2014年4月27日日曜日

『FAB BOX II』の重み-4/13上映會3 [志村正彦LN 80]

 上映會から2週間が経つ。16日には『FAB BOX II』が無事発売され、予約した分が我が家にも届けられた。無事、何事もなく、とあえて書いたのは、この作品がリリースされることを祈るような気持ちで待っていたからだ。すでに13日の上映會の展示物として見てはいたのだが、パッケージを手にするまで、ほんとうにこの作品が誕生したことが実感できなかった。

 このBOXセットには予想以上の重みがあった。これは、2006年12月25日の渋谷公会堂、2008年5月31日の富士五湖文化センター、そのときからすでに7年半、6年近くが過ぎ去った「時」が蓄積された重みのような気がする。ファンや関係者、富士吉田の人々、志村正彦の御友人や御家族がずっと待っていた重みでもある。そして誰よりも、志村正彦その人が待ち望んでいた作品だろう。

 柴宮夏希さんのデザインが秀逸だ。EMI制作担当の今村圭介氏が「宝箱みたい」と形容した「箱」は確かに、何が入っているのか、わくわくさせるような質感を持つ。開けたいような、まだしばらく開けたくないような気持ちになるが、思い切ってシールを開封する。「FAB」の字が切り抜かれた大きな「帯」の裏側には、LIVE DVD×2+PHOTO BOOK〈100p〉×2+ GOODS×2、と簡潔に媒体等が記されている。すべてが×2だ。

 箱のイラスト。図柄と文字が、まるで楽器が鳴り、音が混ざりあっているようで面白い。白の地に黒の線、モノトーンの世界が不思議に合っている。インディーズの頃から志村と関わりが深く、デザインについても語り合ったという柴宮さんならではの優れたデザインだ。
 箱の底側には「SiNCE:2000」の文字。2000年は、「富士ファブリック」結成の年。渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と共に4人で同級生バンドを作った。それから数えると結成14年。そんなことも改めて伝えてくれる。

 箱を開けると、表紙の裏側には茜色が広がる。扉の一枚紙の地も、DVDの表紙も、富士五湖文化センターのPHOTO BOOKの表紙裏も、すべて茜色の世界。この色調が、明るすぎず渋すぎず、強すぎず弱すぎず、素晴らしい色合いとなっている。今村氏が「所謂”色校”という途中段階で、ここから更に微調整を重ねていく」と述べていたのが頷ける。
  柴宮さんは制作の依頼を受けた後、あらためて富士吉田を訪れて、風景と光と色に触れて、デザインを構想されたそうだ。

 『FAB BOX II』パッケージ全体の基調色の「白」と「茜色」のハーモニーには、「和」と「季節」と「時」の感覚が複合されていて、日本の伝統工芸品のような味わいがある。 当日の会場で飾られていたポスターにもその感覚が上手に表現されていた。
 『Live at 富士五湖文化センター』通常版のジャケットをもとに、茜色の空を背景に白い富士山が浮かび上がり、富士吉田の街並みが手書きで細かくそしてやわらかく描かれている。フジファブリック、志村正彦を象徴しているデザインだ。浮世絵のような簡潔な美と白色と茜色の完璧な色調。写真が一切使われていないのもよい。このポスターは上映會限定で印刷されたもののようだが、せめて、あのフライヤー版でもいいので、これからでも配布していただけないだろうか。部屋で飾っておきたいと思われた方も多いのではないだろうか。

 『Live at 富士五湖文化センター』DVDは、昨日初めて、最初から最後まで2時間を通して鑑賞した。4月13日の当日は、色々な想いが錯綜してきて、映像を冷静に追えたわけではなかった。(というのは表向きの書き方で、正直言うと、時折涙をこらえきれなくなって、画面をたどりきれなかった) それ故、空白部をこのDVDで補いながら、書き進めていきたい。

 液晶テレビで再確認しても、画質はあまり良くない。収録時の制約があったのだろう。この点について、レコーディングエンジニアの高山徹が述べた言葉がナタリー(http://natalie.mu/music/pp/fujifabric02)で紹介されている。EMIの制作グループは、「古いテープに記録された映像をもう一度リマスタリングして色や画質を調整し直した」そうだ。そうであるならばむしろ、現状のレベルになったことを感謝すべきなのだろう。
  また、音については「その場でミックスした2ch分の素材」しか残っていなかったそうだ。高山氏は、「志村日記」にもよく登場する山梨県出身のエンジニア上條氏について触れて、次の制作過程を教えてくれた。

 上條雄次くんっていう、初期の頃から携わってたエンジニアがかなりがんばって。ライブが行われた富士吉田の会場に行って、そこのホールの残響を測定し直す作業から入って。音を鳴らしてそれを録音して、それをコンピューターに取り込んで解析するような、ほかじゃありえないようなことをいろいろやってます。

 サウンドエンジニアリングやコンピューターの技術が向上し、これまでは不可能だったことも実現できるようだ。最新のテクノロジーを使って、この作品の音質を高めようとした上條氏を始めとするスタッフの情熱と責任感のようなものが伝わる。
 この作業は、昨年の12月下旬、『茜色の夕日』のチャイムが放送された期間中にちょうど、会場を借り切って行われたと伺っている。
  富士吉田であのチャイムが鳴り響き、人々が志村正彦を想い出している時に、あのホールでは、2008年5月31日の志村正彦、フジファブリックを復活させるためのプロジェクトが着々と進行していた。

