2014年5月25日日曜日
「角」の原風景 [志村正彦 LN84]
昨日、富士吉田に行って来た。5月上旬に続いて、今月は2度目となる。
天気が良く、初夏を思わせる気候。通り抜ける風がさわやかだ。日に日に、富士山の雪解けも進んでいる。
数日前の地元ニュースで、山梨を訪れた外国人観光客が前年より34・5%増え、その理由の半数近くが富士山の世界文化遺産登録だったことが伝えられた。確かに、河口湖から富士吉田へと向かう途中で、外国人の姿をたくさん見かけた。アジア諸国の若者が多い印象だ。観光は山梨の大切な資源であり、産業でもある。観光という形であっても、人々の交流が進むのは大歓迎だ。
昨日の目的のひとつは「志村正彦を巡る小さな小さな旅」。今までも何度か訪れたことはあるのだが、今回は志村正彦が中学生の頃まで暮らしていた実家跡を起点として、幼少年期から小学校中学校までのゆかりの場をたどっていくという道筋を選んだ。彼の視線から見える風景を再体験する旅、最近の言葉で言い換えるなら「志村正彦フットパス」とで言える試みだ。
彼の通った保育園、小学校、神社、路地と路地裏。
小学校の校庭。野球団に入りたくてたまらない少年がそこから一人で寂しそうに眺めていたという石段。そこに座り、前方を眺める。細長いグランド、白線、向こう側には小室浅間神社の樹木が並ぶ。友達とよくその境内で遊んだらしい。
『陽炎』の舞台となった駄菓子屋跡。細い路地が続く。直線は少なく、微妙に折れ曲がった道筋。路地の角が視界をふさぐ。角を曲がると新たな風景が開けてくる。振り返ると、それまでの風景は消えていく。幾分か、迷路を歩いているような感覚にとらわれる。富士の裾野のなだらかな斜面、北側の山々からの斜面と、傾斜がゆるやかに続くことも、この路地の形を複雑にしている。
「角」が歩行にリズムを与える。『ペダル』の一節、「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」を想いだす。消えないでよと望む対象と自分自身を隔てるものとしての「角」。この町並そのものに、「角」のモチーフが隠されている。
しばらく歩く。路地の薄暗がりを抜けると、小さな橋と川に遭遇する。陽の光が射し込み、川辺の緑がまぶしい。遠く山の稜線。時には富士山の一部が視界に入る。路地の壁と壁の間に切り取られた富士山。この界隈ならではの富士の姿だろう。
原風景としての「角」。下吉田、月江寺界隈の路地では、「角」を起点として、それまでとは異なる小さな小さな世界が連続して出現する。同じようでどこかが違う路地。川、池、山、空の自然の風景。断片としての富士。灰、青、緑、茜、色調の変化。風景が転換し、風景の複雑なファブリックが形作られる。
多種多様な「転調」が志村正彦の楽曲の特徴だと言われている。転調や変拍子の多用はプログレッシブロックの手法だ。彼もプログレやその他の音楽の転調の手法を学んで作曲したのだろう。
しかし、そもそもの感性のあり方としても、彼は曲調の複雑な変化を好んだのではないのか。幼少年期の風景は、人の感性に強い影響を与える。
彼の場合、それは楽曲だけにとどまらず、言葉の選択、物語の話法にも及んでいる。楽曲と言葉の転換が微妙に絡み合いながら、あの独特の詩的世界が立ち現れる。志村正彦の原風景をたどるとそのような仮説が浮かんでくる。
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『ペダル』,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年5月20日火曜日
反響-4/13上映會6 [志村正彦LN 83]
上映會から一月以上経つ。このレポートも今回で完結としたい。
4月13日は、穏やかな日和ではあったが、風にはまだ少し寒さが残っていた。この頃の風には寒さはもう無くなり、爽やかさがある。風の感触、風そのものの「風合い」が季節の実感を伝え、すでに初夏を思わせる気候となっている。『桜の季節』から『陽炎』へと、季節が歩み始めている。甲府盆地から見る富士山も雪解けが進み、夏の山へと姿を変えつつある。
あの日、富士吉田に集った800人ほどの人々は、何を心に刻み、各々帰途へついたのだろうか。少数の知人を除くとすべて見知らぬ人々。言葉を交わすこともなく、ただ眺めるに過ぎない人々。でもなんだか、志村正彦・フジファブリックを中心とする「聴き手の共同体」の一員として、仲間意識のようなものも芽生えた。おそらく、皆、一生、志村正彦・フジファブリックを聴いていくのではないだろうかという確信と共に。
当日夜、NHK甲府のローカル・ニュースが、「フジファブリックライブ映像上映」と題して1分半ほど取り上げていた。「志村さんにとって最初で最後の凱旋ライブ」と紹介され、『桜の季節』のシーン、展示会の様子、二人の女性のコメントが放送された。(昨年の「がんばる甲州人」の志村特集と同様、NHK甲府の報道は有り難い)
2008年のライブも見ていたという方は、「この会場でもう一回見ることができたのが本当にうれしくて」と述べた。もう一人の方は「大切に大切に大切に聴いていきたいと思います」と話していた。「もう一回見る」ことのできた有り難さ、嬉しさ、そして「大切に」を三度繰り返した想いは、あの日に集った皆が共有するものだろう。
5月4日付の山梨日日新聞では、沢登雄太記者が「フジファブリック故志村正彦 故郷でライブ上映 ほとばしる情熱”再燃”」と題する記事を書き、「志村がステージにいて、バックスクリーンに彼が映っているのかと錯覚してしまうほどだった」と記していた。ある女性の「志村君はいないけど、いる」というコメントも載せられていた。「いないけど、いる」。この言葉もまた、あの日集った人々の想いを代弁している。
見かけた人も多かっただろうが、あの日は友人や仲間の音楽家たちがたくさん富士吉田を訪れてくれた。クボケンジ・木下理樹・曽根巧の3人が寄り添うようにして歩いていた。城戸紘志、足立房文そして同級生の渡辺隆之もいた。初代、2代目、そしてサポートではあるが実質的には3代目のドラマーが集っていた。おおげさだよと照れながらも、志村正彦は喜んでいたにちがいない。
クボケンジは「メレンゲブログ」4/26/2014 (http://band-merengueband.blogspot.jp/)で、それにしても「お前はよく頑張ったね」と言ってやりたいのだ、と語っている。志村のMCの言葉に触発されて、「ずっと宿題を抱えてるみたいな気分なんだ。作詞作曲して歌うってのは一歩間違えるとすごくかっこ悪くて恥ずかしい。なので自分が思ってる以上にストレスなり体力を使う」と吐露しているのがとても印象深かった。表現者という立場を維持する限り、そのことに追われる日々が続く。(表現の第一線から退却した「元表現者」であっても、この国のファンは優しいので、それなりに活動を続けられる事例も多いが)
「お前はよく頑張ったね」という言葉には、一人の表現者がもう一人の表現者に贈る、語ることのできない想いが刻み込まれている。
表現は過酷で、時には深淵が待っている。
上映會、そして『FAB BOX Ⅱ』という美しく豊かな果実。
新しい楽曲が作り出されることはないという現実のもとで、「大切に大切に大切に」愛しむように、私たちは志村正彦の遺した楽曲を聴き続けていく。
聴く行為が絶えない限り、「いないけど、いる」という形で、彼はここに存在し続けるのだから。
4月13日は、穏やかな日和ではあったが、風にはまだ少し寒さが残っていた。この頃の風には寒さはもう無くなり、爽やかさがある。風の感触、風そのものの「風合い」が季節の実感を伝え、すでに初夏を思わせる気候となっている。『桜の季節』から『陽炎』へと、季節が歩み始めている。甲府盆地から見る富士山も雪解けが進み、夏の山へと姿を変えつつある。
あの日、富士吉田に集った800人ほどの人々は、何を心に刻み、各々帰途へついたのだろうか。少数の知人を除くとすべて見知らぬ人々。言葉を交わすこともなく、ただ眺めるに過ぎない人々。でもなんだか、志村正彦・フジファブリックを中心とする「聴き手の共同体」の一員として、仲間意識のようなものも芽生えた。おそらく、皆、一生、志村正彦・フジファブリックを聴いていくのではないだろうかという確信と共に。
当日夜、NHK甲府のローカル・ニュースが、「フジファブリックライブ映像上映」と題して1分半ほど取り上げていた。「志村さんにとって最初で最後の凱旋ライブ」と紹介され、『桜の季節』のシーン、展示会の様子、二人の女性のコメントが放送された。(昨年の「がんばる甲州人」の志村特集と同様、NHK甲府の報道は有り難い)
2008年のライブも見ていたという方は、「この会場でもう一回見ることができたのが本当にうれしくて」と述べた。もう一人の方は「大切に大切に大切に聴いていきたいと思います」と話していた。「もう一回見る」ことのできた有り難さ、嬉しさ、そして「大切に」を三度繰り返した想いは、あの日に集った皆が共有するものだろう。
5月4日付の山梨日日新聞では、沢登雄太記者が「フジファブリック故志村正彦 故郷でライブ上映 ほとばしる情熱”再燃”」と題する記事を書き、「志村がステージにいて、バックスクリーンに彼が映っているのかと錯覚してしまうほどだった」と記していた。ある女性の「志村君はいないけど、いる」というコメントも載せられていた。「いないけど、いる」。この言葉もまた、あの日集った人々の想いを代弁している。
見かけた人も多かっただろうが、あの日は友人や仲間の音楽家たちがたくさん富士吉田を訪れてくれた。クボケンジ・木下理樹・曽根巧の3人が寄り添うようにして歩いていた。城戸紘志、足立房文そして同級生の渡辺隆之もいた。初代、2代目、そしてサポートではあるが実質的には3代目のドラマーが集っていた。おおげさだよと照れながらも、志村正彦は喜んでいたにちがいない。
クボケンジは「メレンゲブログ」4/26/2014 (http://band-merengueband.blogspot.jp/)で、それにしても「お前はよく頑張ったね」と言ってやりたいのだ、と語っている。志村のMCの言葉に触発されて、「ずっと宿題を抱えてるみたいな気分なんだ。作詞作曲して歌うってのは一歩間違えるとすごくかっこ悪くて恥ずかしい。なので自分が思ってる以上にストレスなり体力を使う」と吐露しているのがとても印象深かった。表現者という立場を維持する限り、そのことに追われる日々が続く。(表現の第一線から退却した「元表現者」であっても、この国のファンは優しいので、それなりに活動を続けられる事例も多いが)
