2025年11月30日日曜日

10月の甲府Be館 『六つの顔』『入国審査』

10月は、芥川龍之介の小説についての論文を書いたり、〈甲府文と芸の会〉の公演の準備をしたりと忙しい日々を送っていて、甲府シアターセントラルBe館には二度しか行けなかった。


『六つの顔』


 人間国宝の狂言師野村万作を撮ったドキュメンタリー作品。息子の野村萬斎、孫の野村裕基も出演している。犬童一心監督。題名の「六つの顔」は、万作が自身について思い浮かべる六つの自己像を表している。前半は野村万蔵家の歴史や野村万作の稽古の姿、後半は2024年6月の文化勲章受章記念公演の狂言「川上」の映像を紹介していた。

 狂言「川上」の能舞台は宝生能楽堂だった。万作が上演の直前に鏡の間で自身の姿を映し出す場面、その瞬間の眼差しに惹かれた。自分の姿を見つめることで役柄に変身していくようだった。(私の妻は趣味として能を稽古していた時があり、宝生能楽堂で二度ほど能を舞ったことがある。妻はこの鏡の間での緊張感が忘れられないと話していた)他にも、楽屋で弟子たちが万作に挨拶をする場面の映像が印象的だった。


『入国審査』



 ディエゴとエレナのカップルがスペインのバルセロナからアメリカへ移住するためにニューヨークの空港に降り立つが入国審査で尋問される。監督はアレハンドロ・ロハスとフアン・セバスティアン・バスケス。取調室で容赦なく尋問されるなかでディエゴの過去の婚約歴が明らかとなり、エレナはディエゴに疑念を抱くようになる。二人の追い込まれ方が尋常でなく、アメリカの入国管理の厳しさに直面する。

 海外旅行の際には誰もが入国審査で緊張するだろう。通常はパスポートの確認後にすぐに通過できるが、ある時に同行者がかなり時間がかかったことがある。どうしたのだろうかと心配したが、そのうちに何事もなく通過できたので安堵した。この映画も監督の実体験に着想を得て制作されたそうである。その実体験がリアリティを与えているのだろう。


 宝生能楽堂の楽屋や舞台裏。空港入国審査の取調室。

 全く異なる場ではあるが、表側では見ることのできない裏側での出来事、人間の姿が印象深い二つの映画であった。


2025年11月19日水曜日

有馬銅鑼魔

 有馬眞胤さんとの出会いを振り返りたい。二年前、2023年の6月、山梨市日下部公民館で彼の独り芝居を初めて見た。当時の館長内藤理さんがいろいろな素晴らしい企画の公演を打っていたが、そのうちの一つだった。太宰の「走れメロス」が演目だったので、私がその前座として「太宰治と山梨」について話をすることになった(それ以前にこの公民館の映画祭で何度か講座を担当していた)。

 この日の観客は四十名ほどだったが、皆、「走れメロス」の言葉そのものを声と身体で再現した芝居にとても魅了された。下座のエイコさんの津軽三味線も彩りを添えていた。前回、亀屋座での有馬さんの芝居に対する〈本物に出会った〉というコメントを紹介したが、私もまさしくそのような思いを抱いた。

 翌年2024年の9月、日下部公民館で浅田次郎『天切り松闇がたり』シリーズの「白縫華魁」の独り芝居があった。有馬さんの語りによって吉原遊郭を舞台とする物語の情景が浮かび上がった。12月、東京両国のシアターXカイで谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の芝居があった。有馬さんが語り手兼主人公の〈わたし〉を、エイコさんが〈母〉を演じた。二人の芝居によって谷崎の文学がその場で可視化されていった。この舞台では照明が工夫されて、より演劇的な空間となっていた。

 有馬さんは自身のHPで〈有馬眞胤の語り芸は朗読ではない。本は持たず一篇の小説を全て覚えて演じるのです。落語でもなく、講談でもなく、新しい語りのジャンルを探るべく格闘しています。下座にはエイコ(津軽三味線)が務めております〉と述べている。確かに、文学作品の朗読でなく、文学作品を原作とする演劇でもない。一つの文学作品の言葉を彼の記憶のなかに吸収させて、彼の声と身体によって作品を再現し上演する行為である。有馬さん自身はこの行為を〈作品を立体化する〉と説明している。


