11月15日谷崎潤一郎「母を恋うる記」(甲府文と芸の会第2回公演)

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2026年5月8日金曜日

「馬の脚」の多層構造[芥川龍之介の偶景]

 芥川龍之介「馬の脚」は、彼の物語的な特質を持つ小説のほとんどがそうであるように典拠となる物語がある。忍野半三郎が冥界から馬の脚をつけて現世へと帰還するという話は、中国の南北朝時代の怪異や不思議な話を集めた小説集『幽明録』中の「士人甲」に基づいている。「士人甲」は、一度死んだ人間が何らかの理由で息を吹き返し現世に戻ってくるという蘇生譚である。その概要が次の通りである。

  晋の元帝の時代、〈甲〉という人物が突然病死し冥界に行った。しかし、寿命を管理する司命が記録を再調査すると甲の寿命は尽きていないことが判明した。冥吏が甲を人間界に帰らせようとしたが、甲の足はひどく痛み、歩くことができないために、新しく冥界に召した胡人の足を代わりに付けて現世へと帰還させた。

  「馬の脚」と「士人甲」の違いは、取り付ける脚が馬のものか胡人(中国の北や西の辺境に住む異民族)のものかという点である。芥川龍之介は「士人甲」を基にして、馬の脚という奇想天外な要素を加えることでさらに不可思議な要素を強めていった。


 小説の語り方も複雑である。

 話者の〈わたし〉は、小説の世界のすべてのことを知ることできる全知的視点で語っているが、最後の方になると、小説の世界の中に登場して、一人称の限定的視点で語るようになる。しかも、作者芥川龍之介の知人である現実の人間「岡田三郎」が登場し、〈わたし〉に手紙をよこす。話者の視点も転換し、虚構の中に現実が侵入していくると自由自在な語り方である。小説としては破綻しかねないが、この奇妙な構造が奇妙な内容に見合っているとも言える。

 忍野半三郎の失踪の場面を振り返りたい。

 現世へ戻った後、半三郎は馬の脚によって起こる苦労や困難を日記に記す。そうこうしているうちに、失踪の時を迎える。この場面は社宅の使用人に目撃されていた。その箇所を引用する。


――半三郎は何かに追われるように社宅の玄関へ躍り出た。それからほんの一瞬間、玄関の先に佇んでいた。が、身震いを一つすると、ちょうど馬の嘶きに似た、気味の悪い声を残しながら、往来を罩めた黄塵の中へまっしぐらに走って行ってしまった。…


 この〈黄塵〉はモンゴルから運ばれて来る砂埃である。半三郎がその足を付けた馬はモンゴル産だった。だから黄塵の到来によって馬は故郷へ走り出した。〈何かに追われるように〉とあることから、この失踪は半三郎自身の意思ではなく、馬の脚の故郷への帰還の力に引きずられるようにして起こった。彼が馬の嘶きに似た気味の悪い声を発したということは、彼の身体がさらに馬に変化してきたことを示してる。

 また、話者はこの失踪の直前の場面で〈半三郎を家庭へ縛りつけた人間の鎖の断たれる時である〉と語っていることから、話者とその背後にいる作者はこの疾走が半三郎と人間との鎖が断絶する出来事だと捉えていた。

 この失踪ついて、常子、半三郎の同僚、半三郎の死を判定した〈山井博士〉、現地の新聞「順天時報」の主筆〈牟多口氏〉はいずれも半三郎の〈発狂〉のためだと解釈した。牟多口氏は「順天時報」の社説で、山井博士が半三郎の状況を〈多少精神に異常を呈せるもの〉と見ていたこと、半三郎の日記から〈常に奇怪なる恐迫観念を有したる〉と書いた。さらに、国体は家族主義の上に立つという理念からこう主張している。


家族主義の上に立つものとせば、一家の主人たる責任のいかに重大なるかは問うを待たず。この一家の主人にして妄に発狂する権利ありや否や? 吾人はかかる疑問の前に断乎として否と答うるものなり。

語に曰、其罪を悪んで其人を悪まずと。吾人は素より忍野氏に酷ならんとするものにあらざるなり。然れども軽忽に発狂したる罪は鼓を鳴らして責めざるべからず。否、忍野氏の罪のみならんや。発狂禁止令を等閑に附せる歴代政府の失政をも天に替って責めざるべからず。


 つまり、〈牟多口氏〉の主張は、国体の家族主義を崩壊させるので一家の主人には〈発狂する権利〉がなく、政府も〈発狂禁止令〉を出すべきだというものである。この国体保持のための家族主義は、この時代の日本や中国などのアジアの国家の特質であろう。芥川龍之介はそれを批判的に考えたので、牟多口氏にこのような主張をさせたのであろう。牟多口(むだぐち)つまり無駄口という滑稽な名を与えていることでシニカルにユーモラスに表現した。忍野半三郎(おしのはんざぶろう)、常子(つねこ)、山井(やまい)博士という人物名も同様の命名である。


 前回述べた常子と半三郎との短い再会後、常子は夫の馬の脚を信ずるようになったが、他の登場人物は依然としてそのことを信じない。常子が馬の脚を見たことも幻覚だとしている。

 半三郎自身は自らの失踪について何も語っていない。常子は馬の脚を信じることになったので失踪の原因を関連があると思っているだろう。半三郎と常子にとって馬の脚は現実であるが、他の人物は、半三郎の日記に書かれた馬の脚についての記述は精神異常による幻覚であり、その結果の失踪だと考えている。精神医学的な言説や国家主義的な言説がその背景にある。


 芥川の「馬の脚」は、『幽明録』の「士人甲」の蘇生譚に基づいて、胡人の脚ではなくの馬の脚を取り付けるという奇想天外なモチーフを付加さて、主人公の失踪の原因について精神医学的な言説や国家主義的な言説を織り交ぜて、芥川の言う「大人に読ませるお伽噺」を構築していった。その展開の中で注目されるのは、前回述べた半三郎と常子の再会の場面である。

 月光の薄明りのもとで半三郎と常子は再会して、二人の眼差しが交錯する。薄明りによって半三郎の〈馬の脚〉が露になる。一瞬の偶景である。半三郎は「常子、……」と呼びかけ、常子は「あなた!」と三度呼びかける。常子の半三郎への愛おしさと〈馬の脚〉に対する嫌悪が交錯する。結局、半三郎は再び姿を消す。このごく短い間の光景、声の交換、心情の揺らめきがこの小説の中心にある。

 芥川の場合、物語は外部からやってくる。彼はそれを内部で受けとめ、自分自身のモチーフによって構築し直す。原型となる物語の枠組みに、偶景・声・心情という要素を複合させて多層的な構造を作る。これが芥川龍之介の小説の特徴であり魅力である。


2026年5月6日水曜日

「馬の脚」の中心場面[芥川龍之介の偶景]

   芥川龍之介「馬の脚」は1925年(大正14年)1月・2月の「新潮」に掲載された。中国の北京を舞台とする奇妙で幻想的な小説である。芥川が1921年に大阪毎日新聞の特派員として中国へ旅行した経験をもとに執筆された「中国物」の一つだが、読まれることが少なく、あまり批評や研究の対象にもならない。しかし、晩年の芥川の心象を浮かび上がらせる点において重要な作品だと思われる。


 物語の概要を示そう。

 北京に駐在する商社員の忍野半三郎(おしの はんざぶろう)は、ある日突然、脳溢血で死んでしまう。しかし、これは天界の役人が同姓同名の別人と取り違えたものだった。役人は慌てて彼を現世に戻そうとするが、すでに彼の脚は腐り始めていた。そこで、今しがた死んだ馬の脚を代わりにくっつけて、彼を生き返らせた。

 半三郎はえたいの知れない幻の中を彷徨した後やっと正気を取り戻して現世へ帰還した。半三郎は異形の脚を隠そうと苦心するが、次第に脚が勝手に暴れ出したり、嘶きたくなる衝動に駆られたりして、制御不能になっていく。

 半三郎は妻の常子に事実を告白するが、信じてもらえない。しかし、ついに彼の身体は馬としての性質に飲み込まれ、最後は妻の呼びかけも届かぬまま、馬の嘶きに似た気味の悪い声を残しなが砂塵の中に消えていってしまう。

 この半三郎の失踪は新聞の記事となり、その理由が詮索された。半年後、ある出来事が起きた。半三郎が常子のもとに帰ってきたのである。

 少し長くなるがその箇所を引用したい。小説の中の偶景と捉えられる場面である。


 落ち葉の散らばった玄関には帽子をかぶらぬ男が一人、薄明りの中に佇んでいる。帽子を、――いや、帽子をかぶらぬばかりではない。男は確かに砂埃りにまみれたぼろぼろの上衣を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。
「何か御用でございますか?」
 男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰り返した。
「何か、……何か御用でございますか?」
 男はやっと頭を擡げた。
「常子、……」
 それはたった一ことだった。しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見る明らかにする一ことだった。常子は息を呑んだまま、しばらくは声を失ったように男の顔を見つめつづけた。男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待った瞳だった。
「あなた!」
 常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋ろうとした。けれども一足出すが早いか、熱鉄か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった。夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露している。薄明りの中にも毛色の見える栗毛の馬の脚を露している。
「あなた!」
 常子はこの馬の脚に名状の出来ぬ嫌悪を感じた。しかし今を逸したが最後、二度と夫に会われぬことを感じた。夫はやはり悲しそうに彼女の顔を眺めている。常子はもう一度夫の胸へ彼女の体を投げかけようとした。が、嫌悪はもう一度彼女の勇気を圧倒した。
「あなた!」
 彼女が三度目にこう言った時、夫はくるりと背を向けたと思うと、静かに玄関をおりて行った。常子は最後の勇気を振い、必死に夫へ追い縋ろうとした。が、まだ一足も出さぬうちに彼女の耳にはいったのは戞々と蹄の鳴る音である。常子は青い顔をしたまま、呼びとめる勇気も失ったようにじっと夫の後ろ姿を見つめた。それから、――玄関の落ち葉の中に昏々と正気を失ってしまった。……