  今村圭介氏、柴宮夏希さん、上條雄次氏、その他のスタッフを含め、志村正彦を愛する人々のきめ細かい丁寧な作業によって、『FAB BOX II』は誕生した。このBOXセットの重みは、制作者側の想いと時が詰まっているからでもある。  (この項続く)

追伸
   はまりえ様[@ha_marie]、Eminenko様[@Eminenko]。ツイートで紹介していただき、ありがとうございます。励みになります。(私はツイッターをしていないので、お返事できませんので、この場を借りました。)なんとか書き続けていきたいです。

2014年4月19日土曜日

歩行の律動-4/13上映會2 [志村正彦LN 79]

 ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
 ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。

 反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
 夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。

 オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。

    平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた

 「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。

   あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
 この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。 

 照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
 胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。

 ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
 『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。

  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

 彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。 

 『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。     (この項続く)

2014年4月13日日曜日

二つの時-4/13上映會1 [志村正彦LN78]

 
 『live at 富士五湖文化センター上映會』から甲府に帰ってきた。今日は、この日が終わる前に書きとどめたいことのみを短く記したい。

 上映が始まる。

 まなざしをスクリーンに置くと、2008年5月31日の会場、志村正彦が歌い、金澤、加藤、山内そして城戸が奏でる像とこちら側で拍手する観客の像が入ってくる。
 まなざしをスクリーンから離すと、2014年4月13日の観客が視界の中に入ってくる。私のまなざしのすぐ先には現実の観客、その向こう側には映像の中の観客。
 観客が二重になる。今まで経験したことのない不可思議な感覚にとらわれる。

  さらに、映像の中の拍手、今日の会場の拍手と混ざり合い、時を超えて、拍手がシンクロするように聞こえてくる。
 スクリーンのフレームの内側と外側が溶けて、2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時が同時に流れている。

  この不可思議な時間の感覚は、きわめて志村正彦らしい主題であることに、しばらくして気づく。
 2時間の間、スクリーンの中の志村正彦の歌と言葉を一つひとつ受け止めながら、この時間の感覚について考え続けた。その感覚は次第に変容もしていくのだが、そのことについては稿を改めて書きたい。

 上映された楽曲についても簡潔に触れたい。

 『茜色の夕日』とその前のMCについては以前にも触れたが、今日あの場で聴いたこと自体がひとつの「経験」として刻み込まれた。
 どの曲にも様々な想いを抱いた。
 ライブ映像は初めての『Chocolate Panic』はとても印象に残った。
 『桜の季節』は、この作品の数あるライブ映像の中でもベストテイクではないだろうか。桜の季節の富士吉田に、この歌は幸せにも遭遇した。
 ラストの『陽炎』。
 「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」という声が聞こえてくると、わけのわからない情動に包まれた。感覚と思考と感情がぐるぐると旋回しだす。

 上映の前後に、このDVDと會の担当者であるEMI RECORDSの今村圭介氏の短いが心のこもった挨拶があった。「志村正彦をフジファブリックをよろしくお願いします」の言葉でこの会が締めくくられた。

   終了後、会場を出ると、昼には雲に隠れてしまった富士山がうっすらと浮かび上がっていた。
 曇天の薄灰色に溶けこむかのような、残雪の多い白色と灰色の富士の山。そのかそけき美しさがこの日によく似合っていた。     (この項続く)

2014年4月12日土曜日

「一人一人」の「手紙」 [志村正彦LN 77]

 四月に入り、新年度が始まった。忙しい日々を送っている人が多いだろうが、私も職場での係が変わり、ハードワークが続いている。そんな時ほど、1曲か2曲でいいので音楽を聴きたくなる。最近は『セレナーデ』や『ルーティーン』だ。心に染みいる。

 そのような日々の合間を縫うようにして、6日、甲府の県民文化ホールで開催の斉藤和義コンサートに出かけてきた。「志村正彦の友人や交流のあったアーティストが山梨でライブをする際には必ず行く」という原則を自分に課しているのだが、斉藤は「ずっと好きだった」歌い手なので、昨年末に先行予約でチケットを入手しておいた。

 パフォーマーとしての斉藤和義はとても愉快な人だ。彼は高校卒業後、甲府に住み、山梨学院大学に通っていた。甲府駅前のマックや石和温泉のホテルでのバイト話、愛宕山での内緒話など、ローカルな話題が炸裂した。甲府で暮らしていたときに弾き語りを始めたらしいので、音楽家としての原点がこの地にあると述べていた。(もっとも、「つまらない」街だとも言ったので、屈折した情があるのだろう)
 
  ベースは隅倉弘至。志村正彦が影響を受けた「初恋の嵐」のメンバーで、静岡出身のようだ。二人の間で富士山の見え方の話になり、甲府側から見える富士山は「チラリズムの富士」、静岡側から見えるのは「丸見えの富士」と斉藤が語ったのには、大いに笑った。甲府で暮らしたことがなければ、この言葉のユーモアは分からないだろうが。
 太宰治が『富岳百景』で「甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿[ほほづき]に似てゐた」と描いている。その「ホオズキの富士」以来の名言・迷言かもしれない。

 志村正彦は斉藤と共演した際に山梨に住んでいたことを知ると、すごく興味を示したらしい。
 斉藤和義も「フジフジ富士Q」で『地平線を越えて』『笑ってサヨナラ』を見事に歌いこなしていた。特に、『笑ってサヨナラ』は斉藤の持ち歌にしてもいいくらいの出来映えだった。MCで「志村君の歌、面倒くさい。メロは難しいは、ギターはヘンテコリンだは。なんかそういう性格だったんっでしょうかね」と語っていたが、彼らしい愛が込められている。

