ページ

2013年4月6日土曜日

『ペダル』2「僕が向かう方向」(志村正彦LN13)

  『ペダル』の歌詞は三つのブロックに分かれている。今回は二番目のブロックに移ろう。

  上空に線を描いた飛行機雲が
  僕が向かう方向と垂直になった
  だんだんと線がかすんで曲線になった


 「僕」が移動している途中、「飛行機雲」が現れる。「上空」に描かれた「飛行機雲」の線の方向、それと垂直に交わる「僕が向かう方向」。「飛行機雲」の「線」が「曲線」になる変化。「あの角」の「角」も、見えるものと見えないものとの間にある「垂直」の「線」であろう。この三行は見たままの風景の描写だろうが、「僕」が「線」や「方向」そして「垂直」や「曲線」に鋭敏なのはなぜだろうか。それは、「僕」が生きていく「方向」に何か不安があるからではないのか。不安なまま「僕」は、風景の中に自分の位置や方向を確認しつづける。言葉にもとづく根拠はないのだが、そう感じられてならない。

  何軒か隣の犬が僕を見つけて
  すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり


  あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ


 この歌の題名は『ペダル』であり、「駆け出した自転車」という表現もあるので、歌の主体の「僕」は「自転車」に乗って「ペダル」を漕いで「駆け出して」いる、という情景が思い浮かぶかもしれない。しかし、最初の2行にある、「何軒か隣の犬」が「僕を見つけて」「すり寄ってくる」という出来事で描かれる、「犬」と「僕」の距離感からは、「僕」は歩いて移動していると考える方が自然だという気もする。『FAB BOOK』には、「この曲のBPM、というかバスドラムのテンポですけど、それを僕が普段歩いてるときの速さと同じにしてくれって」という言葉があり、この歌のテンポが志村正彦の「歩行」のリズムであるという興味深い事実もある。

 「僕」が歩いているとすると、「駆け出した自転車」に「追いつけない」のは「僕」だという解釈も成り立つ。誰かが漕いで「駆け出した自転車」を僕は歩いて追うが、「いつまでも追いつけない」という状況だ。そうなると、「僕」が「消えないでよ」と願う対象はこの「自転車」だとも考えられる。
 しかしあくまでも、「僕」が「自転車」に乗っていると考える場合は、「僕」が「いつまでも追いつけない」対象は、「消えないでよ」と願う対象と文脈上同一のものになるだろう。

 この第二ブロックの場合、最初に現れた「飛行機雲」が「消えないで」の対象とすることもできる。現実的にも、「飛行機雲」はごく短い時間の移動では消えないが、やがて消えてしまう自然の現象である。第一ブロックの「花」も、より長い時間の間隔ではあるが、その色の輝きがやがて失せてしまうものである。そう考えると、歌詞の展開通り、「花」や「飛行機雲」が「消えないでよ」と願う対象にあげられてよいのだろうが、それだけに限定するのはこの歌の世界の広がりや漂う感覚にそぐわない気がする。やはり「消えないでよ」の対象はより抽象的に把握したほうがよいのではないだろうか。

 視界から、見えるものと見えないものの境界から、消えそうになってしまうもの。記憶の中で消失しないでほしいもの。私たちの心にあり続ける、「消えないでよ」と祈るしかないもの。そのような対象は、志村正彦の歌には潜在的にも顕在的にも繰り返し登場している。例えば、『花』の「花のように儚くて色褪せてゆく」ものも、『陽炎』の「きっと今では無くなったもの」も、『赤黄色の金木犀』の「目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく」ことも、そのような変奏の一つであろう。

(4月7日一部改稿、次回に続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