 〈月光〉の〈薄明り〉の中で半三郎と常子は再会する。

 二人の眼差しが交錯する。常子の眼差しを追ってみよう。常子はまず〈薄明り〉の中に佇む男を見る。〈月光〉がこの男の正体を明らかにする。常子は声を失ったように男の顔を見つめ続ける。男が常子を見ている〈瞳〉は待ちに待ったものだった。男は夫であり、〈薄明り〉の中に栗毛の〈馬の脚〉を露している。ここで夫の眼差しに転換される。夫は悲しそうに常子の顔を眺めている。常子はもう一度夫の胸へ体を投げかけようとしたが、〈嫌悪〉に圧倒される。夫は去って行く。常子はじっと夫の後ろ姿を見つめ、正気を失ってしまう。

 さらに、この場面では〈半三郎〉は「常子、……」と呼びかけ、〈常子〉は「あなた!」と三度呼びかける。この三度の「あなた!」には、〈半三郎〉自身への愛おしさとそれに相反する〈馬の脚〉に対する驚きや嫌悪が交錯する。

 最後に常子が半三郎の後ろ姿を見つめた後、二人が再び会うことはなかった。これが最後の機会だった。しかし、この再会後に常子は夫の馬の脚を信ずるようになったが、他の登場人物は依然としてそのことを信じない。そして物語は、本来死ぬはずだったヘンリイ・バレット氏の頓死を伝えて幕を閉じる。


 この作品の題名「馬の脚」と物語の骨子は、「馬脚を現す」、つまり、隠していた本性や本当の姿があらわになること、という表現から構想されたことは間違いない。もともとこの表現は、中国の古典演劇で馬を演じる際に中に入っている役者がうっかり人間の脚を見せてしまったという失敗談に由来するようだ。

 芥川龍之介は「馬脚を現す」過程を物語化して、この半三郎と常子の再会の場面において〈夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露している〉という一節に集約化した。視覚的、聴覚的な描写を複合させてこの光景、馬の脚が露わになる偶景を見事に表現している。


 芥川は1921(大正10)年3月下旬から約4ヶ月の間、大阪毎日新聞の海外視察員として中国の上海、南京、北京などを旅行した。このときの見聞が「馬の脚」に反映されているだろう。

 また、芥川は「馬の脚」発表と同年の1925年(大正14年)9月、「死後」という3000字ほどの短い小説を発表している。「死後」は、話者兼作中人物の〈僕〉が自分が死んでしまっている夢を見るという設定である。〈僕〉はその夢の世界での出来事を語った後で夢から現実へと目覚めるが再び眠りに落ちていく。

 「馬の脚」の半三郎もいったん死んでしまった後で生の世界へ蘇る。半三郎はえたいの知れない幻の中を彷徨したが、この点については半三郎は仮死状態で死んでしまった夢を見ていたという現実的な解釈も可能であろう。

 この時期の芥川龍之介は現実世界を死あるいは夢における死という観点から探究していった。もっとも、芥川は雑誌初出本文の冒頭では〈「馬の脚」は小説ではない。「大人に読ませるお伽噺」である〉と断っている。「大人に読ませるお伽噺」、夢のような話というスタイルで生と死の世界を表現したとも言えるだろう。


2026年4月27日月曜日

芥川龍之介の『蜃気楼』・富山湾の蜃気楼

 芥川龍之介の1927(昭和2)年の短編小説『蜃気楼』。芥川の分身である話者兼人物の〈僕〉は、ある秋の昼頃、大学生の〈K君〉と親友の画家小穴隆一をモデルとする〈O君〉と三人で蜃気楼を見るために鵠沼の海岸に出かける。

 作中で蜃気楼について言及している場面を引用する。


 蜃気楼の見える場所は彼等から一町ほど隔っていた。僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。
「あれを蜃気楼と云うんですかね?」
 K君は顋を砂だらけにしたなり、失望したようにこう言っていた。そこへどこからか鴉が一羽、二三町隔った砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。


 〈僕等〉が〈陽炎〉の立つ〈砂浜〉を眺めると〈砂浜〉の上に〈青いもの〉が一すじリボンほどの幅でゆらめいている。それは〈海〉の色が〈陽炎〉に映っている光景らしい。これは「下位蜃気楼(inferior mirage)」と呼ばれる現象、陽炎など地表の熱い空気で光が屈折することによって空や海の景色が地面近くに映り込む現象のようである。K君が失望した瞬間、話者の〈僕〉は〈鴉〉と〈陽炎〉を重ね合わせて描写する。

 〈鴉〉が一羽〈砂浜〉の〈藍色にゆらめいたもの〉の上をかすめ向こう側へ舞い下りる動きと同時に〈鴉〉の〈影〉が〈陽炎〉の帯の上へ逆さまに映る光景である。この下位蜃気楼に対して、実際の風景の上側に伸びたり反転したりした虚像が見える現象が「上位蜃気楼(superior Mirage)」と呼ばれるものである。上位と修飾される方が本物の蜃気楼である。

 芥川、K君、O君が見たのは下位蜃気楼であったが、そのことはこの作品の本質ではない。下位であっても上位であっても、どちらであっても、彼らが見たかったのは一種の幻としての蜃気楼である。特に芥川の分身〈僕〉の場合、不安な心象のゆえにあえて幻視したいものがあった。不安なものの象徴としての蜃気楼である。


 この上位蜃気楼が昨日4月26日富山県魚津市で観測された。Yahoo!ニュースに転載されたチューリップテレビ(富山県)の記事「富山湾の神秘…8年ぶり最高評価“Aランク”の蜃気楼を観測  対岸の新湊大橋が反転!肉眼で2時間以上確認、神秘の現象 富山」によると、昼過ぎに風景が非常に明瞭な伸びや反転が確認できるようになり、その見え方が5段階評価の最高のAランクであると8年ぶりに判定された。富山湾の海面上に冷たい空気が層をつくり、その上の暖かい空気とのあいだで急に密度が変わるときに出現するそうである。

 魚津市の富山湾から対岸の射水市の新湊大橋をとらえた画像をこのニューズ記事から引用させていただく。


チューリップテレビの画像


 人々が湾の堤防に集まり対岸の方を眺めている。視線の彼方に浮かぶのが蜃気楼である。画像の中央より少し右側の細長い塔のようなものが実物より縦に高く引き伸ばされ、対岸の建物と海面の間に空の色が入り込み、建物が空中へ浮き上がっているように見える。これらが上位蜃気楼の典型的な特徴のようだが、筆者はこのような特徴を明確に示す蜃気楼の画像を初めて見ることができた。

 さらに、FNNプライムオンラインの記事「8年ぶり“最高評価”の蜃気楼が富山湾に出現 橋の上に「大きなひし形」 海面の空気が幻想的な春の風物詩を生み出す」では、ある橋の普段の景色と今回の蜃気楼が対比された画像があったので引用させていただく。


FNNプライムオンラインの画像


 こちらの画像では、実象の橋と虚像の橋とがある点で接合されている。逆立した虚像の橋が上空にそびえたっている。蜃気楼の特性を見事に捕らえた貴重な画像である。


 やはり、上位蜃気楼の画像は陽炎のような物の像の揺れではなく、実像の風景と虚像の風景という二つの映像そのものが相対峙して揺らめいている。実像と虚像が分離したり逆さになったりして互いに互いを照らし合わせているように見える。さらに時間の推移と共に多様に変化していく。


 実際の現地で蜃気楼を実景として見なければ、その本当の姿は分からないであろうが、このニュース映像によってその姿をある程度まで想像することはできた。いつか実景として見てみたいが、それは偶然の出来事、偶景としてしか遭遇できないのだろう。


2026年4月19日日曜日

芥川龍之介『父』

 芥川龍之介の『父』は、「新思潮」(大正5年5月)に発表された。芥川が24歳の時の作品である。話者の「私」は芥川自身の分身だと思われる。


 「私」が中学4年生の秋、日光から足尾にかけての三日間の修学旅行があった。その出発の朝、上野停車場の待合室で、同級生の「能勢五十雄」(のせ いそお)らと共に列車を待っていた。能勢は器用で芸達者だった。詩吟、薩摩琵琶、落語、講談、声色、手品、何でもできた。通りすがりの人々を辛辣で諧謔に富む言葉で揶揄して仲間を笑わせていた。

 そのうち仲間の一人が時代遅れの奇妙な格好をした老人を見つける。仲間たちは能勢に「おい、あいつはどうだい。」と呼びかける。「私」はその老人が能勢の父親であることに気づくが、他の仲間たちはそのことを知らない。能勢は自分の父を「あいつはロンドン乞食さ」と言い放つと、仲間たちはを笑い出す。「私」は思わず下を向く。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が欠けていたからである。