 妻の方は9日、新宿ロフトで開催の「メレンゲ/スキマスイッチ」ライブ(新宿ロフトの歌舞伎町移転15周年記念企画)を聴いてきた(私はさすがに仕事で行けなかった)。大変な盛況で、メレンゲのクボケンジもMCでいろいろと語ってくれたそうだ。新宿ロフトの樋口寛子さんが、このライブに関連して、スキマスイッチの常田真太郎氏と大橋卓弥氏にインタビューした記事が『Rooftop』に載っている。(http://rooftop.cc/interview/140401145415.php  )

その後、新宿ロフトが定期的に開催していた“LIVE LINXS”というイベントに出演して頂いた時は、フジファブリックと共演しています。

常田:その時にフジファブリックの志村君と仲良くなったんです。キーボードが前任の方で、ドラムは志村の幼馴染みでしたよね。そこで結構話をして情報を共有したりしました。

 スキマスイッチの二人の記憶の中にも、若き志村正彦が強く刻まれているのだろう。
 常田氏が言及しているのは、キーボードが田所幸子、ドラムが親友の渡辺隆之の頃のフジファブリック、『アラカルト』を制作したフジファブリックだ。
 2001年9月に結成され、同級生バンドの頃の「富士ファブリック」から「フジファブリック」と名前を変えて、2002年10月、インディーズ時代の1stアルバム『アラカルト』をロフトプロジェクトのSong-CRUXレーベルから発表、その年の12月に解散した。

 私はこの時代のフジファブリックのライブ映像を見せていただいたことがある。音楽に統一感があり、演奏技術もある水準に達していた。
 志村正彦の作る歌詞が優れているのは言うまでもないが、歌い手としても日本語の歌詞を楽曲に乗せる「リズム感」と「疾走感」がとても良い。サウンドには「静かで透明感のあるファンキー」な感覚が込められている。田所幸子のオルガンにも伸びやかな独特の味わいがある。特に、『アラカルト』収録の『茜色の夕日』のオルガンは秀逸だ。(MV『茜色の夕日 インディーズver』 がYouTubeにあるので、未見の方はご覧になってください)志村正彦のあまりに若くて直接的に響く声と言葉から、彼が音楽家としての出発点で何を求めていたのかが、よく伝わってくる。

  前回、THE BOOMの解散について書いた。そのことに触発されて、バンドの解散の持つ意味についてこの1週間考え続けた。
 志村正彦を視点の中心に据えると、三つのフジファブリックが存在している。

 ・「同級生バンド」時代の「富士ファブリック」

 ・インディーズ時代の「フジファブリック」(Song-CRUX在籍時とその前の時代)

 ・メジャー時代の「フジファブリック」(EMI在籍時)

 彼にとっては、この三つの各々が重要な価値を持っている。「富士ファブリック」と「インディーズ・フジファブリック」は「解散」した。(メンバー交代したと言うよりも「解散」という表現の方が的確だと私は考える)。その後、プロフェッショナルなロックバンドとして、志村正彦自身がプロデュースしたのが、2004年4月14日に『桜の季節』でデビューしたフジファブリックだ。歌詞も楽曲も独創的で演奏技術も高度なロックバンドの誕生だ。そのこと自体は極めて高く評価されるべきであり、祝福されるべきだ。  だが反面、志村正彦が失ったものも確実にあることは記しておかねばならない。そのことを彼は何度か語っている。このことは稿を改めて、「志村正彦ライナーノーツ」に書いてみたい。

 最後にぜひ紹介したい言葉がある。今朝、「山梨日日新聞」に「フジファブ志村 再び」と題して、沢登雄太記者による13日の上映会についての記事が掲載されていた。6年前の都内での取材の際、志村正彦が「東京にいながら富士吉田を思って作った楽曲を故郷で披露できるのが楽しみだと、しきりに語っていた」という事実を伝えている。
 沢登記者は、あの『茜色の夕日』のシーンについて、「感情がそのまま旋律に乗った歌声は、人間的なロックサウンドを生み出した」と捉え、会場のホールはリニューアルされたが、「ただ、変わらないものもある。一人一人が受け止めた楽曲と、胸に刻まれた志村正彦-」と結んでいる。志村正彦を丁寧に取材し続けた記者としての深い想いが込められた言葉だ。

 明日、13日午後1時半から、「ふじさんホール」で「フジファブリック Live at 富士五湖文化センター 上映會」が行われる。沢登記者の言うように、あの場に集う「一人一人」がどのように、志村正彦在籍時のフジファブリックの音楽を受け止めるのだろうか、その胸に刻みのだろうか。

  oh ならば愛をこめて
  

     so 手紙をしたためよう      (『桜の季節』)

 富士吉田では桜も咲き始めた。
 私たち聴き手は一人一人、志村正彦への「手紙」を心の中に刻み込むだろう。

2014年4月6日日曜日

THE BOOM、解散。

 
   前回、ザ・ブームの宮沢和史について触れたが、その翌日3月31日に、THE BOOM
解散という発表があった。86年の結成から28年が経ち、89年のデビューからは25周年という節目の年に解散を決めたようだ。この知らせに驚くと共にある感慨を覚えた。

 以前書いたように、1989年、風土記の丘で開かれた山梨初ライブに出かけた。それから90年代中頃までは、毎年のように甲府の県民文化ホールで開かれたコンサートに通った。アルバムで言えば、1st『A PEACETIME BOOM』[1989年]、2nd『サイレンのおひさま』[1989年]から4th『思春期』[1992年]にかけての初期のものだ。どれも質の高い作品だったが、特に3rd『JAPANESKA』[1990年]は、「JAPAN+SKA」というネーミングとコンセプトが素晴らしく、歌詞もサウンドも独創的で、日本語のロックの歴史に残る傑作アルバムだった。