 今年2025年、山梨英和大学で「太宰治と甲府」というテーマの講義をするために資料を読んでいたときに、太宰治が石原美智子と結婚して甲府に住んでいた時に執筆した「新樹の言葉」と「走れメロス」の人物関係やテーマが非常に似ていることに気づいた(この具体的な内容は後日詳しく書きたい)。その際に、有馬さんを招いて、学生に「走れメロス」の独り芝居を見せることを思いついた。幸いなことにすぐに有馬さんの快諾を得て、6月にその授業が実施できた。私が「太宰治と甲府―「新樹の言葉」から「走れメロス」へ」という講義をした後で、有馬さんが「走れメロス」を上演した。その芝居についての学生の感想を紹介したい。


  • 一人芝居で観た「走れメロス」は、文章で読んだ時とは全く違う臨場感と重みを感じた。声や表情、動きの変化によって、登場人物たちの感情の揺れがはっきりと伝わり、「走れメロス」という物語のテーマが理屈ではなく感覚として自然と胸に迫ってきた。一人芝居だからこそ生まれる緊張感の中で、太宰治の声と語りの力を改めて実感することができた。
  • 「走れメロス」の独り芝居を見た時、その声や立ち振る舞いでストリーに引き込まれ、思わずメロスに感情移入してしまいとても感動した。特にメロスやセリヌンティウスのセリフは声の抑揚により本当に目の前で会話が行われているのではないかとすら感じた。
  • 先生の話を聞き、そして有馬さんの芝居を見て、様々な作品にはそれぞれ作者がいて、作者は作品に対して様々な思いを持って制作をしているという背景があり、二次創作者がどのように解釈してどのように表現するのかという部分にとても興味を持ちました。有馬さんが演技をしている時、有馬さん自身が、メロスをはじめ他の登場人物ならどういう態度や声量や動きをするだろう、それがどうすればお客さんに伝わるだろうと考えた末にたどり着いた努力の演技だと一目見ただけで感じることができ、感動しました。


 学生はこの芝居に魅了され、「走れメロス」の世界に感情移入していった。魅了というよりも感動というべきだろう。学生は本物の役者に出会い、教室が本物の舞台空間に変わっていったのである。

 この公演後、有馬さんは私宛のメールで〈「走れメロス」という作品は文体にリズムがあり、テーマも解りやすくシンプルです。作品を自分流に演じるのではなく、出来る限り作品に忠実にシンプルに真直ぐに演じることに心掛けております。文学を立体化し芸術に迄昇華出来ることを目標にしております〉と書いている。文学の立体化が彼の方法であり目標である。

 そして、授業での学生の反応を見て、一般の方に対してこの芝居を公演することを考えた。その頃ちょうど甲府の中心街に「こうふ亀屋座」ができた。あの舞台なら有馬さんの芝居がいっそう引き立つに違いない。この話もまた有馬さんの快諾を得て、公演の実現へと動いていった。このような経緯を経て、11月3日にこうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が開催されたのである。


 有馬さんの経歴を紹介したい。劇団四季に所属して『異国の丘』『オンディーヌ』などを演じた後、蜷川幸雄の演出作品に20年間参加して、『王女メディア』『近松心中物語」『ニナガワ・マクベス』では世界ツアーに参加し、ロンドン、ニューヨーク、バンク―バー、香港、アントワープ、シンガポール、クワラルンプール、ヨルダン、エジプトなどで公演した。また、平幹二郎主宰の「幹の会」の公演『冬物語』『王女メディア』『鹿鳴館』などにも参加した。その後は劇団やプロジェクトから完全に独立して、2005年から「有馬銅鑼魔」と題する独り芝居、独り語りを始め、2020年からは両国シアターXカイに拠点を移し、精力的に活動を続けている。


 有馬眞胤さんはこのように役者としての豊富な経験とキャリアを持っているが、実に謙虚な方である。太宰治「走れメロス」の全文を暗記して声と語りによってその世界を再現し上演できる役者はおそらく彼一人であろう。独自の演劇を探究する孤高の存在である。

 私は「有馬銅鑼魔」の独自性を高く評価している。来年もまた甲府で、孤高の役者有馬眞胤の独り芝居を公演する予定である。


2025年11月5日水曜日

11月3日の公演 〈本物に出会った〉という言葉

 一昨日、11月3日、こうふ亀屋座で〈甲府 文と芸の会〉の第1回公演〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉が予定通り開催された。

 昼になると青空が広がり、日差しも暖かくなってきた。すがすがしい、おだやかな気分で公演を迎えることができた。三連休の最後、文化の日ということもあって、亀屋座のある「小江戸甲府花小路」の人通りが多く、活気もあった。賑やかな華やぎが甲府の中心街に戻ってきたような気がした。


