると、湖畔の桜はまだ咲いていた。外国からの観光客が富士山と桜という日本を象徴する光景を撮影している。
 湖畔を抜け、しばらくすると、おひめ坂通り、そして「いつもの丘」、新倉山浅間公園に着いた。新しい道ができてから、甲府から吉田までの距離がずいぶん近くなったような気がする。

 ここは桜の名所。今年の桜はどこでもかなりの早咲きだった。標高の高い吉田ならまだ少しは咲いているかもしれないという淡い期待をしていたが、もう葉桜だった。二三日前の風で散ってしまったらしい。葉桜という言葉も不思議だ。葉桜にも桜を感じる、それが私たちの感性かもしれない。階段を少しだけ上がり、「桜の季節」が過ぎようとしている吉田の街をしばらくの間眺めていた。

 志村正彦は、この場所で、「桜の季節」が過ぎる頃の風景をどのように見つめていたのか。彼の歌を愛する聴き手なら誰しもが思うだろうが、そのような問いを心の中でささやいた。

 雪どけが始まり、白色と地色の配合をゆるやかに変化させていく春の富士。秀麗な美がおだやかで優しい美へと次第に移ろい、日の光も風の流れも変わっていくこの季節は、富士吉田で暮らす人々にとって、一年の内でも最も季節の変化を感じる時期ではないだろうか。そのようなことを考えながら、とても大切な人々と再会するために、「いつもの丘」を下りていった。

付記
 今回の原稿を書き上げた後で、今日という日、9年前の2004年4月14日に、『桜の季節』『桜並木,二つの傘』のCDシングルで、フジファブリックがメジャーデビューしたことに気づいた。
 志村正彦は、1999年の上京後、2000年に吉田の友人、渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と「富士ファブリック」を結成、メンバー交代を経て、地道なインディーズ活動と並はずれた努力の末に、自らの歌を広く持続的に伝えることのできるメジャーという場にたどりつくことができた。上京から5年の年月が流れていた。
 今日はその記念日である。調べると、9年前も日曜日で天気は晴れだったようだが、富士吉田の桜や春の富士はどのような姿を現していたのか、そんなことを想わずにいられない。

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