 その後の場面について小説の本文を引用したい。

 曇天の停車場は、日の暮のようにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そっとそのロンドン乞食の方をすかして見た。
 すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫と斜めにさしている。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のように蔽っている。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁のない洋服を着た、この現代と縁のない老人は、めまぐるしく動く人間の洪水の中に、これもやはり現代を超越した、黒の中折をあみだにかぶって、紫の打紐のついた懐中時計を右の掌の上にのせながら、依然としてポンプの如く時間表の前に佇立しているのである……


 薄暗い上野停車場の待合室。「私」の眼差しは外から来る日差しの動きを追う。

 能勢の父は光の帯の中にいて動かない。その周りではすべての物が動き、光や声や音が混じり合って停車場の中を蔽っている。光の帯の中で動かない父とその周囲で動くあらゆるものたちの対比的な光景を「私」の眼差しは捉えている。

 芥川龍之介はそのような偶景に触発されて、この出来事を描こうとしたのであろう。

 後日「私」は、能勢の父親が息子の出発を一目見ようと内緒で停車場へ立ち寄っていたことを知る。能瀬は中学を卒業するとまもなく肺結核で亡くなった。追悼式で「私」は「君、父母に孝に、」という句を悼辞の中に入れた。


 父と息子との関係は複雑である。息子は父に対する愛情を自然に持っているが(持っているからこそと言うべきか)、その情を素直に表すことができなくて、時に疎ましく思い、時に遠ざけてしまう。能勢の場合、芸達者な道化者であるがゆえにその特質が強く現れたが、父に対する情愛は当然あっただろう。そのような心性が「父」には的確に描かれている。そして、その心性は芥川のものでもある。おそらく、ほとんどの息子に共通する心性ではないだろうか。


 また、時代背景についても考えたい。作者の芥川が中学4年生だったのは明治41(1908)年。明治の後期には日本の経済が飛躍的に発展した。その一方で社会には様々な歪みも出てきた。時代の潮流に適合できる人もあれば時代から取り残される人もいた。能瀬の父はおそらく後者だったのだろう。

  話者「私」は能瀬の父、「現代と縁のない老人」のかぶる黒の中折れ帽について「現代を超越した」とも形容している。現代と縁のないことは現代を超越していることでもある。そのように「私」は考えたはずである。そして能瀬の父のような人間は少なくなかった。

 待合室の時間表の前に佇立する能瀬の父に対する「私」の眼差しには、時代に取り残されたものに対する深い想いがある。そしてこの偶景にはどこか懐かしさがある。取り残されるようにして過ぎ去っていったものに対する愛惜の情が浮かび上がってくる。


2026年1月3日土曜日

蛇笏「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」と龍之介「人に迫るもの」


 新年になると想い出す句がある。

  以前、芥川龍之介の〈元日や手を洗ひをる夕ごころ〉について書いたことがあるが、今日は、飯田蛇笏が正月の風景を詠んだ次の句を紹介したい。


  破魔弓や山びこつくる子のたむろ  蛇笏


 蛇笏が「雲母」昭和二年二月号の「山廬近詠」で発表した十三句のうちの二番目の句である。時節から題材は年末年始に関するものが多い。

 正月。神聖な破魔弓に守られるようにして、子供たちがたむろをつくり、その声が山びことなってこだましている。

 このような山国の情景が伝わってくる。蛇笏の住む村の子供たちの姿を描いたものだろう。そのなかには蛇笏の子どもが含まれているかもしれない。破魔弓は、弓の弦を鳴らす音には邪気を払う力があるという古来の教えから、男の子の健やかな成長と災厄から守るお守りとして、12月中下旬から1月中旬頃まで飾られる。


 飯田蛇笏と芥川龍之介は大正12年から手紙の交流や書籍の贈呈をするようになった。

  龍之介は〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉という句を蛇笏に贈っている。〈春雨〉は冬から春へと移り変わる時期に降る霧雨。春が近づきつつある季節に〈甲斐の山〉には残雪が置かれている。この残雪を置く高峰、峻厳な山には、孤高の存在としての飯田蛇笏が重ね合わされている。蛇笏はおのれのなかに残雪のようなもの、厳しい冬の残像を抱えた孤高の俳人だと龍之介は感じていたのではないか。さらに言うと、龍之介が青年時代からの数回にわたる山梨への旅で実際に見て感銘を受けた甲斐の山々の記憶も刻まれているだろう。

 蛇笏は明治18(1985)年生まれ、龍之介は明治25(1992)年生まれ。七歳ほどの違いがあるが、俳句そして甲斐の山の風景を通して、この二人の間には深い心の交流があった。


 昭和2年4月10日、龍之介は蛇笏に宛てたの書簡で、「破魔弓」の句について〈人に迫るもの有之候。ああ云ふ句は東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候〉と書いている。

 「破魔弓や」の句からは子供たちの生命力あふれる声が聞こえてくる。新年という新たなものが始まる季節。子供たちの元気な声が山々に反響し、山国の厳しい冬に暖かさや明るさをもたらす。龍之介は子供たちの命の声による〈山びこ〉に〈人に迫るもの〉を感じとったのではないだろうか。

 龍之介が東京と山梨という場の差異を意識して〈東京にゐては到底出來ず〉と率直に述べたのは、青年時代から何度が山梨を訪れ、山梨という場、土地の雰囲気、山々の風景をある程度まで実感として受けとめていたからであろう。〈健羨に堪へず〉は単なる儀礼ではなく、龍之介の本心からの言葉だと思われる。

 筆者は、龍之介の〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉と蛇笏の〈破魔弓や山びこつくる子のたむろ〉との間に、〈山〉を媒介とする交響のようなものを感じる。蛇笏の「山びこ」は龍之介の記憶のなかの〈甲斐の山〉を想起させた。これは無意識の作用かもしれない。


 龍之介は東京と山梨の生活や風景の違いをかなり意識していた。

 大正十五年刊行の『梅・馬・鶯』では七十四の代表句を自ら選んでいる。実はこのなかで都道府県相当の名が句に詠まれているのは、〈木がらしや東京の日のありどころ〉と〈春雨の中や雪おく甲斐の山〉の二句だけである。この東京と甲斐(山梨)という選択と対比にも龍之介の意図を読みとってしまうのは筆者の考えすぎだろうか。


【付記】これまで芥川龍之介については、〈芥川龍之介の偶景〉と〈芥川龍之介(偶景以外)〉の二つのラベルに分けていましたが、〈芥川龍之介の偶景〉に統一します。(過去に遡って変更しました)



2025年8月24日日曜日

芥川龍之介 夏季休暇中の山梨への旅(三)八ヶ岳・南アルプス

 7月28日、芥川龍之介と西川英次郎は昇仙峡から甲府に戻り、上諏訪まで汽車に乗った。前回述べたように、この旅程の参考となった徳冨蘆花は青梅街道を通って塩山、甲府、そして昇仙峡に行った後に富士川水運で静岡へ向かったが、中央線が開通したことによって、二人は汽車で長野へ向かうことができた。鉄道という近代のテクノロジーによって、高速で移動する車窓から眺める風景とその変化というパースペクティヴが生まれた。新しいパノラマビューであり、それを記述する主体の眼差しを誕生させた。

 芥川は中央線の車内の人々や車窓から八ヶ岳や南アルプスの山々を興味深く眺めて、次のように描く。

 汽車が驛々で止る每に 必 幾人かの農夫の乘客がはいつてくる。それでなければ自分等と同じ樣な檜木笠の連中がやつてくる。作物の話が出る。空模樣の話が出る。無遠慮な雜談と 氣のをけない髞笑とは 間もなく 彼方にも此方にも起つた。今は〔車〕内は、山家の人の素樸な氣で 充される樣になつた。

 汽車が進むにつれて 目の前には八ケ嶽の大傾斜が開けて來る 落葉松の林 合歡の花 所々に散在する村落。其處から上る白い烟 さては野に牛を飼ふ人の姿。―自分等〔欠字〕 物を眺めながら窓によつて この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活の事を考へて見た。

 農夫たちが作物や空模様についておそらく甲州弁で話しあっている。芥川は耳をそばだてて聞いていたのだろう。親しいもの同士の遠慮のない雑談や高笑いによって、車内は山国の人々の素朴な気風で満たされる。次第に車窓から八ヶ岳が見えてくるが、山岳の風景だけでなく「この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活」のことも考える。

 そのうち、南アルプスの山々の荘厳な姿が視界に入ってくる。

 甲信の山々は いづれも頂を力と熟との暗影を持つた 深い銅色の雲に 埋めながら、午後の日の光をうけて 遠いのは藍色に 近いのは鼠色に 濃い紫の皺を縱橫に刻で 綠の野の末に大きなうねりをうたせてゐた。永河の遺跡が見られると云ふのは そこであらう。白根葵の咲くと云ふのは そこであらう。 長へに壯嚴な山々の姿。―雪にうづもれた其頂には宇宙の歷史が祕めてあるのではあるまいか。

 ここで芥川は、「深い銅色の雲」のもとに「午後の日の光」を受けて、「遠いのは藍色」「近いのは鼠色」に「濃い紫の皺」を刻んだ南アルプスの山々を描写している。芥川の眼差しは色と光とその変化に敏感である。「長へに壯嚴な山々の姿」「雪にうづもれた其頂」に「宇宙の歷史」が秘められている、という箇所はこの『日誌』の中で、風景の荘厳さとその悠久な時間への感嘆が最も込められた記述である。