 参加希望者は105名に達した。先着順90名の予定だったが、それを超える申し込みがあったために、2階の客席エリアを広げて対応した。開場は1時半からだったが、1時過ぎには入り口の前にかなりの人々が並んでいた。(亀屋座の担当者が五月のオープン以来初めて見る光景だと言われた)亀屋座前を通る人が何のイベントがあるのだろうと振り返る姿がときどき見られた。

 開演の10分ほど前には満員の状態になり、予定通り午後2時に開演した。私がまず〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」〉と題して15分ほ話をした後で。エイコさんが「新樹の言葉」の冒頭などの部分を10分ほど朗読した。休憩の後、有馬眞胤さんの独り芝居とエイコさんの下座(三味線)による「走れメロス」の上演があった。有馬さんは作品の全文を覚えて、声による語りと身体の動きによって「走れメロス」を演じきり、エイコさんの三味線が場面の展開に確かな彩りを添えていった。

 書物の二次元の世界を声と身体によって三次元の世界に変換していく有馬独り芝居のスタイルは非常に独創的である。観客はこの有馬独り芝居の世界に入り込み、魅了されていく。観客の眼差しが舞台を見つめ、語りの声を聴くことによって、亀屋座そのものが「走れメロス」の空間と化していった。

 50分ほどの時間だったが、芝居が終了すると、観客からまさしく「万雷の拍手」が起きた。亀屋座の小さいが濃密な空間が拍手の音で揺れるようだった。カーテンコールの後で主催者代表として私が御礼と感謝の言葉を述べた。来年度も有馬さんとエイコさんを招いて公演を行うことを告げてこの公演を閉じた。


 会場で書いていただいたアンケートの言葉を五つほど紹介したい。

  • 本物に出会った。そんな思いがしました。 
  • 有馬さんの迫力ある演技を見て、学生時代に読んだ走れメロスのストーリーが蘇りました。 
  • 素晴らしい朗読と芝居でした。三味線の音色に津軽の景色が広がりました。
  • 有馬さんの声の抑揚、身振り、手振り などとても引き込まれました。発声も素晴らしく、後方で見ていましたが、初めから終わりまで余すことなく楽しめました。 
  • 久しぶりにお芝居を見てとても満たされました。昔、蜷川幸雄さんが生きていた当時、何度が見に行きました。それ以来というわけではありませんが、久しぶりにお芝居の楽しさを感じました。


 〈本物に出会った〉という言葉が今回の公演の本質を語っている。アンケートには次回も必ず見たいという声も多かった。とてもとても有り難い言葉である。後日、この公演についてはさらに書くことにしたい。

 

2025年11月1日土曜日

昭和20年7月の別れ-太宰治と甲府 6

 昭和14(1939)年9月、太宰治は甲府から東京の三鷹へ転居したが、その後も何度も甲府を訪れている。妻美智子の実家、湯村温泉の旅館明治、甲府中心街の東洋館などに滞在して小説を執筆した。昭和20(1945)年4月、東京の空襲に遭い、甲府に疎開してきた。

 甲府の詩人一瀬稔は「太宰治点描―太宰治(1)」「追憶の酒―太宰治(2)」(『忘れ得ぬ人びと』甲陽書房 1986)で、その頃の太宰と井伏鱒二との思い出を語っている。まず、「追憶の酒」から引用したい。 

ぼくが太宰さんに初めてお会いしたのは昭和十七年ごろで、その当時太宰さんは、東京の三鷹から水門町の奥さんの実家と湯村温泉に滞在して創作に専念、夜はたいがい市内のどこかで酒を飲んでおられた。そんな時いつも甲運村(現在甲府市に編入)へ疎開されていた井伏鱒二氏がご一緒だったようである。ぼくが特に親しくおつき合いねがったのは、終戦の前の年から、甲府が戦災を受けて太宰さんが津軽の生家へ引き揚げるまでの一年余りの期間である。

 一瀬は太宰や井伏と甲府近郊の川魚料理屋へ行った思い出を語っている。

ぼくらは座敷に通されて、きっそく酒になった。飲むほとに酔うほどに太宰さんはすっかり上機嫌になり、酔った時のいつもの調子でにぎやかにはしゃぎ、「ぼくは今夜こそこの甲州に骨を埋める覚悟を決めましたよ」とくり返し言うのだった。