 曲で言うと、彼らの代表曲となった『星のラブレター』『釣りに行こう』『中央線』『からたち野道』等は、故郷山梨の風景とも絡まり合い、私たちにとって記憶に残る歌であり続けている。『虹が出たなら』『気球に乗って』『子供らに花束を』等の深い問いかけを持つ歌、『ないないないの国』『なし』等のナンセンスでユーモアのある歌。80年代後半から90年代前半にかけてのいわゆる「バンドブーム」の時代で、宮沢和史は、ユニコーンの奥田民生と双璧をなす、たぐいまれな才能だった。奥田と共に、日本語のロックの歌詞にそれまでにない広がりや豊かさを与えた。

  宮沢和史には『詞人から詩人へ』という、彼の好きな近現代詩を朗読して紹介するCD付きの書物もある。ロックのフィールドの中でも最も近現代詩を読み込み、歌詞を創作している「詞人」であり「詩人」であった。(彼の歌詞については、この《偶景web》でいつか丁寧に論じてみたい)
 

  公式サイトの「ファンの皆様へ」という文には、「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」というメンバーの言葉がある。
 宮沢・小林・山川という甲府で生まれ育った同級生に、千葉出身の栃木氏が加わって結成されたこのバンドは、「同級生バンド」の色彩が強い。めまぐるしい変転を続ける音楽業界の中で、中断期間はあったにせよ、一度もメンバー交代がなく、『島唄』の大ヒットを始めとして幾つものヒット曲を出し、ファンにも恵まれた彼らは、確かに「日本一幸せなロックバンド」だったろう。解散を宣言する文で、このような言葉を使えること自体とても幸福なことだ。

 宮沢和史そしてギター小林孝至、ベース山川浩正は50歳近くになり、ドラム栃木孝夫は50歳を超えている。宮沢・小林・山川氏と同郷で、栃木氏と同世代の人間として、本当にご苦労さまでしたと心から述べたい。宮沢氏は頸椎症の療養中のようだ。何よりも健康を大切にしてほしい。(私の今の職場には、甲府南高校時代の宮沢和史の同級生が二人もいる。「MIYA」は高校生の頃から「男気」のあるやつだったらしい。甲府は小さい街なので、こういうことが割とある)

 最後に、公式サイトの「MOOBMENT CLUB スタッフ一同」の言葉もとても感動的なので紹介したい。

 THE BOOMというバンド名は、彼らの歌や音楽が一時のブームで終わらないように、という思いを込めて逆説的に名付けられたものです。「星のラブレター」の歌詞に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても/昨日聴かせた僕の歌/町中に流れてる」と記されているように、願わくは、彼らの歌たちが、たとえ詠み人知らずとなっても、いつまでも皆さんに愛していただき、 歌い継がれていきますように…。

 実は前回、偶然ではあるが、同じ箇所を引用して考えた際に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても」という言葉にある種の感銘を受けていたことを記しておきたい。
 二十五年前、この歌を初めて聴いたときにはこの言葉はそんなに印象に残らなかった。むしろ常套句のように感じていた。しかし、時の重みが歌の解釈を変えることがある。それは作者の意図を超えることもある。『星のラブレター』には、文字通りの「年」や「命」、そして「時」への想いが貫かれている。歌い手も聴き手も、年を重ねることで、歌の本来の意味があらわになってくる。

 何十年、何百年と時が経っても、「詠み人知らず」となっても、歌い継がれていくこと。それがすべての歌にとっての究極の願いだろう。 

2014年3月30日日曜日

「愛をこめて」、「遠くの町に」。 [志村正彦LN 76]

 今朝、ぴあのHPで『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを確認したところ、「予定枚数終了」の表示が出ていた。開催2週間前にソールドアウトできたようで、ほんとうに良かった。
 甲府の桜も一昨日、平年より一日遅く開花した。ほぼ例年通りだ。13日には「いつもの丘」の桜も美しく咲いているだろう。当日の天気が良いことを祈ります。

 残念ながら、山梨の新聞・テレビ・ネットの様々な「チケット情報」サービスでは全く告知されていなかったので、富士吉田在住の方や一部の県内ファンを除いて、地元の観客は少ないと思われる。県外の方が多数になるだろう。少し寂しいが、もともと地元対象のイベントではないので、いちおう納得はできる。
 生演奏ではない、特別な催しがあるわけでもない、あえて言うなら、単なるDVDの上映会(「単なるDVD」でないことは繰り返し書いたが)に、800人の観客が交通費や宿泊費を使って富士吉田に来る。「桜の季節」に、「愛をこめて」、「遠くの町に」来る。志村正彦の故郷への旅。やはり希有なことで、志村正彦在籍時のフジファブリックに対する持続的な深い関心と強い支持があってのことだ。

 前回、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの山梨発ライブについて書いた。特にザ・ブームの宮沢和史については世代的に近いこともあり、それなりの思い入れがある。
 実は、宮沢和史の生まれ育った場所と私の場所とはほぼ重なる。初期の名曲『星のラブレター』の歌詞を引用する。

  朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
  僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた

 
  年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
  昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる


 私は小学生の頃まで「朝日通り」とその商店街の近くに住んでいたので、とても懐かしい所だ。甲府の中心からは少し離れてはいたが、「朝日シネマ」という映画館もあり、子供の頃通ったりしていた。宮沢和史が最初にギターを買ったという楽器店もあった。住宅街の中の商店街なので、華やかさはなく地味だったが、それなりの賑わいと身近な親しみがあった。今はさびれてしまったが、最近、若者たちが新たに店を構えるようになったのはたのもしい。「昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる」という歌詞の一節のような街の風景を取り戻してほしい。

 宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅のすぐ北西側に位置する商店街の街並みは、志村正彦にとっての「下吉田」やかつてそこにあった商店街に相当するのではないだろうか。昭和30年代、40年代頃まではまだ、「朝日通り」界隈には「路地裏」があった。郊外へと発展していった都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として、「路地」や「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年、昭和55年に富士吉田で生まれた志村正彦は、昭和の名残のある「路地」や「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。

 宮沢和史の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」や『釣りに行こう』の甲府の荒川の源流など、山梨、甲府盆地の中にある。路地裏のような場と自然豊かな場の二つがある。彼は、その場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。
 志村正彦の場合、下吉田、「いつもの丘」、そして富士山の景観というように、やはり、路地裏のような場と自然豊かな場の双方がある。

 山梨に住む者にとって、街中の路地裏のような狭い場所から視点を少しずらして遠くを眺めると、向こう側に高峰の山々や雄大な自然が見えるという経験が日常的にある。もちろん、どこにでもこのようなことはあるのだが、山梨の場合、そのギャップが甚だしい。風景がワープするような感じ、とでも言えばいいのだろうか。私たちはもちろん「愛をこめて」その風景を眺めているのだが。
 この独特の風景の構成が、宮沢和史や志村正彦の歌詞の世界を根底から支えている。


2014年3月27日木曜日

三つのバンドの山梨初ライブ [志村正彦LN 75]

 フジファブリック『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットは、26日夜の時点ではまだ、チケットぴあのHPで購入できる。前回予想したとおり、先行予約分のキャンセルが出たようだ。御存じでない方、チケットを入手できなかった人のために、まずその情報を伝えさせていただきます。

 LN74で「春の名曲」ランキングに関連して、山梨が誇る「三大ロックバンド」ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックのことに少し触れた。
 今回は、この三つのバンドがいつ山梨で初ライブをしているのか、メジャーデビュー後どのくらいを経っていたのかという点について書いてみたい。

 ザ・ブームは、1989年(11月下旬だった気がするが、もう25年前のことになるのではっきりとは思い出せない。間違えていたらすみません)、甲府盆地の南にある「風土記の丘」曽根丘陵公園の野外ステージで山梨初ライブを行った。この年の5月にメジャーデビューしているので、およそ半年後のことで、プロモーションとしてのライブだったと思われる。

 その頃の私の職場の同僚がザ・ブームのメンバーと高校の同級生で友達だった縁があり、私もその場に駆けつけることとなった。宮沢和史の言葉と楽曲も、バンドとしての演奏も素晴らしかったが、客は数十人ほどだった。山梨でもまだほとんど知られていない頃で、おそらくメンバーの知人や関係者だけが集まったのだろう。
 その後、ザ・ブームは順調に優れたアルバムを出し、『島唄』で大ブレイクしたのだが、私にとってのザ・ブームは、数十人を前に、熱く歌い奏でた1989年のライブの印象が強い。

 レミオロメンは、彼らのバイオグラフィーによると、2004年2月6日、山日YBSホール、「SPECIAL LIVE“朝顔”in 山梨」。ネットの情報によれば、このライブは応募制で350人ほどが来場したようだ。2003年8月にメジャーデビューしていて、およそ半年後なので、これもプロモーションのための限定ライブだろう。

 フジファブリックの初ライブは、言うまでもなく、2008年5月31日、富士五湖文化センター、「TEENAGER FANCLUB TOUR」。メジャーデビュー後、4年が経っている。志村正彦が語っていたように、「内輪」向けのライブやデビュー・プロモーションのためのライブではなく、「普通」のライブ、フジファブリックのファンが集う「通常」のライブを富士吉田で実現するために、これだけの年月を必要としたのだろう。志村正彦のストイックな姿勢がうかがわれる。
 故郷をあれだけ愛していながらも、故郷に甘えることなく、信念を貫いて音楽を続けていた。

  ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの音楽。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の言葉の世界については、彼らの故郷の風景への関わり方の違いという視点をまじえて、稿を改めて論じたいと考えている。

 志村正彦が富士五湖文化センターライブにかけた想いの深さは、すでに映像となっているいくつかの歌と演奏、MCによってその一端を知ることができるが、私のようなあの日会場にいなかった者たちにとっては、今度のDVDや上映會によって、初めてその全貌が明らかとなる。   (この項続く)

2014年3月23日日曜日

「春の名曲」のオルタナティヴ [志村正彦LN 74]

 4月13日『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを購入することができた。このためにSMAのモバイル会員となって先行予約をしたのが功を奏したようだ。と言うのも、どうやら、PIAの先行予約や一般発売ではほとんど入手できなかったようなのだ。これは複数の知人からの話だ。おそらくSMA会員の先行予約で予定枚数に達してしまったのだろう。あのホールの客席は800ほどで、絶対数が少ないことが原因だが、PIAの先行予約や一般発売で購入しようとした人にとっては残念な結果となってしまった。この上映會の意味合いからして、希望の方は全員入場できることが理想なのだが、準備の問題もあり、色々な制約があったのかもしれない。それでも、先行予約分のキャンセルが出る可能性もあるので、主催者にはそのあたりの情報を迅速に出していただきたい。