 このあたりの表現は、国木田独歩の「忘れえぬ人々」(『武蔵野』明治34年)の影響を受けているかもしれない。芥川が書いた車中の農夫たち、山間にすむ甲州人は、独歩の言う「忘れえぬ人々」のような存在である。

 独歩は九州旅行で立ち寄った阿蘇山を次のように描いている。 

天地寥廓、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙濛々と立ちのぼりまっすぐに空を衝き急に折れて高嶽を掠め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは黙ったまま一言も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。

 独歩は阿蘇山を見て「天地悠々の感」「人間存在の不思議の念」を思い浮かべる。厳かな風景から漢語的で抽象的な観念や感覚を思い浮かべている。この表現のあり方と芥川が山梨の荘厳な山々に「宇宙の歷史」という観念を見いだした叙述には共通点がある。

 芥川龍之介にとって国木田独歩は特別な存在であった。昭和2年の小説「河童」では尊敬すべき先人としてニーチェ、トルストイ、ゴーギャンらと共に日本人ではただ一人独歩の名を挙げている。同年の文学論「文芸的な余りに文芸的な」では「独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた」と書き、独歩を「詩人兼小説家」として捉えている。


 柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、独歩や芥川が記した荘厳な山岳美について次のように述べている。

 総じて、ロマン派あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原始林――などが崇高な風景として見出された。明らかに、ここには転倒がある。 〔……〕

リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。

 柄谷は、ロマン派やプレ・ロマン派の人間によって、名所旧跡の風景ではなく、山岳などの荘厳で崇高な自然の美が新しい「風景」として発見されたと考えている。そして、そのような風景の発見が、結果的に転倒されて、崇高な自然の美に憧れる「内的な人間」を創り出す。ロマン派的な主体にとって崇高さは至上の観念の一つとなる。芥川も独歩もそのような主体、「内的人間」である。彼らは風景を創出するために、リアリズムの文章を描いていく。紀行文や日誌はそのスタイルの具現化である。


  この後、芥川と西川の二人は長野県の諏訪に入り、小諸、浅間山、軽井沢と移動して、8月1日に東京に帰った。

 8月21日の日誌には、上野の図書館に行き、館上の西の窓から夕暮れの空を見た際に「そゞろに甲斐の山の夕暮もしのばれる」と書いている。山梨の風景については繰り返し想い出したようだ。

 ここで「甲斐の山」という言葉が使われていることにも注目したい。この言葉はやがて、芥川が飯田蛇笏に贈った「春雨の中や雪おく甲斐の山」という俳句に結実していく。


2025年8月21日木曜日

芥川龍之介 夏季休暇中の山梨への旅(二)甲府・昇仙峡

  7月26日の夜、芥川龍之介と西川英次郎は甲府の佐渡幸旅館に泊まった。

 十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。

 二人が甲府駅に着いたのはおそらく夜十二時近くだった。その後旅館で律儀にも二時まで日誌を書いた。

 佐渡幸旅館の本店は柳町通りに、支店は甲府駅前にあった。明治後期から昭和前期にかけて、甲府を訪れた文学者がよく泊まっていた宿舎である。当時の絵はがきを入手したのでその画像を添付する。




 翌日の27日には昇仙峡まで歩き、猪狩村の宿に宿泊した。

 昇仙峡は甲府市北部の荒川上流にある渓谷。国の特別名勝にも指定された景勝地である。花崗岩の断崖や奇岩・奇石、清く澄んだ水の流れ、四季折々で変化に富んだ渓谷美を楽しめる。2020年、「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」が文化庁の日本遺産に認定された。


 芥川は友人の上瀧嵬に手紙を出し、その文面を日誌で披露する。

 今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。

 「甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ  亂筆不盡」

 手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろな思がをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)

 16歳という若さゆえの体力があるとはいえ、真夏の季節に甲府の中心街から昇仙峡まで徒歩で歩いたのでかなり疲れたことだろう。昇仙峽は流石にいいが、眺めが浅いと述べている。青い水と紫の藤の長い花の想像、黒い山と川、曇った空、大きな蛍。昇仙峡という美しく静かな渓谷の中で、芥川の心にはいろいろな思いが浮かんできたようだ。旅の《偶景》は人の想いを喚起する。


 そもそも、芥川龍之介と西川英次郎はなぜ青梅街道を歩いて山梨に入る旅を試みたのか。

 西川によると、二人は徳冨蘆花の「甲州紀行はがき便」(『青蘆集』所収、明治35年刊)という紀行文を読み、その行路を辿る計画を立てて実行したようである。日向和田、氷川、丹波山、塩山、甲府、そして昇仙峡という行程までは同じだが、その後、蘆花は鰍沢から富士川を舟で駿河へと下り、東海道線で逗子へ帰ったが、二人は中央線が開通したこともあり、汽車で上諏訪へ向かった。

 また、田山花袋の紀行文の影響もあるかもしれない。明治27年4月、田山花袋は、甲府徽典館の学頭も勤めた林靏梁が奥多摩を描いた文章に感化され、多摩川上流へ徒歩で向かった。その際の「不遇山水」(「多摩の上流」と改題され、『南船北馬』明治32年刊に収録)という紀行文で「山愈奇に水愈美なり」「天然の美のかくまで変化の多きものなるかを感ぜしむ」と書いている。明治後期、花袋は紀行文の名手として知られていた。芥川は学生時代に小説家としてよりも紀行文家としての花袋を評価していたので、この花袋の文章がこの旅程に影響した可能性もある。


 この時代、鉄道をはじめとする交通網が発達した。徳冨蘆花や田山花袋らの紀行文にも影響されて、青年は各地を旅するようになった。そして、作家志望者は旅の日誌や紀行文を書くことを試みた。芥川龍之介もその一人であろう。 

       (この項続く)


2025年8月18日月曜日

芥川龍之介 夏季休暇中の山梨への旅(一)丹波山・塩山 

 明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友の西川英次郎と山梨と長野へと旅した。 その際の日録が、丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)、として残されている。この日誌には芥川が山梨で見た様々な《偶景》の記述がある。

 なお、この自筆資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。


 西川英次郎(ひでじろう)は後に東京帝国大学の農科に進学し、農学博士となり、鳥取大学や東北大学などの教授を歴任した。府立三中時代の五年間を通して学年全体で、西川が一番、芥川が二番という成績だった。 才気煥発な芥川に対して冷静沈着な西川というように性格は異なるが、大秀才同士で仲が良かったようだ。


 7月21日に夏休みが始まり、日誌はその日から書かれている。21日に〈學校へ汽車の割引券と證明書とをもらひに行く〉〈一日中 旅行の準備に何くれとなく忙しい〉、23日に〈茣蓙も帽子も施行の準備はのこりなくすン だ〉〈明日は雨のふらない限り出發する豫定である〉〈同行は西川君〉とあるように、夏休みの最初の三日間で旅行の準備を進めた。茣蓙(ござ)は徒歩旅行中の休憩のために用意したのだろう。


 7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。芥川は氷川が〈淋しい町〉であると繰り返し記している。

 25日、氷川から丹波山へと歩いていく。

 氷川と丹波山との間の路はわすれ難い、ゆかしい路であつた。右は雜木山 左は杉木立。

 道中のところどころに滝がある。玉川の流れが見える。寺、半ば傾いた山門、道祖神の祠。静けさにみちた村の人々の生活を羨む。

 村がつきると又山になる。靑黑い山と靑黑い谷 その間を縫ふ白い細い道 玉川の水の音 水車小屋 鶯の聲――あゝ夏だ。

 十六歳の少年は青梅街道の夏を満喫したようだ。日暮れに山梨に入る。鴨沢を経て、丹波山の宿「野村」に泊まる。後に芥川は「追憶」というエッセイでこう述べている。

 僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。


 7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。

 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。

 實にこの昏々たる睡眠土は 自然の殿堂である。思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿である。

 あらゆる物を透明にする秋の空氣が この山とこの谷とを覆ふ時 獨りこの林の奧の落葉をふみて 凩の聲に耳を澄したなら 定めて心地よい事であらう。

 この日誌は学校の宿題として課せられたものだろうが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は〈太古の樣な寂寞〉〈寥々として天地を領してゐる〉〈思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿〉などの漢文の美文調の表現で記されている。また、秋の風景やその感触も想像しているところが季節に敏感な芥川らしい。


 芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。

 それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡が微妙に変化する《偶景》を捉えている。

 自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。

 嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。


 当時の中央線の本数は少なかったので、二人は四時間も待つことになる。夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。この後二人は汽車に乗って甲府に向かった。

        (この項続く)


2025年8月11日月曜日

芥川龍之介「海のほとり」の夢

 作家の書簡を読んでいると、その日付に目がとまることがある。ある作品が書かれた日付から特定の周年、例えば十年後、五十年後、百年後に当たる日に、その作品について想いをめぐらすことがある。

 今日からちょうど百年前の1925(大正14)年8月11日に、芥川龍之介は次の手紙を当時の「中央公論」編集長の高野敬録に送っている。

冠省今夕は失礼仕り候明日夕刻お出で下され候やうに申上候へどもそれにては気がせき候間明後日の朝にして頂きたく、ねてゐてもわかるやうに致す可く候間何とぞ右様に願ひ度候 頓首 