「お前はよく頑張ったね」という言葉には、一人の表現者がもう一人の表現者に贈る、語ることのできない想いが刻み込まれている。
表現は過酷で、時には深淵が待っている。
上映會、そして『FAB BOX Ⅱ』という美しく豊かな果実。
新しい楽曲が作り出されることはないという現実のもとで、「大切に大切に大切に」愛しむように、私たちは志村正彦の遺した楽曲を聴き続けていく。
聴く行為が絶えない限り、「いないけど、いる」という形で、彼はここに存在し続けるのだから。
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20140413上映會,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年5月11日日曜日
陽炎-4/13上映會5 [志村正彦LN 82]
アンコールの2曲目、『陽炎』が始まる。最後に富士吉田で歌われるのにふさわしい歌だ。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
遠く、遠く、遠く、この場ではないどこか遠いところから、志村正彦の歌が聞こえてくる。
彼はここにはいない。映像の中にもいない。もっともっと遠いところへ彼はたどりつき、その遠いところから、こちら側をふりかえる。
過去でも未来でもない、時の果てのような場に彼は佇む。そこから、「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」と歌い出す。2008年の観客に向けて歌われているのだが、同時に、私たち2014年の観客にも歌われているかのようだ。
二つの時、2008年、2014年の隔たりを超えて、私たちに届けられる。
あらかじめ断っておくが、非現実的な出来事として書いているのではない。『陽炎』を歌い出した瞬間、私の心に去来したものだ。何故かは分からない。「偶発的な小さな出来事」のように、「偶景」のように、過ぎ去り、消えていくものをありのままにここに今記した。
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける
現実とその残像との間、過ぎ去ったものと過ぎ去ったものからこぼれ落ちるものとの狭間。そこに彼はいる。「そうこうしているうち」「次から次へと浮かんだ」「残像」。「胸を締めつける」苦しみ。
それが何なのか。確かなことは分からない。分かる必要もない。分かることよりも、受け止めることが大切だ。言葉そのものを聴き取ること。そのことが忘れられている。
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
陽の光が照りつける。空気の流れが変わり、光の屈折が乱れる。陽炎の向こう側に有るもの。それを陽炎がゆらゆらと遮る。有るものの姿をあいまいにさせ、視界から遠ざける。逆に、本来そこには無いもの、無いものの姿が出現する。
古来、陽炎という言葉は、あるかなきかに見えるもの、儚いもののたとえとして使われてきた。志村正彦が繰り返し描く風景には、陽炎のようなものがいつもどこかに潜んでいる。
照明が暗転する。鍵となるモチーフが歌われる。
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
遠い遠いところから、彼は2008年と2014年の二つの時、二つの観客に向けて歌いかける。
「今では無くなったもの」という表現が、作者志村正彦その人をも包み込む。自ら発した言葉が、時を超えて、自らに回帰する。彼が彼自身に語りかける。
眩暈のような時のあり方だが、彼の歌には時折見られる光景でもある。
志村正彦は自らの宿命に向かって、人として、音楽家として、成熟していった。
『陽炎』が終わる。映像が消え去る。無音になり、タイトルバックが流れる。会場が静寂に浸される。『live at 富士五湖文化センター上映會』が閉じられる。
上映會の映像は陽炎のように消えていった。志村正彦自身もひとりの陽炎なのかもしれない。そして、私たち聴き手も陽炎のような時を過ごしたのかもしれない。そのような想いが次から次へと浮かぶ。
有るものと無いものとの間にあるもの、その間を揺れ続けるもの、陽炎。彼は自らの内にある陽炎を繰り返し繰り返し歌い続けてきた。そして儚いものの美しさを表現し続けた。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
遠く、遠く、遠く、この場ではないどこか遠いところから、志村正彦の歌が聞こえてくる。
彼はここにはいない。映像の中にもいない。もっともっと遠いところへ彼はたどりつき、その遠いところから、こちら側をふりかえる。
過去でも未来でもない、時の果てのような場に彼は佇む。そこから、「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」と歌い出す。2008年の観客に向けて歌われているのだが、同時に、私たち2014年の観客にも歌われているかのようだ。
二つの時、2008年、2014年の隔たりを超えて、私たちに届けられる。
あらかじめ断っておくが、非現実的な出来事として書いているのではない。『陽炎』を歌い出した瞬間、私の心に去来したものだ。何故かは分からない。「偶発的な小さな出来事」のように、「偶景」のように、過ぎ去り、消えていくものをありのままにここに今記した。
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける
現実とその残像との間、過ぎ去ったものと過ぎ去ったものからこぼれ落ちるものとの狭間。そこに彼はいる。「そうこうしているうち」「次から次へと浮かんだ」「残像」。「胸を締めつける」苦しみ。
それが何なのか。確かなことは分からない。分かる必要もない。分かることよりも、受け止めることが大切だ。言葉そのものを聴き取ること。そのことが忘れられている。
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
陽の光が照りつける。空気の流れが変わり、光の屈折が乱れる。陽炎の向こう側に有るもの。それを陽炎がゆらゆらと遮る。有るものの姿をあいまいにさせ、視界から遠ざける。逆に、本来そこには無いもの、無いものの姿が出現する。
古来、陽炎という言葉は、あるかなきかに見えるもの、儚いもののたとえとして使われてきた。志村正彦が繰り返し描く風景には、陽炎のようなものがいつもどこかに潜んでいる。
照明が暗転する。鍵となるモチーフが歌われる。
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
遠い遠いところから、彼は2008年と2014年の二つの時、二つの観客に向けて歌いかける。
「今では無くなったもの」という表現が、作者志村正彦その人をも包み込む。自ら発した言葉が、時を超えて、自らに回帰する。彼が彼自身に語りかける。
眩暈のような時のあり方だが、彼の歌には時折見られる光景でもある。
志村正彦は自らの宿命に向かって、人として、音楽家として、成熟していった。
『陽炎』が終わる。映像が消え去る。無音になり、タイトルバックが流れる。会場が静寂に浸される。『live at 富士五湖文化センター上映會』が閉じられる。
上映會の映像は陽炎のように消えていった。志村正彦自身もひとりの陽炎なのかもしれない。そして、私たち聴き手も陽炎のような時を過ごしたのかもしれない。そのような想いが次から次へと浮かぶ。
有るものと無いものとの間にあるもの、その間を揺れ続けるもの、陽炎。彼は自らの内にある陽炎を繰り返し繰り返し歌い続けてきた。そして儚いものの美しさを表現し続けた。
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『陽炎』,
20140413上映會,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年5月5日月曜日
ロックの言葉-4/13上映會4 [志村正彦LN 81]
当日の印象の空白部を『Live at 富士五湖文化センター』DVDで補いながら、上映會について書き進めていきたい。
セットリストは、Openingの「大地讃頌」を除くと、全19曲。ツアーのテーマである3rd『TEENAGER』から10曲(『Strawberry Shortcakes』『パッション・フルーツ』『東京炎上』を除く)、他のアルバムから9曲という構成。志村正彦作詞作曲の代表曲である、『茜色の夕日』と『桜の季節』『陽炎』『銀河』という春・夏・冬の四季盤(『赤黄色の金木犀』は残念ながら歌われなかった。ライブではほとんど歌われない曲ではあるが)に、『唇のソレ』『線香花火』『浮雲』という志村にとって思い入れのある曲が選ばれた。
アンコール以外の本編は、『ペダル』で始まり、『TEENAGER』で終わっている。アルバム『TEENAGER』と同じスタートとエンドで、あくまで『TEENAGER』ツアーの一つのライブという位置付けは変わらないが、富士吉田を意識した選曲と配列でもあることは間違いない。
『ペダル』が終わる。志村正彦が富士吉田に帰省した際、同級生の友人に凄い曲ができたからと言って聞かせたのがこの『ペダル』だという話を想い出す。地元でのライブの幕開けにこれだけふさわしい曲はない。何かが始まる予感にも満ちている。
フェードアウトした瞬間、『記念写真』が始まる。「ちっちゃな野球少年」という言葉が耳にこだまする。彼の歌は、どれも幾分か、彼のクロニクル、年代記の要素を含む。「記念の写真 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」という一節からは、遠く、15歳の彼が決定的な影響を受けた奥田民生の作詞作曲、ユニコーンの『すばらしい日々』の「君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける」がこだましてくる。
奥田民生その人も志村正彦の大切なクロニクルだ。代表曲以外にも、『浮雲』『線香花火』『唇のソレ』といった曲にも彼の年代記がにじみでてくる。
上映會で言葉を追い、一つひとつに反応してしまう自分に気づく。しかし、そのことをすべて書き記していくと、このエッセイはどこまでも続いてしまう。歌単独で論じる機会に譲りたい。