 4月13日の上映會まで、あと3週間。満員になることは間違いないようだ。志村正彦に対する根強い人気が確かめられて、率直にうれしい。集う人は、様々な想いを抱えて、上映會までの日々を過ごし、当日を迎える。年度末の忙しい時期だが、その日々がなんだか愛おしく、そして切ない。吉田の桜の開花がいつになるのか、そのこともしきりに気になる。

 一昨日、テレビ朝日『ミュージックステーション』の「春の3時間SP」番組で、「卒業,桜…1万人が選んだ春の名曲ランキング」が特集されていた。たまたま番組欄を見て、ユニコーンとあったのであわてて録画しておいた。あの『すばらしい日々』が50位に位置していた。この歌が「春」の曲なのか、という疑問は残るが、「別離」の歌ではあるので、「春」を想起させるものとしてランキングに入ったのだろう。「名曲」だということには誰も異論があるまい。多くの人と同様に私にとっても、『すばらしい日々』は奥田民生・ユニコーンの最高傑作だ。思いがけないことに、なんと、生演奏もあり、大収穫だった。

 この特番は、10代から60代の男女1万人対象のアンケートで選ばれた昭和・平成の春の名曲ランキング60曲を順に紹介していったが、特に上位の曲は予想通りというか、有名な定番ソングばかりが並んだ。意外だったのは、14位『3月9日』、39位『Sakura』と、ランキングの全60曲中、2曲もレミオロメンが選ばれていたことだ。

 山梨が誇る「三大ロックバンド」(古くさい言い回しだが、現実にそうなのでこの言葉にする)は、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックだ。フジファブリック・志村正彦は言うまでもないが、ザ・ブームとレミオロメンも、「山梨」という限定抜きで、広く「日本語のロック」の歴史の中で重要な位置を占める音楽家であることは間違いない。仮に、この三つのバンドが山梨出身でなかった(ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは「ALL山梨」だ。中学や高校の友人や仲間が結成したことも共通している)、私はその歌詞とサウンドから、この三つのバンドをかなり好きになったと断言できる。現実は山梨出身なのだから、故郷を同じくする者の音楽として、強く支持するようになった。だから、レミオロメンの作品が春の名曲60曲中2曲も入ったことは快挙で、素直に喜びたい。

 それでも、このリストを見るとどうしても、フジファブリックの『桜の季節』は絶対に入るはずはない、という想いにとらわれてしまう。レミオロメンが少しだけ羨ましくなる。最近のロックを愛する若者の間では「名曲」という評価もあるのだろうが、いわゆるヒット曲ではないので、リストに入る可能性はほとんどないが、志村正彦の構築した歌詞の世界が「春の名曲」「卒業・桜の名曲」とは相容れないことが本質としてある。

  フジファブリックは「オルタナティヴ・ロック」に分類されているようだが、『桜の季節』は、その語の本来的な意味の上で、「オルタナティヴ」な価値、「もう一つの、代わりの」というような「相対的な差異」ではなく、ある種の「絶対的な差異」を持つ、「春」の歌、「桜」の歌であり「別離」の歌でもある。これからも、そうあり続けるだろう。

 この歌はひそかに、しかし確実に、これからも聴き続けられるだろう。この歌に魅せられた人にとっては、春の到来、桜の訪れとともに、この歌を想いだし、この歌を反復するだろう。
 「桜が枯れた頃」の風景からのまなざし、志村正彦のまなざしを心の中に刻み込むだろう。   (この項続く)

2014年3月16日日曜日

「桜が枯れた頃」 -CD『フジファブリック』6 [志村正彦LN73]

 甲府盆地はここ数日でようやく春めいてきた。今後の気温上昇が予測され、桜の開花は例年並みとなるようだ。例年、甲府は3月末か4月初め、富士吉田は4月中旬頃なので、4月13日、『Live at 富士五湖文化センター 上映會』の頃には桜が咲き始めているだろう。

 本題に入る前に少しだけ余話を。昨日は、ヴァンフォーレ甲府の応援に小瀬のスタジアムまで出かけた。甲府サポの私にとっては、毎年、Jリーグの開幕が春の訪れを告げるものとなる。今回の開幕は、あの記録的大雪の影響で、1日の鹿島戦の会場が小瀬から東京の国立に移された。Jリーグ史上初の出来事だった。だから昨日がほんとうのホーム開幕戦となる。対戦相手は新潟。甲府サポーターが、あの大雪の際に「最強の除雪隊」を派遣してくれた新潟県への感謝を表す。山梨と新潟のエールの交換だ。
 クラブチームのサッカーは、様々な国籍、民族、人種の選手が共に力を合わせる場だ。「拝外主義」の対極にあるもので、それが魅力となっている。山梨の地でブラジルやインドネシアの選手がピッチに立つ。このような閉塞した時代では、そのこと自体にとても意味があるのだ。試合の結果は1対1の引き分け。勝機も充分にあったので残念だが、勝ち点1を得たことを喜ぼう。勝ち点1には「分かち合い」という美学と思想がある。

 『桜の季節』が、『桜並木、二つの傘』というもう一つの桜の歌と共に発表されたのは、2004年4月14日のことだ。十年経つが、この歌の独創性は色あせることがない。最近、ユニバーサル ミュージックから『SAKURA SONG ALBUM』がリリースされた。このアルバムは2000年以降の桜の名ラヴ・ソングが主に集められ、『桜の季節』も収録された。この盤はまだ未聴だが、おそらく、『桜の季節』は他の「桜ソング」とは際立つ差異を持っているだろう。志村正彦も定型的な歌にしないためにかなり力を入れて創作したに違いない。「桜ソング」という美しい歌の並木の中で、『桜の季節』は慎ましく、気高く、その姿を現している。屹立した一本桜。志村正彦にふさわしい絵図だ。