 この手紙で言及されている作品は「海のほとり」。芥川はその原稿を11日に高野に渡す予定だったが、完成させられなかったので、明後日13日の朝まで延期することをお願いしている。「ねてゐてもわかるように」とあるのはおそらく夜遅くまで原稿を書くので、朝は起きられないので原稿を所定の場所に置いて家族に托すことことを想定したのだろう。

 8月12日の渡辺与四郎宛書簡に次の歌が書かれている。

ウツシ身ハ恙ナケレドモ汗ニアヘテ文作ラネバナラヌ苦シサ

 〈文作ラネバナラヌ苦シサ〉とあるが、この〈文〉とはこの時取り組んでいた「海のほとり」を指すだろう。芥川はこの作品にかなり難儀したようだ。12日には再度高野敬録に〈明朝と申上げ候へどもどうもはかどらず候間明夕までお待ち下され度候。間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ候〉という手紙を出している。執筆は〈どうもはかどらず〉ということで13日の夕方まで再度延期することを伝えている。〈間に他の仕事などはまぜずに書きつづけ〉とあえて記しているのは、一月に三四扁の作品を仕上げることもあった芥川が「海のほとり」に専念することを誓ったのだろう。

 このように芥川龍之介は苦労して「海のほとり」を完成させたが、この短編小説は彼の転機となった重要な作品である。芥川は晩年の二年間、1925(大正十四)年8月から1927(昭和二)年7月にかけて、一人称の語り手が自らの夢を語る一連の短編小説を発表したが、この「海のほとり」がその最初の作品である。1925(大正十四)年9月発行の雑誌「中央公論」に掲載された。


    * * *


 「海のほとり」は、1916(大正5)年の晩夏、芥川が友人の久米正雄と千葉県の一宮海岸で過ごした日々が素材となっている。二人は7月に東京帝国大学を卒業。8月17日から9月2日まで海岸近くの宿に泊まり、海で泳ぎ、小説も書いた。芥川はまだ二十四歳の若者であった。〈ボヘミアンライフ〉だと自ら述べているように、大学卒業から就職までの間の束の間の自由気儘な生活を謳歌した。その夏の体験を素材にして、九年後の1925(大正14)年の夏、この小説は書かれた。芥川の分身である〈僕〉と久米をモデルとした友人の〈M〉が一宮海岸の宿と海岸で過ごしたある一日の出来事が、三つの章に分けて語られている。以下、あらすじを示す。


 一章では、雨が降って外出できない〈僕等〉(〈僕〉と〈M〉)は宿で創作や読書をしている。そのうち〈僕〉は眠りに落ち、〈鮒〉が現れる夢を見る。覚醒後にその〈鮒〉が〈識域下の我〉であり、無意識の自分が夢に現れたものだと考える。二章で〈僕等〉は海に泳ぎに行く。〈嫣然〉と名付けられた少年の話をしたり、〈ジンゲジ〉と呼ばれた少女の姿を眺めたりして、海辺で時を過ごす。三章では晩飯の後に〈僕等〉は友人〈H〉と宿の主人〈N〉と四人でもう一度浜へ出かける。〈ながらみ取り〉や〈達磨茶屋の女〉の印象深い話を聞く。〈僕等〉は宿に戻りながら東京に帰ることを決める。


 このブログの第2回目で書いたことだが、ブログ名の〈偶景〉はロラン・バルトの《INCIDENTS》の邦訳『偶景』から借りてきたものである。〈INCIDENT〉は〈出来事〉〈偶発事〉などと訳されるが、訳者の沢崎浩平氏は〈偶景〉という造語を作り、書名とした。

 バルトは、〈偶景〉を〈偶発的な小さな出来事、日常の些事〉、〈人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの〉を描く〈短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ〉のような〈文〉であると記している。

 「海のほとり」の夢の中の光景も海辺の出来事の光景も、作者芥川の人生に〈舞い落ちてくる〉光景とその断片である。芥川のこれらの表現をバルトの言う〈偶景〉だと捉えてみたい。晩年は特にそのような〈偶景〉の戯れを書くことを芥川は試みた。戯れとは言っても、軽やかなものではなく、幾分かは不安に彩られた戯れではあるのだが。


 作品の夢の中で〈鮒〉が現れる部分を引用したい。

 僕は暫く月の映つた池の上を眺めてゐた。池は海草の流れてゐるのを見ると、潮入りになつてゐるらしかつた。そのうちに僕はすぐ目の前にさざ波のきらきら立つてゐるのを見つけた。さざ波は足もとへ寄つて来るにつれ、だんだん一匹の鮒になつた。鮒は水の澄んだ中に悠々と尾鰭を動かしてゐた。
 「ああ、鮒が声をかけたんだ。」

 夢の中の〈僕〉の眼差しは〈月〉〈池〉〈海草〉〈潮入り〉〈さざ波〉を捉えていく。〈さざ波〉は寄って来るにつれて次第に一匹の〈鮒〉に変わり、〈水〉の中で悠々と動く〈鮒〉の〈尾鰭〉に眼差しが注がれる。夢の中で多様に変化し動いていく〈偶景〉との遭遇。〈僕〉はその〈偶景〉から〈鮒〉の〈声〉を聞き取る。

 この〈鮒〉が象徴しているものは何だろうか。〈鮒〉の〈声〉は何を伝えようとしているのか。

 この問いに応答するために書いた論文が筆者にはある。 「山梨英和大学紀要」23 巻 (2025)に掲載され、電子ジャーナルプラットフォームのJ-STAGEにも公開されている「芥川龍之介「海のほとり」の分析」(小林一之)という研究ノートである。ジークムント・フロイトとジャック・ラカンの精神分析と夢解釈の理論と方法に依拠して、夢の象徴や言葉・シニフィアンの連鎖を分析した。文学作品の夢の分析に関心のある方に読んでいただければ幸いである。


 「海のほとり」は、芥川が晩年に追求した〈「話」らしい話のない小説〉の一つとも言われている。確かに、物語らしい物語はなく、様々な〈偶景〉、夢とその連想、海辺での何気ない出来事や会話の断片から構成されている。〈「話」らしい話のない小説〉は、作中の夢の表現や主体の無意識が露呈されていく叙述によって構成されている。〈話〉のある小説は作者の意識によって統御され、閉じられていくのに対して、〈話らしい話のない小説〉はその統御が解除され、無意識が開かれていく。そして、作者の無意識が生み出した〈偶景〉は読者にも作用していく。



2025年8月10日日曜日

甲斐・甲州・甲府-芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治

 近代文学の作家の中で、芥川龍之介、井伏鱒二、太宰治の三人は山梨を訪れ、深い関わりを持った作家の代表的存在である。

 彼らの山梨や甲府の呼称には違いがある。彼らはどう呼んでいたのか。以下、その特徴を示した例を引用したい。呼称には下線を引く。 


 芥川龍之介

・甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候
        1910(明治43)年10月14日 山本喜誉司宛書簡

・春雨の中や雪おく甲斐の山
        「蛇笏君と僕と」 「雲母」1924(大正13)年3月号
 
 井伏鱒二

・この青梅街道は、新宿角筈を起点にして青梅を過ぎ甲州に通じてゐる。同じやうに甲州街道も角筈から出発し、小仏峠を過ぎて甲州に通じてゐる。この二つの街道は不思議にも――不思議ではないかもしれないが、甲州の石和と酒折の間、甲運村といふところで再び合致してゐる。そしてこの合致点は新宿角筈の繁昌ぶりとは反対にひつそりとした村落だが、人気の荒つぽいといふ点では新宿角筈あたりと変りない。
・街道といふものは個性を持つてゐるのかもしれない。それ以上に街道の交叉点には、特に濃厚な個性が生れるのかもしれない。
        「甲州の話」  「都新聞」1935(昭和10)年1月22-25日

 太宰治

甲府は盆地である。四辺、皆、山である。

・よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
        「新樹の言葉」 『愛と美について』竹村書房  1939(昭和14)年5月刊


 芥川龍之介の 山本喜誉司宛書簡は、第一高等学校の学校行事で甲府に滞在したときのものである。甲府に二泊して、笛吹川で行軍演習を行った。「春雨の中や雪おく甲斐の山」は、山梨出身の傑出した俳人飯田蛇笏に贈った俳句である。芥川は俳句、紀行文、書簡などで「甲斐」という平安時代以来の古称で呼んでいる。

 井伏鱒二は釣りを好み、山梨をよく訪れた。広島生まれだが、山梨を第二の故郷のように思っていた。街道を歩くことも好んだので「甲州街道」という名にも含まれる「甲州」という古風な名で表現している。

 太宰治は昭和13年11月から甲府で暮らし始め、翌年1月に甲府の女性石原美智子と結婚した。「新樹の言葉」は甲府の中心街や甲府城跡(舞鶴城公園)が舞台となっている。昭和14年9月に東京の三鷹に転居したが、その後も、妻の実家の石原家や甲府湯村温泉の旅館明治などに滞在して小説を書いた。昭和20年4月から甲府に疎開し、7月の甲府空襲も経験している。太宰の居住地や生活圏は甲府市内であったことから「甲府」について語っている。

 芥川龍之介の〈甲斐〉、井伏鱒二の〈甲州〉、太宰治の〈甲府〉。各々の呼び方には、三人の作家としての個性や山梨との関わり方が表れている。


 ところで現在の山梨県には、甲府市・甲州市・甲斐市という「甲」のつく名の市が三つある。2004年から2005年にかけての市町村合併で、塩山市、勝沼町、大和村が合併して甲州市、竜王町、敷島町、双葉町が合併して甲斐市が誕生した。また、それ以前から山梨市がある。中央市という市も存在している。山梨の県庁所在地は甲府市であるが、他県の人は甲州市・甲斐市さらに山梨市や中央市と混乱してしまうかもしれない。実にややこしい、というのが正直なところであろう。


