公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2025年8月18日月曜日

夏季休暇中の山梨への旅(一)丹波山・塩山[芥川龍之介の偶景 3]  

 明治41(1908)年の夏、芥川龍之介は16歳、東京府立第三中学校の4年生だった。夏季休暇中の7月24日から8月1日までの9日間、親友の西川英次郎と山梨と長野へと旅した。 その際の日録が、丹波・上諏訪・淺間行 明治四十一年夏休み「日誌」(『芥川龍之介未定稿集』、引用文は同書による)、として残されている。この日誌には芥川が山梨で見た様々な《偶景》の記述がある。

 なお、この自筆資料は山梨県立文学館に収蔵されている。昨年10月から、同館のデジタルアーカイブ内で「暑中休暇日誌」という名で画像が公開されたので、インターネット上で閲覧可能である。


 西川英次郎(ひでじろう)は後に東京帝国大学の農科に進学し、農学博士となり、鳥取大学や東北大学などの教授を歴任した。府立三中時代の五年間を通して学年全体で、西川が一番、芥川が二番という成績だった。 才気煥発な芥川に対して冷静沈着な西川というように性格は異なるが、大秀才同士で仲が良かったようだ。


 7月21日に夏休みが始まり、日誌はその日から書かれている。21日に〈學校へ汽車の割引券と證明書とをもらひに行く〉〈一日中 旅行の準備に何くれとなく忙しい〉、23日に〈茣蓙も帽子も施行の準備はのこりなくすン だ〉〈明日は雨のふらない限り出發する豫定である〉〈同行は西川君〉とあるように、夏休みの最初の三日間で旅行の準備を進めた。茣蓙(ござ)は徒歩旅行中の休憩のために用意したのだろう。


 7月24日、芥川と西川の二人は東京を出発する。日向和田までは汽車、そこから青梅街道を歩き、氷川で宿泊する。芥川は氷川が〈淋しい町〉であると繰り返し記している。

 25日、氷川から丹波山へと歩いていく。

 氷川と丹波山との間の路はわすれ難い、ゆかしい路であつた。右は雜木山 左は杉木立。

 道中のところどころに滝がある。玉川の流れが見える。寺、半ば傾いた山門、道祖神の祠。静けさにみちた村の人々の生活を羨む。

 村がつきると又山になる。靑黑い山と靑黑い谷 その間を縫ふ白い細い道 玉川の水の音 水車小屋 鶯の聲――あゝ夏だ。

 十六歳の少年は青梅街道の夏を満喫したようだ。日暮れに山梨に入る。鴨沢を経て、丹波山の宿「野村」に泊まる。後に芥川は「追憶」というエッセイでこう述べている。

 僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。


 7月26日、二人は丹波山から落合を経て塩山へと向かう。『日誌』にはこうある。

 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。

 實にこの昏々たる睡眠土は 自然の殿堂である。思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿である。

 あらゆる物を透明にする秋の空氣が この山とこの谷とを覆ふ時 獨りこの林の奧の落葉をふみて 凩の聲に耳を澄したなら 定めて心地よい事であらう。

 この日誌は学校の宿題として課せられたものだろうが、芥川はそれを契機として自分なりの紀行文を書こうと試みたのではないだろうか。山国の風景を写生文的な口語文で叙述しているが、その印象は〈太古の樣な寂寞〉〈寥々として天地を領してゐる〉〈思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿〉などの漢文の美文調の表現で記されている。また、秋の風景やその感触も想像しているところが季節に敏感な芥川らしい。


 芥川と西川は夜7時頃塩山駅に到着した。甲府行の汽車を待つ間、外を歩き空を仰いだ。

 紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。

 それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。

 龍之介の眼差しは、甲斐の野、山、林、空、星、人家に対して、「紫」「殘照」「鉛紫」「暮色」「藍色」「紅」と色合や光の濃淡が微妙に変化する《偶景》を捉えている。

 自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。

 嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。


 当時の中央線の本数は少なかったので、二人は四時間も待つことになる。夜も更けて、山国の「天の河」の光が美しく見えたことだろう。この後二人は汽車に乗って甲府に向かった。

        (この項続く)


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