 この孤高の桜ソング『桜の季節』を1曲目にしたため、メジャーデビューCD『フジファブリック』はリリースされた。歌詞は次の四つのブロックから成り、第1と第2のブロックが繰りかえされる。

  桜の季節過ぎたら
 遠くの町に行くのかい?
 桜のように舞い散って
 しまうのならばやるせない

 oh ならば愛をこめて
 so 手紙をしたためよう
 作り話に花を咲かせ
 僕は読み返しては 感動している!

 oh その町に くりだしてみるのもいい
 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 坂の下 手を振り 別れを告げる
 車は消えて行く
 そして追いかけていく
 諦め立ち尽くす
 心に決めたよ

 第1ブロックの言葉を、歌の主体「僕」の発話だと捉えてみると、歌の主体は、「桜の季節」が「過ぎたら」という時間を設定している。桜が花を咲かせる時ではない。桜の花が散る時でもない。桜の季節自体が過ぎてしまうという時の設定は、普通の桜の歌にはありえない。時間の捉え方が独創的だ。「桜の季節」「過ぎたら」、その未来に設定された時間の中で、主体は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、歌の主体「僕」は「やるせない」とも感じる。この感情は、「桜のように舞い散って」「しまうのならば」という未来の時間においてのある仮定を先取りする形で、歌の主体に訪れる。

 第3ブロックに入ると、歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」に「くりだしてみるのもいい」という、やはり未来の時間が仮定されているが、それは「桜が枯れた頃」という季節だ。この楽曲で最終的に歌われているのは、「桜が枯れた頃」、その季節の風景だ。その解釈は難しい。桜の「冬枯れ」の季節なのか、桜の樹そのものの「枯死」を迎える季節なのか。どちらにしろ、「桜が枯れた頃」の情景には、桜の「死」が濃厚に漂う。おそらく、「桜が枯れた頃」に「その町」に「くりだしてみる」のは不可能なのだ。すべては遅すぎる。歌の主体は「その町」にたどりつくことはできない。歌の主体は「その町」に住む他者と再び会うことはない。

 志村正彦の凄いところ、おそろしいほど深いところは、常にすでに、この「桜が枯れた頃」と指し示されるような時間からの視点、未来の無あるいは不在、究極的には死という視点から、歌が創造されていることにある。だからこそ、彼の歌には深い哀しみと儚さ、美しさと余白のように語られる愛の感触がある。

 商業音楽という制約が大きい場でそれを成し遂げたの希有なことだが、そのことの意味と価値はまだまだ理解されていない。彼の友人の音楽家、熱心な聴き手には共有されていても、いわゆる「音楽業界」の人、メディアやライターたちの中でほんとうに理解している人は少ない。紋切り型の業界用語やライター用語で語っているだけだ。ここ2年の間、集中的に様々な書籍、雑誌、webを見てきたが、一部の例外を除いて、志村正彦在籍時のフジファブリックの試みが正当に評価されているとは言い難い。70年代以降のロック音楽批評の衰退というか退廃については、別の機会でじっくりと論じたい。

 さらに書くならば、日本語のロックという枠組を超えて、近代詩・現代詩を含めた、日本語の歌、詩的表現の歴史の中で、志村正彦の作品は評価されるべきだと考えている。
 昨年の春、3月に始まった「志村正彦LN」も一年が経過し、今回が73回目となる。およそ5日に1回のペースで、初志は貫徹できていると思う。50,000ビューを超えることもでき、拙文を読んでいただいている方々には深く感謝を申し上げます。
 志村正彦の正当で正確な評価を求めて、書かねばならないことは沢山あり、様々なテーマを同時進行で準備中だが、一つひとつ丁寧に時間をかけてまとめ、掲載していきたい。

   (この項続く)

2014年3月9日日曜日

「僕ひとりから、誰かひとりに」 クボケンジ

 クボケンジは『言葉と魔法 クボケンジ詩集』(2011年4月30日、テンカラット刊 企画・編集江森丈晃)所収の 「クボケンジ インタビュー」で、自分の歌が誰から誰に向けられたものであるのかということについて、次のように述べている。

 どうしても僕ひとりから、誰かひとりに向けられたものになってしまうんです。

 確かに、「詞論5」の最後でも触れたように、初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」という「ひとり」が、「君」「あなた」という「ひとり」に向けて語りかけるのが、クボケンジの歌詞の物語の枠組みとなっていることが多い。このような歌の枠組みは普遍的にあるが、クボの場合、その必然の度合いが他とは異なる。『ソト』の該当箇所をもう一度引用してみよう。

 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?