 今後このブログでは、芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治が甲府について記述した紀行文、小説、書簡などのテクストを取り上げていきたい。甲府や山梨と関わる文学作品を探究することが、〈甲府 文と芸の会〉設立の理由であり、会の活動の目標でもある。

2025年3月31日月曜日

芥川龍之介「春雨の中や雪おく甲斐の山」

 この三月は、寒さが戻ったり逆に急に暑くなったり、強い風が吹いたり雪が降ったりと、天候が目まぐるしく変化した。

 一昨日は朝から冷たい雨が降っていた。午後になると雨が上がり、視界を遮るものが取れて、甲府盆地の周囲が次第に見渡せるようになった。

 春の季節に雨が降ると思い出す俳句がある。題名に挙げた芥川龍之介の句である。芥川龍之介が山梨の俳人飯田蛇笏に贈ったものだ。


 龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句した。蛇笏は「我鬼」の「鍼條に」句を「雲母」大正8年7月号で「無名の俳人によって力作さるる逸品」と高く評価した。このとき蛇笏は「我鬼」が龍之介だということを知らなかったが、しばらくして気づくことになる。

 この四年後、「雲母」大正12年10月号と11月号で、蛇笏は「芥川龍之介氏の俳句」と題して龍之介の俳句を論じた。これを読んだ龍之介は大正12年11月9日に御礼の手紙を書き、蛇笏の影響で作った句があることを告げた。手紙の往来や書籍や雑誌の寄贈を通じてではあるが、この時から二人の交流が始まる。龍之介は「雲母」大正13年3月号に「蛇笏君と僕と」を寄稿し、「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の国にゐる蛇笏に献上したい」として、この「春雨の」句を披露している。


 「春雨」は冬から春へと移り変わる時期に降る霧雨である。春が近づいても山梨の高峰には雪が残っている。春雨が煙るように降る中、視線を遠くへと放てば、残雪が置かれる「甲斐の山」が見えてくる。

 甲府盆地の周囲には、東に大菩薩嶺などの甲州アルプス、西に甲斐駒ヶ岳、白根三山・南アルプス連峰、南に富士山・御坂山系、北に八ヶ岳・奥秩父山塊というように、二千から三千メートル級の高峰が連山のように連なっている。

 飯田蛇笏には中学や高校の教科書にも掲載される名句がある。龍之介も高く評価していた。

   芋の露連山影を正しうす  蛇笏

 甲府盆地に住む私たちにとって、この「連山の影」は馴染みの風景である。四方を見渡せば連山に囲まれている自分と対話することになる。残雪が溶けていくと、春そして夏が訪れる。

 この「春雨の」句は、龍之介が蛇笏への献上の句だと述べているとおり、蛇笏に対する敬意が込められた挨拶の句であるとひとまず理解できる。しかし、この句は単なる挨拶、儀礼にとどまらず、龍之介の甲斐の山々への親しみの想いが込められているのではないか。


 明治41年の7月、龍之介16歳。東京府立第三中学校の四年生だった。親友西川英次郎と二人で東京を出発。日向和田までは汽車、そこからは歩いて氷川、丹波山、塩山へ行き、塩山駅で汽車に乗り甲府へ向かい、昇仙峡へは再び徒歩で旅した。この旅の日誌には塩山で見た山梨の風景がこう書かれている。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と、「甲斐の山々」の風景、空や雲の色や光が微妙に変化する《偶景》を追っている。東京では見ることのできない景観に感銘を受けたのだろう。俳句につながる可能性を秘めた表現でもある。

 明治43年10月、龍之介18歳。第一高等学校の行事で甲府に二泊し、笛吹川まで行軍演習を行う。その際に友人に送った手紙には「甲州葡萄の食ひあきを致し候 あの濃き紫に白き粉をふける色と甘き汁の滴りとは僕をして大に甲斐を愛せしめ候」とある。

 明治45年4月、龍之介20歳。富士裾野を巡る旅では「今日朝八時東京発大月下車七里の道を下吉田に参り候 空晴れて不二の雪さはやかに白く」という文面の葉書を友人に送る。四月初めだから富士山の残雪が白く輝いていたことだろう。

 大正12年の8月、長坂町で開催された夏季大学では「人生と文芸」という題の講義を行った。その合間に、八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、南アルプスの山々を眺めたことだろう。

 芥川龍之介は数回にわたる旅で奥秩父山塊、南アルプス、八ヶ岳、富士山などの山々を実際に見ている。その経験を日誌や書簡に書き残している。甲斐の山の情景は生き生きと記憶に刻まれることになった。

 蛇笏は明示18(1985)年生まれ、龍之介は明治25(1992)年生まれ。七歳ほどの違いがあるが、俳句そして「甲斐の山」の風景を通して、この二人の間には深い心の交流があった。


   春雨の中や雪おく甲斐の山  龍之介

 残雪を置く峻厳な高峰には、第一に、孤高の存在としての飯田蛇笏が重ね合わされているだろう。第二に、龍之介が実際に見て感銘を受けた甲斐の山々の残像が投映されている。

 織物、ファブリックに喩えると、孤高の存在の蛇笏という縦糸と甲斐の高峰の残像という緯糸の二つが、この龍之介の一句に見事に織り込まれている。


2023年12月31日日曜日

百年後の時代、芥川龍之介「後世」[志村正彦LN341]

 12月24日、朝日新聞デジタルに「今も故郷に流れるフジファブリック 志村君が残した音楽は生き続ける」(菅沼遼)という記事が掲載された。「うたと私のStory」という連載の第1回である。

 この記事は、2008年5月の富士吉田「凱旋ライブ」から始まり、2011年12月の同級生による「志村正彦展 路地裏の僕たち」、誕生日7月10日前後の「若者のすべて」と12月24日の命日前後の「茜色の夕日」と流れる防災無線のチャイム、地元FMラジオ局の番組、富士急行下吉田駅の電車接近音楽となったことなど、この十数年の地元での様々な活動やその浸透や拡大を伝えている。記事はこう結ばれる。

志村さんが亡くなってからの14年間に、富士山は世界文化遺産に登録され、街は海外からの観光客であふれるようになった。街が少しずつ変わっても、志村さんの曲は変わらず、富士吉田の日常に溶け込み、生き続けている。

 ここ数年、ハタオリマチフェスティバルに出かけてこの街を歩いているが、確かに、少しずつ街が新しくなっているような気がする。


 今日は2023年最後の日ということもあり、芥川龍之介の「後世」(1919)というほぼ百年前に書かれたエッセイを紹介したい。芥川は百年後の時代を想像して次のように述べている。

時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。

 しかし、芥川はこう思う。

しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。


 誰かが〈偶然〉作品を見つけ出して〈短い一篇〉その中の〈何行か〉を読み、多少にせよ〈美しい夢〉を見ること。そして、読者の心に朧気であっても〈私の蜃気楼〉が浮かび上がること。 作品との偶然の遭遇による〈美しい夢〉と〈蜃気楼〉の発見。

 蜃気楼は、空気の温度差によって光が屈折し、遠方の風景が逆さまになったり伸びたりする虚像を指す。芥川はこの文章を書いた六年後に書いた短編小説「蜃気楼」を発表する。最後の場面では、芥川夫妻を思わせる〈僕等〉が鵠沼海岸を歩いて家に帰っていく。作品は〈そのうちに僕等は門の前へ――半開きになった門の前へ来ていた〉という文で終わる。〈半開きになった門〉とは、心の門が半ば開き、半ば閉じられていることを象徴する。無意識の開閉と言ってもよい。芥川の心には自らの〈蜃気楼〉が浮かんできたのかもしれない。

 最後に芥川は〈私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられない〉と書いている。百年後の読者の心に浮び上る〈私の蜃気楼〉という想像を、〈愚〉、愚かな想いと捉えて自ら笑いながらも、その想いが捨てきれずにいつまでも追いもとめようとする自身の〈意気地なさ〉を憐れんでいる。〈愚〉を捨てきれるような〈意気地〉はない、心の強さはない、そのことを自ら慈しむような心情が芥川らしい。

 実際は、没後二年の昭和4年には『芥川龍之介全集』が刊行された。その後も何度も全集が発行されている。「羅生門」は高校国語の定番教材となった。批評や研究は膨大な数に上る。芥川が残した資料の大半は山梨県立文学館に収められ、その一部が常設展示されている。その他の資料も日本近代文学館、藤沢市文書館に収蔵され、芥川の田端の家の跡地には「芥川龍之介記念館」の建設が予定されている。

 芥川には自分の作品がある程度は残るという自信はあっただろうが、これほどまでの状況は想像していなかったと思われる。四年後の2027年に芥川没後百年を迎える。この百年近くを振り返ると、日本近代文学の傑出した作品として読み継がれてきたことは間違いない。

 学校教育で芥川の作品に出会うことは多いが、「羅生門」などの代表作に限られる。しかし、あまり読まれていない、ほとんど言及されることのない作品に魅力のあるものが少なくない。この「後世」で言われているように、〈誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して〉読むことが文学との本質的な出会いとなる。芥川の著作権は切れているので、青空文庫にもたくさん収録されている。さらに、岩波書店の『芥川龍之介全集』、筑摩文庫版の全集なども通して、作品に出あってほしい。