ライブが進むと次第に、過去の映像を今眺めているという「額縁」の感覚が薄れていく。2008年と2014年という二つの時の区別が徐々に消え、2008年という一つの時の内部に入っていく。その大きな要因は、演奏のすばらしさだ。様々に調整されて仕上げられた音響の臨場感も相まって、「ライブ」の感覚、今そこで演奏されているというような擬似的な感覚が高まる。実際にホールにいて、周りに観客がいることもその印象を加速させる。
加藤慎一のベースが躍動している。にこやかでとても楽しそう。金澤ダイスケにはやはり、この年代のロックキーボディストとして抜群のセンスがある。戯けたMCにも優しさが光る。ギタープレーに徹した山内総一郎のストイックな姿。高度な演奏技術と明るい音色の調和が、志村の歌を最大限に活かしている。城戸紘志はやはり城戸紘志。彼のドラムの波動がフジファブリックのサウンドをまさしくドライブしている。引き締まった表情でコーラスを歌うメンバーの姿も微笑ましい。
このバンドのリズムの感覚は卓越している。聴き手をぐいぐいと押す力を持つ(城戸のドラムに押され、ほんの少しテンポが速い気もするが、それもまた味わいだ)。そのリズムの感覚の中心にあるのは、志村正彦の身体感覚だ。そして、彼の身体感覚を支えているのは、彼の歌、言葉そのもののリズム感だ。
コンサートの全体を通じて、60年代から70年代までのロックの黄金期のサウンドが鳴り、リズムが轟いている。80年代以降のコンピュータのリズムを土台とする音楽とは一線を画している。(今、四十歳代から六十歳代までの年齢のかつての洋楽ロックファンで、志村正彦在籍時のフジファブリックをまだ知らない人に聴いてもらいたいと強く思う。彼らが納得できる水準のロック、それも日本語のロックがあったことに驚くだろう)
志村正彦が大切にしたのは、コンピュータではなく、人の身体に基づくリズムだ。
コンピューターによるリズムとその感覚の変化はしばしば言及されるテーマではあるが、このリズムの問題はサウンドに限定されずに、歌う言葉、歌詞にも影響を与えているのが最近の状況ではないかと私は考えている。言葉に込められた自然なリズムが失われ、画一的なリズムに支配される。それと共に、言葉で表現する行為自体に、「切り取り」と「貼り付け」、いわゆるコピペの作業が蔓延してくる。表現される世界もまた、どこかで見たことのあるイメージのコピーだらけになる。
志村正彦の言葉が表現する世界の独創性については繰り返し書いてきたが、彼の言葉そのものが、歌い方を含めて、リズムの感覚に優れている(彼の歌には確かに音程の不安定な時があるが、リズム自体はサウンドに上手に乗っている)。アフリカと欧米由来のロックのリズムと日本語本来のリズムを融合させた歌だ。(志村正彦の作る歌のリズム、言葉の拍子の問題については、時間をかけて検討していきたい。まだ、具体的に書ける段階ではないので、これからの課題にしたい)
ロックの本質はその「言葉」にある。そして、「言葉」をどう伝えていくのか、その「器」がロックのサウンドだ。優れたロック音楽には「言葉」がある。その「言葉」が失われていったのが、ロック音楽の衰退の原因だろう。
志村正彦、フジファブリックは、ロックの本質を体現している。
何故か。一言で答える。
「言葉」が存在しているからだ。
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20140413上映會,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年4月27日日曜日
『FAB BOX II』の重み-4/13上映會3 [志村正彦LN 80]
上映會から2週間が経つ。16日には『FAB BOX II』が無事発売され、予約した分が我が家にも届けられた。無事、何事もなく、とあえて書いたのは、この作品がリリースされることを祈るような気持ちで待っていたからだ。すでに13日の上映會の展示物として見てはいたのだが、パッケージを手にするまで、ほんとうにこの作品が誕生したことが実感できなかった。
このBOXセットには予想以上の重みがあった。これは、2006年12月25日の渋谷公会堂、2008年5月31日の富士五湖文化センター、そのときからすでに7年半、6年近くが過ぎ去った「時」が蓄積された重みのような気がする。ファンや関係者、富士吉田の人々、志村正彦の御友人や御家族がずっと待っていた重みでもある。そして誰よりも、志村正彦その人が待ち望んでいた作品だろう。
柴宮夏希さんのデザインが秀逸だ。EMI制作担当の今村圭介氏が「宝箱みたい」と形容した「箱」は確かに、何が入っているのか、わくわくさせるような質感を持つ。開けたいような、まだしばらく開けたくないような気持ちになるが、思い切ってシールを開封する。「FAB」の字が切り抜かれた大きな「帯」の裏側には、LIVE DVD×2+PHOTO BOOK〈100p〉×2+ GOODS×2、と簡潔に媒体等が記されている。すべてが×2だ。
箱のイラスト。図柄と文字が、まるで楽器が鳴り、音が混ざりあっているようで面白い。白の地に黒の線、モノトーンの世界が不思議に合っている。インディーズの頃から志村と関わりが深く、デザインについても語り合ったという柴宮さんならではの優れたデザインだ。
箱の底側には「SiNCE:2000」の文字。2000年は、「富士ファブリック」結成の年。渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と共に4人で同級生バンドを作った。それから数えると結成14年。そんなことも改めて伝えてくれる。
箱を開けると、表紙の裏側には茜色が広がる。扉の一枚紙の地も、DVDの表紙も、富士五湖文化センターのPHOTO BOOKの表紙裏も、すべて茜色の世界。この色調が、明るすぎず渋すぎず、強すぎず弱すぎず、素晴らしい色合いとなっている。今村氏が「所謂”色校”という途中段階で、ここから更に微調整を重ねていく」と述べていたのが頷ける。
柴宮さんは制作の依頼を受けた後、あらためて富士吉田を訪れて、風景と光と色に触れて、デザインを構想されたそうだ。
『FAB BOX II』パッケージ全体の基調色の「白」と「茜色」のハーモニーには、「和」と「季節」と「時」の感覚が複合されていて、日本の伝統工芸品のような味わいがある。 当日の会場で飾られていたポスターにもその感覚が上手に表現されていた。
『Live at 富士五湖文化センター』通常版のジャケットをもとに、茜色の空を背景に白い富士山が浮かび上がり、富士吉田の街並みが手書きで細かくそしてやわらかく描かれている。フジファブリック、志村正彦を象徴しているデザインだ。浮世絵のような簡潔な美と白色と茜色の完璧な色調。写真が一切使われていないのもよい。このポスターは上映會限定で印刷されたもののようだが、せめて、あのフライヤー版でもいいので、これからでも配布していただけないだろうか。部屋で飾っておきたいと思われた方も多いのではないだろうか。
『Live at 富士五湖文化センター』DVDは、昨日初めて、最初から最後まで2時間を通して鑑賞した。4月13日の当日は、色々な想いが錯綜してきて、映像を冷静に追えたわけではなかった。(というのは表向きの書き方で、正直言うと、時折涙をこらえきれなくなって、画面をたどりきれなかった) それ故、空白部をこのDVDで補いながら、書き進めていきたい。
液晶テレビで再確認しても、画質はあまり良くない。収録時の制約があったのだろう。この点について、レコーディングエンジニアの高山徹が述べた言葉がナタリー(http://natalie.mu/music/pp/fujifabric02)で紹介されている。EMIの制作グループは、「古いテープに記録された映像をもう一度リマスタリングして色や画質を調整し直した」そうだ。そうであるならばむしろ、現状のレベルになったことを感謝すべきなのだろう。
また、音については「その場でミックスした2ch分の素材」しか残っていなかったそうだ。高山氏は、「志村日記」にもよく登場する山梨県出身のエンジニア上條氏について触れて、次の制作過程を教えてくれた。
上條雄次くんっていう、初期の頃から携わってたエンジニアがかなりがんばって。ライブが行われた富士吉田の会場に行って、そこのホールの残響を測定し直す作業から入って。音を鳴らしてそれを録音して、それをコンピューターに取り込んで解析するような、ほかじゃありえないようなことをいろいろやってます。
サウンドエンジニアリングやコンピューターの技術が向上し、これまでは不可能だったことも実現できるようだ。最新のテクノロジーを使って、この作品の音質を高めようとした上條氏を始めとするスタッフの情熱と責任感のようなものが伝わる。
この作業は、昨年の12月下旬、『茜色の夕日』のチャイムが放送された期間中にちょうど、会場を借り切って行われたと伺っている。
富士吉田であのチャイムが鳴り響き、人々が志村正彦を想い出している時に、あのホールでは、2008年5月31日の志村正彦、フジファブリックを復活させるためのプロジェクトが着々と進行していた。
今村圭介氏、柴宮夏希さん、上條雄次氏、その他のスタッフを含め、志村正彦を愛する人々のきめ細かい丁寧な作業によって、『FAB BOX II』は誕生した。このBOXセットの重みは、制作者側の想いと時が詰まっているからでもある。 (この項続く)
追伸
はまりえ様[@ha_marie]、Eminenko様[@Eminenko]。ツイートで紹介していただき、ありがとうございます。励みになります。(私はツイッターをしていないので、お返事できませんので、この場を借りました。)なんとか書き続けていきたいです。
このBOXセットには予想以上の重みがあった。これは、2006年12月25日の渋谷公会堂、2008年5月31日の富士五湖文化センター、そのときからすでに7年半、6年近くが過ぎ去った「時」が蓄積された重みのような気がする。ファンや関係者、富士吉田の人々、志村正彦の御友人や御家族がずっと待っていた重みでもある。そして誰よりも、志村正彦その人が待ち望んでいた作品だろう。
柴宮夏希さんのデザインが秀逸だ。EMI制作担当の今村圭介氏が「宝箱みたい」と形容した「箱」は確かに、何が入っているのか、わくわくさせるような質感を持つ。開けたいような、まだしばらく開けたくないような気持ちになるが、思い切ってシールを開封する。「FAB」の字が切り抜かれた大きな「帯」の裏側には、LIVE DVD×2+PHOTO BOOK〈100p〉×2+ GOODS×2、と簡潔に媒体等が記されている。すべてが×2だ。