 一瀬はこの太宰の発言について〈太宰さん特有の大仰なゼスチュアではあるが、それほどその晩の酔い心地は格別だったように思われた〉と述べている。太宰の甲府時代を振り返って、次のように評した。実際に太宰と交流した人の証言でもある。

太宰さんのいわゆる甲府時代というのは約五、六年間であるが、この期間は太宰さんの生涯の中で、生活的にも、精神的にもいちばん安定しており、ばりばりと仕事のできた文字通り脂ののった時期ではなかっただろうか。時代こそ暗かったが、気持ちにかげりがなく、飲めば闊達にはしゃぎ、太宰さんの周りにはいつも明るい雰囲気が漂っていた。

 甲府時代の太宰は精神的にも安定して仕事に打ち込んでいた。作家仲間や地元の青年たちとの交流もあった。川魚料理屋での〈甲州に骨を埋める覚悟〉というのはリップサービスにも聞こえるが、案外、太宰の本音を伝えているのかもしれない。


 「太宰治点描」では、『オリンポスの果実』の田中英光が東京から太宰を訪ねてきた日のことを書いている。その当時、甲府駅の北口側にあった「峠の茶屋」という飲み屋に太宰と甲府の画かきや文学の仲間がよく集っていた。

僕たち四、五人の常連も加わって、その峠の茶屋へ飲みにおしかけた。体の大きい田中さんは、その時学生服を着ていて、酔いが回るにつれてますます元気になり、果てはハチ巻などして、持ち前の蛮声で何やら大気焔をあげていた。太宰さんもこの遠来の愛弟子を加えての酒席がたいへん愉しかったと見え、殊更上気嫌で、「今夜は徹夜でのみ明かそうや」と言って、やんちゃな子供みたいにさかんにはしゃいでいた。その夜はとうとう夜明け近くまで飲みあかし、それぞれ酔いつぶれたような格好で畳の上にごろ寝してしまった。昼近くなって目を覚ましたが、また太宰さんの提唱で、すぐ近くの山へのぼって飲み直すことになった。各自一本ずつブドウ酒の壜をさげて(その頃は高級料理屋以外には清酒がなかったので、僕たちは主にブドウ酒を常飲していた)、同勢はそこから二丁ほど先の愛宕山へくり出した

 太宰治と愛弟子の田中英光、甲府の仲間たちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。ブドウ酒の壜とあるが、山梨では一升瓶のブドウ酒がよく飲まれる。愛宕山は甲府駅のすぐ北側にある。この山に少し登ると周囲を展望できる場所があり、甲府盆地の全景と富士山、御坂山系、南アルプスなどの山々がよく見える。夜景も美しい。昔も今も変わらない風景がある。


 昭和20(1945)年7月6日深夜から7日未明までのあいだ、甲府は空襲された。焼け野原になってしまった日からまもなく、一瀬稔は街中を自転車で走る太宰を目撃する。

 甲府の街が空襲で焼けて間もなくだった。ある日街を歩いていたら、少し離れた車道を、太宰さんが自転車で颯爽と走っていった。その時の太宰さんの服装はいまはっきりと記憶にないが、白い開襟シャツにカーキ色のズボン、それにゲートルを巻いて編上靴を穿いていたようだった。そして背中に空のリュックを背負っていた。その時人道を歩いていた僕は、とっさに声をかけようとしたが、太宰さんは何か急ぎの用事でもあるらしく、傍目もせず真っしぐらに走っていったので言葉をかける間もなかった。僕はその時、何かいつもの太宰さんとはまるで違った人でも見るような気がして立ちどまったまま、颯爽とペダルを踏んでいくそのうしろ姿をしばらく呆然と見送っていた。その時が最後で、太宰さんとはもう二度とお目にかかれなかった。    

 この後まもなく、太宰は家族を連れて故郷の津軽へ帰っていった。一瀬のもとに太宰から「来年になったら、またお会いして、ブドウ酒を飲み、ウナギを食べて文学の談を交わす事が出来るかと思い、たのしみにして居ります」という手紙が来た。

 しかし、結局、太宰治が再び甲府を訪れることはなかった。昭和20年7月が甲府との別れの時となった。


 甲府空襲の後、太宰は故郷津軽の実家へ疎開し、終戦を迎えた。津軽に一年半近く滞在し、昭和21(1946)年)11月、東京に戻った。もしも、という仮定をあえてするが、甲府空襲がなければ戦後もそのまま甲府でしばらくは暮らしていたかもしれない。太宰の人生や文学も異なる軌跡を描いたことだろう。