 このブログの中心テーマである志村正彦の場合はどうであろうか。

 彼の生が閉じられて十四年になるが、聴き手は着実に増えてきた。音源や映像を収めた『FAB BOX』などのボックスセットもⅠ・Ⅱ・Ⅲと三回リリースされた。歌詞の評価も高く、『志村正彦全詩集』もオリジナル版、新装版と版を変えて二回も刊行された。2022年から高校の音楽教科書『MOUSA1』にも掲載され、教材となった。一つだけ不満があるとすれば、音楽ジャーナリズム、日本語ロックの批評や研究のなかでいまだに正当な評価が与えられていないことだ。業界的な評価、旧来の価値観や基準などにしばられている。フジファブリックが成しとげた音楽にもっと向き合ってほしい。


 志村正彦の作品は、地元富士吉田の様々な活動、音源・映像のリリース、詩集の刊行、高校音楽の教材化などによって広まったことは確かだが、おそらく、聴き手がたまたまインターネットやラジオで耳にしてその素晴らしさを発見したことも少なくないだろう。芥川の言う〈誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出し〉た形である。


 芥川がそうであったように、百年後の時代でも、志村正彦・フジファブリックは、21世紀初頭の日本語ロックを代表する音楽として聴かれ続けていると僕は考えている。ある程度は歴史的なアプローチになるかもしれない。それでも、未来の聴き手も自らの心に響く歌として志村に出会うだろう。

 来年2024年はメジャデビュー20周年になる。志村正彦の歌との偶然の出会いがもっともっと増えていくことを願う。


2017年12月17日日曜日

芥川龍之介の不安にゆれる心象-『蜃気楼』8[志村正彦LN170]

 久しぶりに志村正彦・フジファブリックの『蜃気楼』に戻りたい。

 連載第7回で紹介した芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』という小説の中で、蜃気楼はどのように描写されているのだろうか。
 作品前半の登場人物「僕等」三人、「僕」芥川と「O君」親友小穴隆一と「大学生のK君」は、ある秋の昼、蜃気楼を見るために鵠沼海岸に出かける。


 蜃気楼の見える場所は彼等から一町ほど隔っていた。僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。
「あれを蜃気楼と云うんですかね?」
 K君は顋を砂だらけにしたなり、失望したようにこう言っていた。そこへどこからか鴉が一羽、二三町隔った砂浜の上を、藍色にゆらめいたものの上をかすめ、更に又向うへ舞い下った。と同時に鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った。
「これでもきょうは上等の部だな。」
 僕等はO君の言葉と一しょに砂の上から立ち上った。


 腹這いになった「僕等」が見たのは、「陽炎の立った砂浜」の上に「青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた」光景だった。それは「海の色が陽炎に映っているらしかった」と推測されている。また、どこからか一羽現れた「鴉の影はその陽炎の帯の上へちらりと逆まに映って行った」光景も目撃される。「K君」は失望し、「O君」はこれでも上等だと言う。この日「僕等」が見たのは「蜃気楼」というよりも、「陽炎」の中に映る像や影のようだと「僕」は解析している。あくまで自然現象として考察する「僕」のありかたを記憶すべきだろう。

 作品後半では、夜の七時頃に「僕」と「O君」と「妻」の三人(「K君」は帰京した)が鵠沼海岸に再び出かける。第7回で引用した「鈴の音」の場面に続いて、「僕」はある夢を語る。


 僕はO君にゆうべの夢を話した。それは或文化住宅の前にトラック自動車の運転手と話をしている夢だった。僕はその夢の中にも確かにこの運転手には会ったことがあると思っていた。が、どこで会ったものかは目の醒めた後もわからなかった。
「それがふと思い出して見ると、三四年前にたった一度談話筆記に来た婦人記者なんだがね。」
「じゃ女の運転手だったの?」
「いや、勿論男なんだよ。顔だけは唯その人になっているんだ。やっぱり一度見たものは頭のどこかに残っているのかな。」
「そうだろうなあ。顔でも印象の強いやつは、………」
「けれども僕はその人の顔に興味も何もなかったんだがね。それだけに反って気味が悪いんだ。何だか意識の閾の外にもいろんなものがあるような気がして、………」
「つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。」


 芥川はある小品で、かなり唐突な形ではあるが、「フロイト」という固有名詞へ言及したことがある。「フロイト」は精神分析の創始者、ジグムント・フロイトのことであろう。芥川がフロイトの英訳本を読んでいた可能性はあると思われるが、少なくとも、大正時代から紹介され始めたフロイト理論を知っていたことは間違いない。(日本近代文学館と山梨県立文学館の芥川蔵書コレクションにはフロイトの著作はない。ただし、二館のコレクションは蔵書のすべてではないので、実証的には判断できない。)
 この場面で「僕」が述べている「意識の閾の外」にある「いろんなもの」とは、精神分析的な枠組から捉えると、「夢」の中の「無意識」の表象であろう。実際に、晩年の芥川作品には夢や無意識のモチーフが頻繁に登場する。

 『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』では、「鈴の音」の錯覚や「意識の閾の外」にある夢の世界という捉え方の範囲でとどまっている。ある種のバランスがあり、作者芥川もそのことに自信を持っていた。「話」らしい話のない小説の具現とも考えていた。構想したのはおそらく大正15年末だろう。しかし翌年の昭和2年になると、芥川の人生に転機が訪れたこともあり、作風にも大きな変化が生じた。「錯覚」にとどまらない「幻覚」や「幻聴」をモチーフとする『歯車』や、夢と無意識の世界に深く下降していく『夢』(題名そのものが夢である未定稿小説)などを遺している。

 『歯車』の主人公「僕」は、見えてくる形や聞こえてくる音を、そこにはありえないもの、不気味なものや恐ろしいもの、「死」を連想させるものに変換してしまう。『夢』の主人公「わたし」は、作中の現実と「夢の中の出来事」が混然一体となるような不可思議な経験をする。もちろん小説表現の中の出来事であり、作者芥川自身の経験とは分けねばならない。小説とその作者は基本として分離すべきである。しかし、『歯車』や『夢』のリアリティがどこからもたらされたのかは、きわめて重要な問いでありつづける。

 志村正彦作詞の『蜃気楼』と芥川龍之介『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』の間に、直接的で具体的な関係はおそらくないであろう。(志村が「蜃気楼」という言葉を芥川経由で頭に刻んだ可能性はあるかもしれないが)それでも、「蜃気楼」という言葉が、主体の不安にゆれる心象の現れであることの類似性は興味深い。 

  (この項続く)

2017年10月29日日曜日

芥川龍之介『蜃気楼』-『蜃気楼』7[志村正彦LN167]

 『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)に、「DIALOGUE  李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談が掲載されている。志村正彦は、「蜃気楼」というタイトルの由来は?、という問いに対してこう述べている。   

 絶望だけで終わりたくない、かといって希望が満ちあふれた感じでもないなと思って、その迷っている感じですかね。実際に蜃気楼というものを見たことはないんですけど(笑)、その揺れている感じが合うかなと。

 志村は、「絶望」と「希望」という相反するものが揺れている「感じ」を重んじたようだ。「絶望」と「希望」のあわいにあるもの、「絶望」が「希望」にあるいは「希望」が「絶望」に反転していくような世界、そのようなイメージを「蜃気楼」に託そうとした。「絶望」と「希望」のあわいに「実像」と「虚像」が入り乱れるような光景を心に描いた。それが「蜃気楼」というイメージにつながったのだろうか、それでもなぜこの言葉を使ったのだろうか。

 文学作品の中で「蜃気楼」という言葉で思い浮かぶのは、芥川龍之介の短編『蜃気楼』(正確には『蜃気楼―或は「続海のほとり」―』)だろう。この作品は、1927年3月、芥川の死の半年ほど前に発表された。晩年を代表する小品で、評価が高い。
 志村はかなりの読書家だったことで知られている。彼がこの小説を読んだ可能性は大いにあると思われる。仮に読んでいなかったとしても、「蜃気楼」という作品の存在、その題名は知っていたはずだ。彼の記憶のどこかにこの言葉があっただろう。

 芥川龍之介の『蜃気楼』は次のように始まる。

 或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰でももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。
 僕等は東家の横を曲り、次手にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。
「そっちから上って下さい。――やあ、君も来ていたのか?」
 O君は僕がK君と一しょに遊びに来たものと思ったらしかった。
「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。君も一しょに行かないか?」
「蜃気楼か? ――」
 O君は急に笑い出した。
「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな。」

 「僕」は作者の芥川自身、「大学生のK君」が誰かは分からないが、「O君」は芥川の親友小穴隆一を指すものと思われる。虚構作品ではあるが、現実の出来事を素材にしていることは間違いない。「女中」の発言にある「この間の新聞」も実際に存在していたことを調査した研究もある。当時、舞台の鵠沼海岸に多くの見物客が訪れたようである。

 この後、この三人は海岸の方に歩いていく。特に事件が起きるわけでもなく、歩行中の会話や心象風景が次々と綴られていく。芥川が晩年唱えた、「話」らしい話のない小説の一種とも言われている。物語らしい物語がないとしても、何らかの表現のモチーフがあるだろう。それは何か。
 不気味なものに遭遇する。そのように「錯覚」する。作者芥川の分身である「僕」の不安が、中心的なモチーフとなっていると言えるかもしれない。「錯覚」という言葉が何度か繰り返される。