箱のイラスト。図柄と文字が、まるで楽器が鳴り、音が混ざりあっているようで面白い。白の地に黒の線、モノトーンの世界が不思議に合っている。インディーズの頃から志村と関わりが深く、デザインについても語り合ったという柴宮さんならではの優れたデザインだ。
箱の底側には「SiNCE:2000」の文字。2000年は、「富士ファブリック」結成の年。渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と共に4人で同級生バンドを作った。それから数えると結成14年。そんなことも改めて伝えてくれる。
箱を開けると、表紙の裏側には茜色が広がる。扉の一枚紙の地も、DVDの表紙も、富士五湖文化センターのPHOTO BOOKの表紙裏も、すべて茜色の世界。この色調が、明るすぎず渋すぎず、強すぎず弱すぎず、素晴らしい色合いとなっている。今村氏が「所謂”色校”という途中段階で、ここから更に微調整を重ねていく」と述べていたのが頷ける。
柴宮さんは制作の依頼を受けた後、あらためて富士吉田を訪れて、風景と光と色に触れて、デザインを構想されたそうだ。
『FAB BOX II』パッケージ全体の基調色の「白」と「茜色」のハーモニーには、「和」と「季節」と「時」の感覚が複合されていて、日本の伝統工芸品のような味わいがある。 当日の会場で飾られていたポスターにもその感覚が上手に表現されていた。
『Live at 富士五湖文化センター』通常版のジャケットをもとに、茜色の空を背景に白い富士山が浮かび上がり、富士吉田の街並みが手書きで細かくそしてやわらかく描かれている。フジファブリック、志村正彦を象徴しているデザインだ。浮世絵のような簡潔な美と白色と茜色の完璧な色調。写真が一切使われていないのもよい。このポスターは上映會限定で印刷されたもののようだが、せめて、あのフライヤー版でもいいので、これからでも配布していただけないだろうか。部屋で飾っておきたいと思われた方も多いのではないだろうか。
『Live at 富士五湖文化センター』DVDは、昨日初めて、最初から最後まで2時間を通して鑑賞した。4月13日の当日は、色々な想いが錯綜してきて、映像を冷静に追えたわけではなかった。(というのは表向きの書き方で、正直言うと、時折涙をこらえきれなくなって、画面をたどりきれなかった) それ故、空白部をこのDVDで補いながら、書き進めていきたい。
液晶テレビで再確認しても、画質はあまり良くない。収録時の制約があったのだろう。この点について、レコーディングエンジニアの高山徹が述べた言葉がナタリー(http://natalie.mu/music/pp/fujifabric02)で紹介されている。EMIの制作グループは、「古いテープに記録された映像をもう一度リマスタリングして色や画質を調整し直した」そうだ。そうであるならばむしろ、現状のレベルになったことを感謝すべきなのだろう。
また、音については「その場でミックスした2ch分の素材」しか残っていなかったそうだ。高山氏は、「志村日記」にもよく登場する山梨県出身のエンジニア上條氏について触れて、次の制作過程を教えてくれた。
上條雄次くんっていう、初期の頃から携わってたエンジニアがかなりがんばって。ライブが行われた富士吉田の会場に行って、そこのホールの残響を測定し直す作業から入って。音を鳴らしてそれを録音して、それをコンピューターに取り込んで解析するような、ほかじゃありえないようなことをいろいろやってます。
サウンドエンジニアリングやコンピューターの技術が向上し、これまでは不可能だったことも実現できるようだ。最新のテクノロジーを使って、この作品の音質を高めようとした上條氏を始めとするスタッフの情熱と責任感のようなものが伝わる。
この作業は、昨年の12月下旬、『茜色の夕日』のチャイムが放送された期間中にちょうど、会場を借り切って行われたと伺っている。
富士吉田であのチャイムが鳴り響き、人々が志村正彦を想い出している時に、あのホールでは、2008年5月31日の志村正彦、フジファブリックを復活させるためのプロジェクトが着々と進行していた。
今村圭介氏、柴宮夏希さん、上條雄次氏、その他のスタッフを含め、志村正彦を愛する人々のきめ細かい丁寧な作業によって、『FAB BOX II』は誕生した。このBOXセットの重みは、制作者側の想いと時が詰まっているからでもある。 (この項続く)
追伸
はまりえ様[@ha_marie]、Eminenko様[@Eminenko]。ツイートで紹介していただき、ありがとうございます。励みになります。(私はツイッターをしていないので、お返事できませんので、この場を借りました。)なんとか書き続けていきたいです。
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20140413上映會,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年4月19日土曜日
歩行の律動-4/13上映會2 [志村正彦LN 79]
ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。
反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。
オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。
平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が沸いた
「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。
あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。
照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。
ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ
彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。
『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。 (この項続く)
ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。
反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。
オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。
平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が沸いた
「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。
あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。
照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。
ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ
彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。
『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。 (この項続く)
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『ペダル』,
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年4月13日日曜日
二つの時-4/13上映會1 [志村正彦LN78]
『live at 富士五湖文化センター上映會』から甲府に帰ってきた。今日は、この日が終わる前に書きとどめたいことのみを短く記したい。
上映が始まる。
まなざしをスクリーンに置くと、2008年5月31日の会場、志村正彦が歌い、金澤、加藤、山内そして城戸が奏でる像とこちら側で拍手する観客の像が入ってくる。
まなざしをスクリーンから離すと、2014年4月13日の観客が視界の中に入ってくる。私のまなざしのすぐ先には現実の観客、その向こう側には映像の中の観客。
観客が二重になる。今まで経験したことのない不可思議な感覚にとらわれる。
さらに、映像の中の拍手、今日の会場の拍手と混ざり合い、時を超えて、拍手がシンクロするように聞こえてくる。
スクリーンのフレームの内側と外側が溶けて、2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時が同時に流れている。
この不可思議な時間の感覚は、きわめて志村正彦らしい主題であることに、しばらくして気づく。
2時間の間、スクリーンの中の志村正彦の歌と言葉を一つひとつ受け止めながら、この時間の感覚について考え続けた。その感覚は次第に変容もしていくのだが、そのことについては稿を改めて書きたい。
上映された楽曲についても簡潔に触れたい。
『茜色の夕日』とその前のMCについては以前にも触れたが、今日あの場で聴いたこと自体がひとつの「経験」として刻み込まれた。
どの曲にも様々な想いを抱いた。
ライブ映像は初めての『Chocolate Panic』はとても印象に残った。
『桜の季節』は、この作品の数あるライブ映像の中でもベストテイクではないだろうか。桜の季節の富士吉田に、この歌は幸せにも遭遇した。
ラストの『陽炎』。
「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」という声が聞こえてくると、わけのわからない情動に包まれた。感覚と思考と感情がぐるぐると旋回しだす。
上映の前後に、このDVDと會の担当者であるEMI RECORDSの今村圭介氏の短いが心のこもった挨拶があった。「志村正彦をフジファブリックをよろしくお願いします」の言葉でこの会が締めくくられた。
終了後、会場を出ると、昼には雲に隠れてしまった富士山がうっすらと浮かび上がっていた。
曇天の薄灰色に溶けこむかのような、残雪の多い白色と灰色の富士の山。そのかそけき美しさがこの日によく似合っていた。 (この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年4月12日土曜日
