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2013年4月22日月曜日

「僕」と「幸世」と『モテキ』で (志村正彦LN19)

 前回触れた4月17日の『1番ソングSHOW』のことだが、最後で再び映画『モテキ』のあるシーンをギャグとして再現する際に、『夜明けのBEAT』が流され、志村正彦の声がそのシーンに重なっていたことを付け加えておく。今回の特集での『モテキ』の比重は大きかったといえよう。
 
 そもそも、なぜ、志村正彦の遺作である『夜明けのBEAT』が、ドラマ『モテキ』(ドラマは2010年7~10月にテレビ東京で放送され、その続編として2011年9月に映画が公開された。原作の漫画『モテキ』は『イブニング』誌に2008年から2010年まで連載され、単行本は2009年に2巻、2010年に3[2,5]巻の計5[4,5]巻が刊行された)の主題歌に抜擢されたのか。
 
 ファンならよく知っている事実ではあるが、その経緯を示した次の記事を引用したい。アールオーロック(ロッキング・オンの音楽情報サイト)【http://ro69.jp/feat/moteki201009-3】の《対談!「マンガ『モテキ』」久保ミツロウVS「ドラマ『モテキ』」大根仁》という記事である。ドラマと映画の監督大根仁と原作の漫画家久保ミツロウは次のように語る。

大根:[略]俺も、気になるバンドではあったけど、そんなに詳しくは知らなかったし、志村さんが亡くなってしまったから、当然もう楽曲はないと思ってたんだけども。でも、「実は……」って出てきて、それを聴いたら、"夜明けのBEAT"って曲の歌詞と、曲と、『モテキ』の内容とのシンクロ具合っていうのに、もう、「うわあ……」って。鳥肌立ちましたよ、最初に聴いた時。で、「もうこれしかないな」っていうか。

久保: そこが一番、すごい奇跡って感じですよね。

大根: 志村さん、当然、『モテキ』のことも知らずに曲を作ったわけで。今、どんな気持ちで聴いてるかなあ、って。

 確かに、『夜明けのBEAT』の歌詞とドラマ『モテキ』あるいは漫画『モテキ』の世界の間に、何か奇跡のようなシンクロを感じる人は多いだろう。
 さらに言うと、彼の歌の聴き手であれば、彼の歌の話者であり主体である「僕」(それは多くの場合、作者志村正彦の分身である)と、『モテキ』の主人公「藤本幸世」(こちらの方も作者久保ミツロウの分身のようだ。作者は女性であり、分身は男性であるという珍しい例だが)と重なるところがあると感じるのではないだろうか。

 もうすぐ30歳になる「藤本幸世」は、自分に自信が無く、その割には(というか、だからこそ、と書くべきだろうか)女性や恋愛への特有のこだわりと少しばかりのプライドと盛り沢山の妄想があり、若者らしい、年相応の、他者や女性との関係の世界へ踏み込むことができない。
 「モテ期」を迎えた「幸世」は、それが可能になりそうになる瞬間に、いつも打ち砕かれてしまう。そのような展開がこの物語の型であり要でもあるが、その原因は、女性たちという外部にあるのではなく、あくまで「幸世」の内部にあるのだ。
 
 読者はそこに「どうしようもなさ」や「苦笑い」の要素を見つけるのだが、それ以上に、この愛すべき困った青年がどのようにして自分の内部を開き、他者との関係の形成へ向かっていくのかという方向で、この物語を読み解いていく。漫画の読者、ドラマの視聴者を、そのような方向へと自然に導いていくのは、原作者久保ミツロウと監督大根仁の巧みさというよりも表現者としての真摯さのなせる技なのだろう。

 志村正彦の歌の「僕」から、「藤本幸世」ほどの「どうしようもなさ」は感じられない。しかし、他者に対して言葉を届けられないという想い、自分の内部と外部とを、過去と未来とを、どのように関係づけたらよいのかという困難な問題を、抱えているという点では、「僕」と「幸世」には共通項があると考えられる。

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