「好いよ。………おや、鈴の音がするね。」
 僕はちょっと耳を澄ました。それはこの頃の僕に多い錯覚かと思った為だった。が、実際鈴の音はどこかにしているのに違いなかった。僕はもう一度O君にも聞えるかどうか尋ねようとした。すると二三歩遅れていた妻は笑い声に僕等へ話しかけた。
「あたしの木履の鈴が鳴るでしょう。――」
 しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。
「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」
「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ。」
 O君もこう言って笑い出した。そのうちに妻は僕等に追いつき、三人一列になって歩いて行った。僕等は妻の常談を機会に前よりも元気に話し出した。

  引用文の「妻」は芥川夫人の「芥川文(ふみ)」であろう。この場面では芥川、妻の文、小穴の三人が海辺を歩いている。「僕」は「鈴の音」が聞えるような気がする。「この頃の僕に多い錯覚」かと思うが「実際」にどこかで音がしているようにも思える。錯覚だろうか現実だろうか、そのように心が揺れること自体が「僕」は気がかりだ。その「僕」の不安を敏感に察した「妻」は「笑い声」で先を制すように「木履」を、「O君」も「鈴のついたセルロイドのおもちゃ」を原因として挙げる。「妻」も「O君」も笑いによって「僕」の不安を鎮めようとしている。その二人の想いが少しは通じたのか、「僕等」は「常談」として受けとめ、「前よりも元気に」話しだす。

 この場面はおそらく、芥川、妻の文、小穴隆一との間で現実にあった出来事であろう。妻の芥川に対する気遣い、小穴の友情が伝わってくる。暗い心象風景を描いたと言われる『蜃気楼』だが、この二人の言葉や心情がほのかな光を灯しているようにも読みとれる。

  (この項続く)

2017年8月22日火曜日

ストリンドベリ(Strindberg)、公園の銅像、芥川龍之介への影響-ストックホルム3

 ゆるやかな坂を上がり、Drottninggatan 85番地にある「青い塔」の一室、ストリンドベリの旧居・記念館にたどりついた。もう午後7時半を過ぎていた。当然閉館している。でも時間には関係なかった。この記念館は改装のために半年ほど閉館中ということを知った上で訪れたのだった。

 四ヶ月ほど前、ストリンドベリ記念館の開館日や時間を確認し、訪問時間を確保できるツアーを探して予約したのだが、出発の一月ほど前にサイトを見ると、7月から来年1月までリノベーション工事のために休館するという知らせがあった。予想外の展開にどうしようかと思案したが、すでに準備を進めていた。勤め人であるゆえ休暇期間も調整していた。結局、そのまま旅行することにした。近くの公園には銅像もあり、ゆかりの通りを歩くこともできる。そう考え直した。

 ストリンドベリ記念館は晩年四年間の住居を使ったものだ。youtubeには内部を撮影した映像がいくつもある。当時の彼の書斎や寝室がそのまま残されている。個人記念館としては王道を行く在り方だ。でも映像を見る限り、展示方法は現代の記念館としては古びている感じもする。だから改装されることになったのだろう。
 入口までたどり着いたときに、やはり、とても残念な気持ちに襲われた。仕方がない。入口の写真を撮りこの場を去った。



 「青い塔」の脇の道を少しだけ上っていくと「Tegnérlunden公園」がある。ここに銅像があるはずだ。入るとすぐにかなり高さのある銅像が見つかった。想像していたものもずっと大きくて立派だ。高さは5メートル近い。すぐ下から見上げても姿が分からない。離れてからもう一度見るとようやく全体像がつかめた。ストリンドベリで間違いない。裸身の像で、顔はうつむきながら何かを凝視している。台座の周りには彼の作品を形象化した図柄が刻まれている。ストリンドベリの精神の荒々しさを表現しているようで圧倒される。



 落ち着きのある美しい公園だった。ベンチに腰掛けて三十分ほど過ごした。散歩する人は見かけたが、この銅像を見に来る人はいなかった。(グーグルマップにもこの像については記されていない。観光客が訪れることもないのだろう)
  周りは古い建物に囲まれているのだが、ここには静かな時間が流れている。芥川龍之介とストリンドベリのことをぼんやりと考えた。

 僕は芥川龍之介の晩年の作品について持続的な関心を持ち、論文も少し書いてきた。
 1927年、芥川が亡くなる数か月前に書いた遺稿『歯車』は、その題名が象徴的に示すように、偶発的な出来事やそれらの「暗号」のような連鎖に対する不安、関係妄想的な気分、様々な文学作品(自作や海外の作品を含めて)への言及などの多様なモチーフが「歯車」のように絡み合い作用しあい、「意味」を生みだしていく。その構造を分析するのが修士論文のテーマだった。その際、ストリンドベリの『地獄』(Inferno, 1897年)が芥川『歯車』に与えた影響についても、若干ではあるが考察した。ストリンドベリと芥川は、作家の生活と作品の創造という関係性において共通性がある。

 ちょうど百年前になる。1917年1月12日、当時二四歳の芥川は『地獄』の英訳本に「この本をよんでから妙にSuper Stitiousになって弱った。こんな妙なその癖へんに真剣な感銘をうけた本は外にない」という書き込みをしている。(この蔵書は日本近代文学館に収蔵されている)その後、芥川はストリンドベリをかなり読み込んだ。『歯車』はストリンドベリ『地獄』へのオマージュのような小説でもある。

 ストリンドベリは当時のスウェーデンを代表する作家としてノーベル文学賞の声も上がっていたが、この時代は「立派な人物像」が大きな判断材料であり、この賞に値するような生き方が求められていたそうだ。彼は「多数を敵に回すような言動」があったために受賞できなかったと言われている。

 ストリンドベリの銅像がある公園でしばらく過ごした後、「Drottninggatan」(ドロツトニング通り)に戻った。中央駅の方向を写真で撮った。ゆるやかな下り坂の先にはストックホルム中央駅近くのセルゲル広場がある。さらに向こう側には旧市街ガムラスタンがある。ドイツ教会だろうか。彼方に塔が見えた。


 「Drottninggatan」は「女王通り」という意味で、17世紀につくられた由緒ある街路だ。1912年1月、ストリンドベリが亡くなる四か月ほど前に、かなりの数の青年たちが彼に敬意を表すために炬火行列をした。病身の作家は「青い塔」のバルコニーからそれにこたえたという。
 今年の4月この通りで、トラックの暴走による痛ましいテロ事件が起きている。ストリンドベリが活躍した時代から百年後のこの世界は複雑に引き裂かれている。ジャーナリスト出身であり、社会、政治、宗教、文学、科学について鋭い批評をたくさん書いた彼なら、現在の世界に対してどのように考えただろうか。

2017年1月5日木曜日

芥川龍之介「元日や手を洗ひをる夕ごころ」       

 元日や手を洗ひをる夕ごころ       芥川龍之介

 元日を迎えるとこの句を思う。芥川自選の七十七句を編んだ『澄江堂句集』の一句。芥川の作という枠を超えて、今や元日の句として最も有名な句であろう。

 元日は、初日の出、朝の時間が祝福される。だが、芥川は朝をそれとなくやりすごす。昼から夕方へと時は移り、「手を洗ひをる」。身体の所作だが、幾分か象徴的でもあり、自分を洗う、自身を浄める意味を帯びているかもしれない。補助動詞「をる」のおさまりがいい。「洗ふ」動作に終止符を打ち、いったん間をあけ、「夕ごころ」につなげていく。

 芥川龍之介は眼差しの人でもある。自らの「手」を凝視した後、田畑の家の庭にでも降りて、夕暮れを見たのだろうか。それとも書斎にいて記憶の夕景を思い出していたのだろうか。どちらにしろ、彼は「夕ごころ」に佇んでいる。
 「yuugokoro」というなめらかな響きはどこか懐かしいが、芥川特有の憂愁がある。

 芥川は夕暮れ、日暮れの時を好んだ。よく読まれている作品では『羅生門』冒頭の「ある日の暮方の事である」、遺稿『或阿呆の一生』の「彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した」など、繰り返し表現している。日暮れ時、物語の主人公は一人で往来を歩く。路地を彷徨する。その憂愁に包まれている。
 そんなことを考えていると、志村正彦・フジファブリック『茜色の夕日』が浮かんできた。この歌にも「夕ごころ」の憂いが込められている。

 大晦日にさかのぼりたい。朝日新聞朝刊のある面全体に歌詞らしきものがあった。下の小さな文字を読んで、NHK紅白歌合戦に出場する「THE YELLOW MONKEY」のメッセージ広告だと分かった。「ロックの歌詞」がこのような形で新聞の全面を覆うのは初めてのことではないか。どれだけの経費がかかったのか。毒を以て毒を制すということなのか。「残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ。」という言葉が添えられていたが、確かに、この国に必要な歌であることは間違いない。

 夜、紅白を見た。椎名林檎とRADWIMPSのドラマーが刄田綴色だと気づいて驚いた。
 終盤近くになって、THE YELLOW MONKEYの登場。
 吉井和哉が、ロック的なあまりにロック的な『JAM』を堂々と切々と歌う。2016年のロックの聞き納めとなった。

  儚なさに包まれて 切なさに酔いしれて
  影も形もない僕は
  素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから
  好きな歌を歌う
     ( THE YELLOW MONKEY 『JAM』  作詞・作曲:吉井和哉 )