「一人一人」の「手紙」 [志村正彦LN 77]
四月に入り、新年度が始まった。忙しい日々を送っている人が多いだろうが、私も職場での係が変わり、ハードワークが続いている。そんな時ほど、1曲か2曲でいいので音楽を聴きたくなる。最近は『セレナーデ』や『ルーティーン』だ。心に染みいる。
そのような日々の合間を縫うようにして、6日、甲府の県民文化ホールで開催の斉藤和義コンサートに出かけてきた。「志村正彦の友人や交流のあったアーティストが山梨でライブをする際には必ず行く」という原則を自分に課しているのだが、斉藤は「ずっと好きだった」歌い手なので、昨年末に先行予約でチケットを入手しておいた。
パフォーマーとしての斉藤和義はとても愉快な人だ。彼は高校卒業後、甲府に住み、山梨学院大学に通っていた。甲府駅前のマックや石和温泉のホテルでのバイト話、愛宕山での内緒話など、ローカルな話題が炸裂した。甲府で暮らしていたときに弾き語りを始めたらしいので、音楽家としての原点がこの地にあると述べていた。(もっとも、「つまらない」街だとも言ったので、屈折した情があるのだろう)
ベースは隅倉弘至。志村正彦が影響を受けた「初恋の嵐」のメンバーで、静岡出身のようだ。二人の間で富士山の見え方の話になり、甲府側から見える富士山は「チラリズムの富士」、静岡側から見えるのは「丸見えの富士」と斉藤が語ったのには、大いに笑った。甲府で暮らしたことがなければ、この言葉のユーモアは分からないだろうが。
太宰治が『富岳百景』で「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿[ほほづき]に似てゐた」と描いている。その「ホオズキの富士」以来の名言・迷言かもしれない。
志村正彦は斉藤と共演した際に山梨に住んでいたことを知ると、すごく興味を示したらしい。
斉藤和義も「フジフジ富士Q」で『地平線を越えて』『笑ってサヨナラ』を見事に歌いこなしていた。特に、『笑ってサヨナラ』は斉藤の持ち歌にしてもいいくらいの出来映えだった。MCで「志村君の歌、面倒くさい。メロは難しいは、ギターはヘンテコリンだは。なんかそういう性格だったんっでしょうかね」と語っていたが、彼らしい愛が込められている。
妻の方は9日、新宿ロフトで開催の「メレンゲ/スキマスイッチ」ライブ(新宿ロフトの歌舞伎町移転15周年記念企画)を聴いてきた(私はさすがに仕事で行けなかった)。大変な盛況で、メレンゲのクボケンジもMCでいろいろと語ってくれたそうだ。新宿ロフトの樋口寛子さんが、このライブに関連して、スキマスイッチの常田真太郎氏と大橋卓弥氏にインタビューした記事が『Rooftop』に載っている。(http://rooftop.cc/interview/140401145415.php )
その後、新宿ロフトが定期的に開催していた“LIVE LINXS”というイベントに出演して頂いた時は、フジファブリックと共演しています。
常田:その時にフジファブリックの志村君と仲良くなったんです。キーボードが前任の方で、ドラムは志村の幼馴染みでしたよね。そこで結構話をして情報を共有したりしました。
スキマスイッチの二人の記憶の中にも、若き志村正彦が強く刻まれているのだろう。
常田氏が言及しているのは、キーボードが田所幸子、ドラムが親友の渡辺隆之の頃のフジファブリック、『アラカルト』を制作したフジファブリックだ。
2001年9月に結成され、同級生バンドの頃の「富士ファブリック」から「フジファブリック」と名前を変えて、2002年10月、インディーズ時代の1stアルバム『アラカルト』をロフトプロジェクトのSong-CRUXレーベルから発表、その年の12月に解散した。
私はこの時代のフジファブリックのライブ映像を見せていただいたことがある。音楽に統一感があり、演奏技術もある水準に達していた。
志村正彦の作る歌詞が優れているのは言うまでもないが、歌い手としても日本語の歌詞を楽曲に乗せる「リズム感」と「疾走感」がとても良い。サウンドには「静かで透明感のあるファンキー」な感覚が込められている。田所幸子のオルガンにも伸びやかな独特の味わいがある。特に、『アラカルト』収録の『茜色の夕日』のオルガンは秀逸だ。(MV『茜色の夕日 インディーズver』 がYouTubeにあるので、未見の方はご覧になってください)志村正彦のあまりに若くて直接的に響く声と言葉から、彼が音楽家としての出発点で何を求めていたのかが、よく伝わってくる。
前回、THE BOOMの解散について書いた。そのことに触発されて、バンドの解散の持つ意味についてこの1週間考え続けた。
志村正彦を視点の中心に据えると、三つのフジファブリックが存在している。
・「同級生バンド」時代の「富士ファブリック」
・インディーズ時代の「フジファブリック」(Song-CRUX在籍時とその前の時代)
・メジャー時代の「フジファブリック」(EMI在籍時)
彼にとっては、この三つの各々が重要な価値を持っている。「富士ファブリック」と「インディーズ・フジファブリック」は「解散」した。(メンバー交代したと言うよりも「解散」という表現の方が的確だと私は考える)。その後、プロフェッショナルなロックバンドとして、志村正彦自身がプロデュースしたのが、2004年4月14日に『桜の季節』でデビューしたフジファブリックだ。歌詞も楽曲も独創的で演奏技術も高度なロックバンドの誕生だ。そのこと自体は極めて高く評価されるべきであり、祝福されるべきだ。 だが反面、志村正彦が失ったものも確実にあることは記しておかねばならない。そのことを彼は何度か語っている。このことは稿を改めて、「志村正彦ライナーノーツ」に書いてみたい。
最後にぜひ紹介したい言葉がある。今朝、「山梨日日新聞」に「フジファブ志村 再び」と題して、沢登雄太記者による13日の上映会についての記事が掲載されていた。6年前の都内での取材の際、志村正彦が「東京にいながら富士吉田を思って作った楽曲を故郷で披露できるのが楽しみだと、しきりに語っていた」という事実を伝えている。
沢登記者は、あの『茜色の夕日』のシーンについて、「感情がそのまま旋律に乗った歌声は、人間的なロックサウンドを生み出した」と捉え、会場のホールはリニューアルされたが、「ただ、変わらないものもある。一人一人が受け止めた楽曲と、胸に刻まれた志村正彦-」と結んでいる。志村正彦を丁寧に取材し続けた記者としての深い想いが込められた言葉だ。
明日、13日午後1時半から、「ふじさんホール」で「フジファブリック Live at 富士五湖文化センター 上映會」が行われる。沢登記者の言うように、あの場に集う「一人一人」がどのように、志村正彦在籍時のフジファブリックの音楽を受け止めるのだろうか、その胸に刻みのだろうか。
oh ならば愛をこめて
so 手紙をしたためよう (『桜の季節』)
富士吉田では桜も咲き始めた。
私たち聴き手は一人一人、志村正彦への「手紙」を心の中に刻み込むだろう。
そのような日々の合間を縫うようにして、6日、甲府の県民文化ホールで開催の斉藤和義コンサートに出かけてきた。「志村正彦の友人や交流のあったアーティストが山梨でライブをする際には必ず行く」という原則を自分に課しているのだが、斉藤は「ずっと好きだった」歌い手なので、昨年末に先行予約でチケットを入手しておいた。
パフォーマーとしての斉藤和義はとても愉快な人だ。彼は高校卒業後、甲府に住み、山梨学院大学に通っていた。甲府駅前のマックや石和温泉のホテルでのバイト話、愛宕山での内緒話など、ローカルな話題が炸裂した。甲府で暮らしていたときに弾き語りを始めたらしいので、音楽家としての原点がこの地にあると述べていた。(もっとも、「つまらない」街だとも言ったので、屈折した情があるのだろう)
ベースは隅倉弘至。志村正彦が影響を受けた「初恋の嵐」のメンバーで、静岡出身のようだ。二人の間で富士山の見え方の話になり、甲府側から見える富士山は「チラリズムの富士」、静岡側から見えるのは「丸見えの富士」と斉藤が語ったのには、大いに笑った。甲府で暮らしたことがなければ、この言葉のユーモアは分からないだろうが。
太宰治が『富岳百景』で「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿[ほほづき]に似てゐた」と描いている。その「ホオズキの富士」以来の名言・迷言かもしれない。
志村正彦は斉藤と共演した際に山梨に住んでいたことを知ると、すごく興味を示したらしい。
斉藤和義も「フジフジ富士Q」で『地平線を越えて』『笑ってサヨナラ』を見事に歌いこなしていた。特に、『笑ってサヨナラ』は斉藤の持ち歌にしてもいいくらいの出来映えだった。MCで「志村君の歌、面倒くさい。メロは難しいは、ギターはヘンテコリンだは。なんかそういう性格だったんっでしょうかね」と語っていたが、彼らしい愛が込められている。
妻の方は9日、新宿ロフトで開催の「メレンゲ/スキマスイッチ」ライブ(新宿ロフトの歌舞伎町移転15周年記念企画)を聴いてきた(私はさすがに仕事で行けなかった)。大変な盛況で、メレンゲのクボケンジもMCでいろいろと語ってくれたそうだ。新宿ロフトの樋口寛子さんが、このライブに関連して、スキマスイッチの常田真太郎氏と大橋卓弥氏にインタビューした記事が『Rooftop』に載っている。(http://rooftop.cc/interview/140401145415.php )
その後、新宿ロフトが定期的に開催していた“LIVE LINXS”というイベントに出演して頂いた時は、フジファブリックと共演しています。
常田:その時にフジファブリックの志村君と仲良くなったんです。キーボードが前任の方で、ドラムは志村の幼馴染みでしたよね。そこで結構話をして情報を共有したりしました。
スキマスイッチの二人の記憶の中にも、若き志村正彦が強く刻まれているのだろう。
常田氏が言及しているのは、キーボードが田所幸子、ドラムが親友の渡辺隆之の頃のフジファブリック、『アラカルト』を制作したフジファブリックだ。
2001年9月に結成され、同級生バンドの頃の「富士ファブリック」から「フジファブリック」と名前を変えて、2002年10月、インディーズ時代の1stアルバム『アラカルト』をロフトプロジェクトのSong-CRUXレーベルから発表、その年の12月に解散した。
私はこの時代のフジファブリックのライブ映像を見せていただいたことがある。音楽に統一感があり、演奏技術もある水準に達していた。
志村正彦の作る歌詞が優れているのは言うまでもないが、歌い手としても日本語の歌詞を楽曲に乗せる「リズム感」と「疾走感」がとても良い。サウンドには「静かで透明感のあるファンキー」な感覚が込められている。田所幸子のオルガンにも伸びやかな独特の味わいがある。特に、『アラカルト』収録の『茜色の夕日』のオルガンは秀逸だ。(MV『茜色の夕日 インディーズver』 がYouTubeにあるので、未見の方はご覧になってください)志村正彦のあまりに若くて直接的に響く声と言葉から、彼が音楽家としての出発点で何を求めていたのかが、よく伝わってくる。
前回、THE BOOMの解散について書いた。そのことに触発されて、バンドの解散の持つ意味についてこの1週間考え続けた。
志村正彦を視点の中心に据えると、三つのフジファブリックが存在している。
・「同級生バンド」時代の「富士ファブリック」
・インディーズ時代の「フジファブリック」(Song-CRUX在籍時とその前の時代)
・メジャー時代の「フジファブリック」(EMI在籍時)
彼にとっては、この三つの各々が重要な価値を持っている。「富士ファブリック」と「インディーズ・フジファブリック」は「解散」した。(メンバー交代したと言うよりも「解散」という表現の方が的確だと私は考える)。その後、プロフェッショナルなロックバンドとして、志村正彦自身がプロデュースしたのが、2004年4月14日に『桜の季節』でデビューしたフジファブリックだ。歌詞も楽曲も独創的で演奏技術も高度なロックバンドの誕生だ。そのこと自体は極めて高く評価されるべきであり、祝福されるべきだ。 だが反面、志村正彦が失ったものも確実にあることは記しておかねばならない。そのことを彼は何度か語っている。このことは稿を改めて、「志村正彦ライナーノーツ」に書いてみたい。
最後にぜひ紹介したい言葉がある。今朝、「山梨日日新聞」に「フジファブ志村 再び」と題して、沢登雄太記者による13日の上映会についての記事が掲載されていた。6年前の都内での取材の際、志村正彦が「東京にいながら富士吉田を思って作った楽曲を故郷で披露できるのが楽しみだと、しきりに語っていた」という事実を伝えている。
沢登記者は、あの『茜色の夕日』のシーンについて、「感情がそのまま旋律に乗った歌声は、人間的なロックサウンドを生み出した」と捉え、会場のホールはリニューアルされたが、「ただ、変わらないものもある。一人一人が受け止めた楽曲と、胸に刻まれた志村正彦-」と結んでいる。志村正彦を丁寧に取材し続けた記者としての深い想いが込められた言葉だ。
明日、13日午後1時半から、「ふじさんホール」で「フジファブリック Live at 富士五湖文化センター 上映會」が行われる。沢登記者の言うように、あの場に集う「一人一人」がどのように、志村正彦在籍時のフジファブリックの音楽を受け止めるのだろうか、その胸に刻みのだろうか。
oh ならば愛をこめて
so 手紙をしたためよう (『桜の季節』)
富士吉田では桜も咲き始めた。
私たち聴き手は一人一人、志村正彦への「手紙」を心の中に刻み込むだろう。
2014年4月6日日曜日
THE BOOM、解散。
前回、ザ・ブームの宮沢和史について触れたが、その翌日3月31日に、THE BOOM
解散という発表があった。86年の結成から28年が経ち、89年のデビューからは25周年という節目の年に解散を決めたようだ。この知らせに驚くと共にある感慨を覚えた。
以前書いたように、1989年、風土記の丘で開かれた山梨初ライブに出かけた。それから90年代中頃までは、毎年のように甲府の県民文化ホールで開かれたコンサートに通った。アルバムで言えば、1st『A PEACETIME BOOM』[1989年]、2nd『サイレンのおひさま』[1989年]から4th『思春期』[1992年]にかけての初期のものだ。どれも質の高い作品だったが、特に3rd『JAPANESKA』[1990年]は、「JAPAN+SKA」というネーミングとコンセプトが素晴らしく、歌詞もサウンドも独創的で、日本語のロックの歴史に残る傑作アルバムだった。
曲で言うと、彼らの代表曲となった『星のラブレター』『釣りに行こう』『中央線』『からたち野道』等は、故郷山梨の風景とも絡まり合い、私たちにとって記憶に残る歌であり続けている。『虹が出たなら』『気球に乗って』『子供らに花束を』等の深い問いかけを持つ歌、『ないないないの国』『なし』等のナンセンスでユーモアのある歌。80年代後半から90年代前半にかけてのいわゆる「バンドブーム」の時代で、宮沢和史は、ユニコーンの奥田民生と双璧をなす、たぐいまれな才能だった。奥田と共に、日本語のロックの歌詞にそれまでにない広がりや豊かさを与えた。
宮沢和史には『詞人から詩人へ』という、彼の好きな近現代詩を朗読して紹介するCD付きの書物もある。ロックのフィールドの中でも最も近現代詩を読み込み、歌詞を創作している「詞人」であり「詩人」であった。(彼の歌詞については、この《偶景web》でいつか丁寧に論じてみたい)
公式サイトの「ファンの皆様へ」という文には、「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」というメンバーの言葉がある。
宮沢・小林・山川という甲府で生まれ育った同級生に、千葉出身の栃木氏が加わって結成されたこのバンドは、「同級生バンド」の色彩が強い。めまぐるしい変転を続ける音楽業界の中で、中断期間はあったにせよ、一度もメンバー交代がなく、『島唄』の大ヒットを始めとして幾つものヒット曲を出し、ファンにも恵まれた彼らは、確かに「日本一幸せなロックバンド」だったろう。解散を宣言する文で、このような言葉を使えること自体とても幸福なことだ。
宮沢和史そしてギター小林孝至、ベース山川浩正は50歳近くになり、ドラム栃木孝夫は50歳を超えている。宮沢・小林・山川氏と同郷で、栃木氏と同世代の人間として、本当にご苦労さまでしたと心から述べたい。宮沢氏は頸椎症の療養中のようだ。何よりも健康を大切にしてほしい。(私の今の職場には、甲府南高校時代の宮沢和史の同級生が二人もいる。「MIYA」は高校生の頃から「男気」のあるやつだったらしい。甲府は小さい街なので、こういうことが割とある)
最後に、公式サイトの「MOOBMENT CLUB スタッフ一同」の言葉もとても感動的なので紹介したい。
THE BOOMというバンド名は、彼らの歌や音楽が一時のブームで終わらないように、という思いを込めて逆説的に名付けられたものです。「星のラブレター」の歌詞に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても/昨日聴かせた僕の歌/町中に流れてる」と記されているように、願わくは、彼らの歌たちが、たとえ詠み人知らずとなっても、いつまでも皆さんに愛していただき、 歌い継がれていきますように…。
実は前回、偶然ではあるが、同じ箇所を引用して考えた際に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても」という言葉にある種の感銘を受けていたことを記しておきたい。
二十五年前、この歌を初めて聴いたときにはこの言葉はそんなに印象に残らなかった。むしろ常套句のように感じていた。しかし、時の重みが歌の解釈を変えることがある。それは作者の意図を超えることもある。『星のラブレター』には、文字通りの「年」や「命」、そして「時」への想いが貫かれている。歌い手も聴き手も、年を重ねることで、歌の本来の意味があらわになってくる。
何十年、何百年と時が経っても、「詠み人知らず」となっても、歌い継がれていくこと。それがすべての歌にとっての究極の願いだろう。
2014年3月30日日曜日
「愛をこめて」、「遠くの町に」。 [志村正彦LN 76]
今朝、ぴあのHPで『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを確認したところ、「予定枚数終了」の表示が出ていた。開催2週間前にソールドアウトできたようで、ほんとうに良かった。
甲府の桜も一昨日、平年より一日遅く開花した。ほぼ例年通りだ。13日には「いつもの丘」の桜も美しく咲いているだろう。当日の天気が良いことを祈ります。
残念ながら、山梨の新聞・テレビ・ネットの様々な「チケット情報」サービスでは全く告知されていなかったので、富士吉田在住の方や一部の県内ファンを除いて、地元の観客は少ないと思われる。県外の方が多数になるだろう。少し寂しいが、もともと地元対象のイベントではないので、いちおう納得はできる。
生演奏ではない、特別な催しがあるわけでもない、あえて言うなら、単なるDVDの上映会(「単なるDVD」でないことは繰り返し書いたが)に、800人の観客が交通費や宿泊費を使って富士吉田に来る。「桜の季節」に、「愛をこめて」、「遠くの町に」来る。志村正彦の故郷への旅。やはり希有なことで、志村正彦在籍時のフジファブリックに対する持続的な深い関心と強い支持があってのことだ。
前回、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの山梨発ライブについて書いた。特にザ・ブームの宮沢和史については世代的に近いこともあり、それなりの思い入れがある。
実は、宮沢和史の生まれ育った場所と私の場所とはほぼ重なる。初期の名曲『星のラブレター』の歌詞を引用する。
朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた
年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる
私は小学生の頃まで「朝日通り」とその商店街の近くに住んでいたので、とても懐かしい所だ。甲府の中心からは少し離れてはいたが、「朝日シネマ」という映画館もあり、子供の頃通ったりしていた。宮沢和史が最初にギターを買ったという楽器店もあった。住宅街の中の商店街なので、華やかさはなく地味だったが、それなりの賑わいと身近な親しみがあった。今はさびれてしまったが、最近、若者たちが新たに店を構えるようになったのはたのもしい。「昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる」という歌詞の一節のような街の風景を取り戻してほしい。
宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅のすぐ北西側に位置する商店街の街並みは、志村正彦にとっての「下吉田」やかつてそこにあった商店街に相当するのではないだろうか。昭和30年代、40年代頃まではまだ、「朝日通り」界隈には「路地裏」があった。郊外へと発展していった都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として、「路地」や「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年、昭和55年に富士吉田で生まれた志村正彦は、昭和の名残のある「路地」や「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。
宮沢和史の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」や『釣りに行こう』の甲府の荒川の源流など、山梨、甲府盆地の中にある。路地裏のような場と自然豊かな場の二つがある。彼は、その場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。
志村正彦の場合、下吉田、「いつもの丘」、そして富士山の景観というように、やはり、路地裏のような場と自然豊かな場の双方がある。
山梨に住む者にとって、街中の路地裏のような狭い場所から視点を少しずらして遠くを眺めると、向こう側に高峰の山々や雄大な自然が見えるという経験が日常的にある。もちろん、どこにでもこのようなことはあるのだが、山梨の場合、そのギャップが甚だしい。風景がワープするような感じ、とでも言えばいいのだろうか。私たちはもちろん「愛をこめて」その風景を眺めているのだが。
この独特の風景の構成が、宮沢和史や志村正彦の歌詞の世界を根底から支えている。
甲府の桜も一昨日、平年より一日遅く開花した。ほぼ例年通りだ。13日には「いつもの丘」の桜も美しく咲いているだろう。当日の天気が良いことを祈ります。
残念ながら、山梨の新聞・テレビ・ネットの様々な「チケット情報」サービスでは全く告知されていなかったので、富士吉田在住の方や一部の県内ファンを除いて、地元の観客は少ないと思われる。県外の方が多数になるだろう。少し寂しいが、もともと地元対象のイベントではないので、いちおう納得はできる。
生演奏ではない、特別な催しがあるわけでもない、あえて言うなら、単なるDVDの上映会(「単なるDVD」でないことは繰り返し書いたが)に、800人の観客が交通費や宿泊費を使って富士吉田に来る。「桜の季節」に、「愛をこめて」、「遠くの町に」来る。志村正彦の故郷への旅。やはり希有なことで、志村正彦在籍時のフジファブリックに対する持続的な深い関心と強い支持があってのことだ。
前回、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの山梨発ライブについて書いた。特にザ・ブームの宮沢和史については世代的に近いこともあり、それなりの思い入れがある。
実は、宮沢和史の生まれ育った場所と私の場所とはほぼ重なる。初期の名曲『星のラブレター』の歌詞を引用する。
朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた
年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる
私は小学生の頃まで「朝日通り」とその商店街の近くに住んでいたので、とても懐かしい所だ。甲府の中心からは少し離れてはいたが、「朝日シネマ」という映画館もあり、子供の頃通ったりしていた。宮沢和史が最初にギターを買ったという楽器店もあった。住宅街の中の商店街なので、華やかさはなく地味だったが、それなりの賑わいと身近な親しみがあった。今はさびれてしまったが、最近、若者たちが新たに店を構えるようになったのはたのもしい。「昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる」という歌詞の一節のような街の風景を取り戻してほしい。
宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅のすぐ北西側に位置する商店街の街並みは、志村正彦にとっての「下吉田」やかつてそこにあった商店街に相当するのではないだろうか。昭和30年代、40年代頃まではまだ、「朝日通り」界隈には「路地裏」があった。郊外へと発展していった都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として、「路地」や「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年、昭和55年に富士吉田で生まれた志村正彦は、昭和の名残のある「路地」や「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。
宮沢和史の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」や『釣りに行こう』の甲府の荒川の源流など、山梨、甲府盆地の中にある。路地裏のような場と自然豊かな場の二つがある。彼は、その場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。
志村正彦の場合、下吉田、「いつもの丘」、そして富士山の景観というように、やはり、路地裏のような場と自然豊かな場の双方がある。
山梨に住む者にとって、街中の路地裏のような狭い場所から視点を少しずらして遠くを眺めると、向こう側に高峰の山々や雄大な自然が見えるという経験が日常的にある。もちろん、どこにでもこのようなことはあるのだが、山梨の場合、そのギャップが甚だしい。風景がワープするような感じ、とでも言えばいいのだろうか。私たちはもちろん「愛をこめて」その風景を眺めているのだが。
この独特の風景の構成が、宮沢和史や志村正彦の歌詞の世界を根底から支えている。
Labels:
宮沢和史・THE BOOM,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年3月27日木曜日
三つのバンドの山梨初ライブ [志村正彦LN 75]
フジファブリック『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットは、26日夜の時点ではまだ、チケットぴあのHPで購入できる。前回予想したとおり、先行予約分のキャンセルが出たようだ。御存じでない方、チケットを入手できなかった人のために、まずその情報を伝えさせていただきます。
LN74で「春の名曲」ランキングに関連して、山梨が誇る「三大ロックバンド」ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックのことに少し触れた。
今回は、この三つのバンドがいつ山梨で初ライブをしているのか、メジャーデビュー後どのくらいを経っていたのかという点について書いてみたい。
ザ・ブームは、1989年(11月下旬だった気がするが、もう25年前のことになるのではっきりとは思い出せない。間違えていたらすみません)、甲府盆地の南にある「風土記の丘」曽根丘陵公園の野外ステージで山梨初ライブを行った。この年の5月にメジャーデビューしているので、およそ半年後のことで、プロモーションとしてのライブだったと思われる。
その頃の私の職場の同僚がザ・ブームのメンバーと高校の同級生で友達だった縁があり、私もその場に駆けつけることとなった。宮沢和史の言葉と楽曲も、バンドとしての演奏も素晴らしかったが、客は数十人ほどだった。山梨でもまだほとんど知られていない頃で、おそらくメンバーの知人や関係者だけが集まったのだろう。
その後、ザ・ブームは順調に優れたアルバムを出し、『島唄』で大ブレイクしたのだが、私にとってのザ・ブームは、数十人を前に、熱く歌い奏でた1989年のライブの印象が強い。
レミオロメンは、彼らのバイオグラフィーによると、2004年2月6日、山日YBSホール、「SPECIAL LIVE“朝顔”in 山梨」。ネットの情報によれば、このライブは応募制で350人ほどが来場したようだ。2003年8月にメジャーデビューしていて、およそ半年後なので、これもプロモーションのための限定ライブだろう。
フジファブリックの初ライブは、言うまでもなく、2008年5月31日、富士五湖文化センター、「TEENAGER FANCLUB TOUR」。メジャーデビュー後、4年が経っている。志村正彦が語っていたように、「内輪」向けのライブやデビュー・プロモーションのためのライブではなく、「普通」のライブ、フジファブリックのファンが集う「通常」のライブを富士吉田で実現するために、これだけの年月を必要としたのだろう。志村正彦のストイックな姿勢がうかがわれる。
故郷をあれだけ愛していながらも、故郷に甘えることなく、信念を貫いて音楽を続けていた。
ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの音楽。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の言葉の世界については、彼らの故郷の風景への関わり方の違いという視点をまじえて、稿を改めて論じたいと考えている。
志村正彦が富士五湖文化センターライブにかけた想いの深さは、すでに映像となっているいくつかの歌と演奏、MCによってその一端を知ることができるが、私のようなあの日会場にいなかった者たちにとっては、今度のDVDや上映會によって、初めてその全貌が明らかとなる。 (この項続く)
LN74で「春の名曲」ランキングに関連して、山梨が誇る「三大ロックバンド」ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックのことに少し触れた。
今回は、この三つのバンドがいつ山梨で初ライブをしているのか、メジャーデビュー後どのくらいを経っていたのかという点について書いてみたい。
ザ・ブームは、1989年(11月下旬だった気がするが、もう25年前のことになるのではっきりとは思い出せない。間違えていたらすみません)、甲府盆地の南にある「風土記の丘」曽根丘陵公園の野外ステージで山梨初ライブを行った。この年の5月にメジャーデビューしているので、およそ半年後のことで、プロモーションとしてのライブだったと思われる。
その頃の私の職場の同僚がザ・ブームのメンバーと高校の同級生で友達だった縁があり、私もその場に駆けつけることとなった。宮沢和史の言葉と楽曲も、バンドとしての演奏も素晴らしかったが、客は数十人ほどだった。山梨でもまだほとんど知られていない頃で、おそらくメンバーの知人や関係者だけが集まったのだろう。
その後、ザ・ブームは順調に優れたアルバムを出し、『島唄』で大ブレイクしたのだが、私にとってのザ・ブームは、数十人を前に、熱く歌い奏でた1989年のライブの印象が強い。
レミオロメンは、彼らのバイオグラフィーによると、2004年2月6日、山日YBSホール、「SPECIAL LIVE“朝顔”in 山梨」。ネットの情報によれば、このライブは応募制で350人ほどが来場したようだ。2003年8月にメジャーデビューしていて、およそ半年後なので、これもプロモーションのための限定ライブだろう。
フジファブリックの初ライブは、言うまでもなく、2008年5月31日、富士五湖文化センター、「TEENAGER FANCLUB TOUR」。メジャーデビュー後、4年が経っている。志村正彦が語っていたように、「内輪」向けのライブやデビュー・プロモーションのためのライブではなく、「普通」のライブ、フジファブリックのファンが集う「通常」のライブを富士吉田で実現するために、これだけの年月を必要としたのだろう。志村正彦のストイックな姿勢がうかがわれる。
故郷をあれだけ愛していながらも、故郷に甘えることなく、信念を貫いて音楽を続けていた。
ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの音楽。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の言葉の世界については、彼らの故郷の風景への関わり方の違いという視点をまじえて、稿を改めて論じたいと考えている。
志村正彦が富士五湖文化センターライブにかけた想いの深さは、すでに映像となっているいくつかの歌と演奏、MCによってその一端を知ることができるが、私のようなあの日会場にいなかった者たちにとっては、今度のDVDや上映會によって、初めてその全貌が明らかとなる。 (この項続く)
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音楽,
宮沢和史・THE BOOM,
志村正彦ライナーノーツ(LN),
藤巻亮太・レミオロメン
2014年3月23日日曜日
「春の名曲」のオルタナティヴ [志村正彦LN 74]
4月13日『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを購入することができた。このためにSMAのモバイル会員となって先行予約をしたのが功を奏したようだ。と言うのも、どうやら、PIAの先行予約や一般発売ではほとんど入手できなかったようなのだ。これは複数の知人からの話だ。おそらくSMA会員の先行予約で予定枚数に達してしまったのだろう。あのホールの客席は800ほどで、絶対数が少ないことが原因だが、PIAの先行予約や一般発売で購入しようとした人にとっては残念な結果となってしまった。この上映會の意味合いからして、希望の方は全員入場できることが理想なのだが、準備の問題もあり、色々な制約があったのかもしれない。それでも、先行予約分のキャンセルが出る可能性もあるので、主催者にはそのあたりの情報を迅速に出していただきたい。
4月13日の上映會まで、あと3週間。満員になることは間違いないようだ。志村正彦に対する根強い人気が確かめられて、率直にうれしい。集う人は、様々な想いを抱えて、上映會までの日々を過ごし、当日を迎える。年度末の忙しい時期だが、その日々がなんだか愛おしく、そして切ない。吉田の桜の開花がいつになるのか、そのこともしきりに気になる。
一昨日、テレビ朝日『ミュージックステーション』の「春の3時間SP」番組で、「卒業,桜…1万人が選んだ春の名曲ランキング」が特集されていた。たまたま番組欄を見て、ユニコーンとあったのであわてて録画しておいた。あの『すばらしい日々』が50位に位置していた。この歌が「春」の曲なのか、という疑問は残るが、「別離」の歌ではあるので、「春」を想起させるものとしてランキングに入ったのだろう。「名曲」だということには誰も異論があるまい。多くの人と同様に私にとっても、『すばらしい日々』は奥田民生・ユニコーンの最高傑作だ。思いがけないことに、なんと、生演奏もあり、大収穫だった。
この特番は、10代から60代の男女1万人対象のアンケートで選ばれた昭和・平成の春の名曲ランキング60曲を順に紹介していったが、特に上位の曲は予想通りというか、有名な定番ソングばかりが並んだ。意外だったのは、14位『3月9日』、39位『Sakura』と、ランキングの全60曲中、2曲もレミオロメンが選ばれていたことだ。
山梨が誇る「三大ロックバンド」(古くさい言い回しだが、現実にそうなのでこの言葉にする)は、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックだ。フジファブリック・志村正彦は言うまでもないが、ザ・ブームとレミオロメンも、「山梨」という限定抜きで、広く「日本語のロック」の歴史の中で重要な位置を占める音楽家であることは間違いない。仮に、この三つのバンドが山梨出身でなかった(ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは「ALL山梨」だ。中学や高校の友人や仲間が結成したことも共通している)、私はその歌詞とサウンドから、この三つのバンドをかなり好きになったと断言できる。現実は山梨出身なのだから、故郷を同じくする者の音楽として、強く支持するようになった。だから、レミオロメンの作品が春の名曲60曲中2曲も入ったことは快挙で、素直に喜びたい。
それでも、このリストを見るとどうしても、フジファブリックの『桜の季節』は絶対に入るはずはない、という想いにとらわれてしまう。レミオロメンが少しだけ羨ましくなる。最近のロックを愛する若者の間では「名曲」という評価もあるのだろうが、いわゆるヒット曲ではないので、リストに入る可能性はほとんどないが、志村正彦の構築した歌詞の世界が「春の名曲」「卒業・桜の名曲」とは相容れないことが本質としてある。
フジファブリックは「オルタナティヴ・ロック」に分類されているようだが、『桜の季節』は、その語の本来的な意味の上で、「オルタナティヴ」な価値、「もう一つの、代わりの」というような「相対的な差異」ではなく、ある種の「絶対的な差異」を持つ、「春」の歌、「桜」の歌であり「別離」の歌でもある。これからも、そうあり続けるだろう。
この歌はひそかに、しかし確実に、これからも聴き続けられるだろう。この歌に魅せられた人にとっては、春の到来、桜の訪れとともに、この歌を想いだし、この歌を反復するだろう。
「桜が枯れた頃」の風景からのまなざし、志村正彦のまなざしを心の中に刻み込むだろう。 (この項続く)
4月13日の上映會まで、あと3週間。満員になることは間違いないようだ。志村正彦に対する根強い人気が確かめられて、率直にうれしい。集う人は、様々な想いを抱えて、上映會までの日々を過ごし、当日を迎える。年度末の忙しい時期だが、その日々がなんだか愛おしく、そして切ない。吉田の桜の開花がいつになるのか、そのこともしきりに気になる。
一昨日、テレビ朝日『ミュージックステーション』の「春の3時間SP」番組で、「卒業,桜…1万人が選んだ春の名曲ランキング」が特集されていた。たまたま番組欄を見て、ユニコーンとあったのであわてて録画しておいた。あの『すばらしい日々』が50位に位置していた。この歌が「春」の曲なのか、という疑問は残るが、「別離」の歌ではあるので、「春」を想起させるものとしてランキングに入ったのだろう。「名曲」だということには誰も異論があるまい。多くの人と同様に私にとっても、『すばらしい日々』は奥田民生・ユニコーンの最高傑作だ。思いがけないことに、なんと、生演奏もあり、大収穫だった。
この特番は、10代から60代の男女1万人対象のアンケートで選ばれた昭和・平成の春の名曲ランキング60曲を順に紹介していったが、特に上位の曲は予想通りというか、有名な定番ソングばかりが並んだ。意外だったのは、14位『3月9日』、39位『Sakura』と、ランキングの全60曲中、2曲もレミオロメンが選ばれていたことだ。
山梨が誇る「三大ロックバンド」(古くさい言い回しだが、現実にそうなのでこの言葉にする)は、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックだ。フジファブリック・志村正彦は言うまでもないが、ザ・ブームとレミオロメンも、「山梨」という限定抜きで、広く「日本語のロック」の歴史の中で重要な位置を占める音楽家であることは間違いない。仮に、この三つのバンドが山梨出身でなかった(ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは「ALL山梨」だ。中学や高校の友人や仲間が結成したことも共通している)、私はその歌詞とサウンドから、この三つのバンドをかなり好きになったと断言できる。現実は山梨出身なのだから、故郷を同じくする者の音楽として、強く支持するようになった。だから、レミオロメンの作品が春の名曲60曲中2曲も入ったことは快挙で、素直に喜びたい。
それでも、このリストを見るとどうしても、フジファブリックの『桜の季節』は絶対に入るはずはない、という想いにとらわれてしまう。レミオロメンが少しだけ羨ましくなる。最近のロックを愛する若者の間では「名曲」という評価もあるのだろうが、いわゆるヒット曲ではないので、リストに入る可能性はほとんどないが、志村正彦の構築した歌詞の世界が「春の名曲」「卒業・桜の名曲」とは相容れないことが本質としてある。
フジファブリックは「オルタナティヴ・ロック」に分類されているようだが、『桜の季節』は、その語の本来的な意味の上で、「オルタナティヴ」な価値、「もう一つの、代わりの」というような「相対的な差異」ではなく、ある種の「絶対的な差異」を持つ、「春」の歌、「桜」の歌であり「別離」の歌でもある。これからも、そうあり続けるだろう。
この歌はひそかに、しかし確実に、これからも聴き続けられるだろう。この歌に魅せられた人にとっては、春の到来、桜の訪れとともに、この歌を想いだし、この歌を反復するだろう。
「桜が枯れた頃」の風景からのまなざし、志村正彦のまなざしを心の中に刻み込むだろう。 (この項続く)
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