 歌の主体「俺」という「ひとり」が、どこかに隠れている対象である、「彼」か「君」か自分自身か、誰であろうとも、「もうひとり」に向けて、「出て来い俺の前に」と話しかけている。
 この『ソト』は、2002年リリースの『ギンガ』収録曲だから、クボの最も初期の歌だ。初期だからというわけでもないが、ここに登場する「俺」自身も「彼」も「君」も、具体的な人物像を欠いたきわめて抽象的な人物という気がする。全体が影絵のような世界のように感じとれると言っていいだろうか。この点について、クボは興味深いことを『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、星新一のSF小説からの影響についてこう述べている。

 彼の作品は、状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて、そこがすごく好みなんですよ。自分の歌詞でも、それほど人の顔は浮かんでこないし。すごく影響を受けていると思いますね。

 人物の具体性を省いた造形は意識的な選択であるらしい。だからクボの歌詞の場合、聴き手が人物像を想像して補填することになる。物語の展開についても、欠落や飛躍があり、様々な解釈が生まれる余白をあえて設けている。
 クボは、解釈は聴き手の自由であり、「音楽としては"どう聴かれても伝わるものになっているかどうか"というのが重要なんです」と確信をこめて語っている。自己表現としての歌ではなく、聴き手に「伝える」ことを重視した歌、聴き手中心の歌という点で、志村正彦の考え方とかなり重なる。クボと志村が親友であったのは、人間としての交流の次元だけでなく、歌詞の創作についての姿勢に根本的な共通項があったからではないだろうか。

 2月14日の渋公ライブでも歌われた『ビスケット』は、2012年発売の『ミュージックシーン』収録曲だから、『ソト』からは10年以上の時が経っている。
 『ソト』は「出かけようぜ」、『ビスケット』は「もっと 遠くまで」とあり、何かの旅立ちが歌の枠組みにモチーフになっていることは共通している。しかし、歌詞のモチーフそのものは異なる。この二つの歌は強引に接ぎ木する必要はないが、対象に対する歌の主体の関わり方にはある種の共通性がある。
  『ソト』には、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に」とあるように、どこかに隠れている、今は見失われた対象が歌詞の背景にあり、『ビスケット』には、「あふれそうな I miss you」とあるように、失われた「you」の存在が歌の中心にある。歌詞の一節を引きたい。

 もういいや もういいや 君の夢でも みよう
 楽しい事 楽しい事
 肝心な時はやはり 出てきてもくれないか


 歌の主体は、「君の夢」を見ようと考える。しかし、「肝心な時」は「君」は「出てきてもくれない」。夢にも現れてこない。この「君」が誰であるのかは、歌詞の言葉からたどることはできない。先ほどの引用で「状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて」と同様の世界が広がっている。歌詞の内部の次元では、「君」の像を限定することはできない。しかし、歌詞の外部、現実の次元、現実にクボケンジ自身が経験した出来事の次元にまで広げていけば、この「君」の像の中心に志村正彦が位置していることは間違いない。(すでに「LN30」で、「無意識の次元まで考えていけば、クボケンジの『ビスケット』の一連の言葉の流れから、志村正彦との関係の痕跡が浮かび上がってくるような気がしてならない」と書いたが、今回、クボの全作品をたどり直してみると、その感がさらに強まる)

 「僕ひとりから、誰かひとりに」というクボの自己注釈の「誰かひとり」は、失われている対象であることが多い。このモチーフは、クボの歌詞の変わらない部分を代表している。しかし、『ソト』に比べて、『ビスケット』では、「ひとり」の誰かが失われ、そのことによって、歌の主体が損なわれてしまった感覚がより強い。これは作者クボケンジの現実の変化に起因している。
 『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、質問者(江森丈晃氏だと思われるが、明記されてはいない)の問いかけに対して、次のように応えている。

-これはとても訊きづらいことなのですが、ここまでの変化というのは、志村(正彦/フジファブリック)さんが亡くなられたことと関係していますか?

 ……関係しているというか、それがすべてなような気がします。……あれ以来、何もかもが変わってしまったようなところがあるんですよ。(略)……あの日を境に、空気が変わってしまったんです……。それに伴って、人生観も変わったというか、達観したような感覚があるんですね。……でもその感情を"悲しい"とか"寂しい"という言葉を使って歌うのはナシだと思ったから、歌詞だけ追ったのでは、誰もわからないようなものにはなっていると思います。前面に出しては歌いたくないんで。

 志村正彦の死という現実の出来事によって、「何もかもが変わってしまったようなところがある」が、志村正彦はクボにとっての「誰かひとり」という場に存在し続けることになった。志村の死は、彼の御家族や「大親友」クボにとっては、受け入れがたい現実であり、受け入れる必要はないとも考えられる(私たちのような単なる聴き手が言及できる事柄ではない)。
 受け入れがたい現実であるが、避けることのできない現実、不可避の現実でもある。
 この不可避の現実に向きあい、それでも、歌を紡ぎ出していくことは、形容しようもないほどに、辛くて難しい歩みとなる。しかし、『アポリア』以降、クボケンジ、メレンゲは、その困難な道を歩んでいる。
 もちろん、クボケンジ、メレンゲの聴き手は、志村正彦の死という現実を意識しても、意識していなくても、クボの言葉が伝えようとする「誰かひとり」を自由に解釈できる。そのような自由を保つためにも、クボケンジは、時間をかけて、あるいは時間と闘いながら、作品を創造し続けている。

 2月14日のクボケンジは、洒落た柄のリボンが付いた茶色のハットを被っていた。彼には茶色の帽子が似合う。その姿を見て、数日前に視聴した、フジファブリックの渋公ライブ映像(4月発売の「Live at 渋谷公会堂」DVD」[2006年12月25日収録]のMUSIC ON! TV 放送版)の志村正彦の帽子姿を想い出した。
 志村正彦が帽子(スタッフから借りたものらしい)を被ってステージに立ったのはこの時が初めてだったそうだ。茶色がかったグレー色に見える帽子だった。彼が持っていた十数の帽子の中では、中原中也の被った山高帽に似た黒い帽子が印象深いが、茶色の洒落たハットも、やわらかいあたたかい感覚があって、よく似合っている。

 クボケンジと志村正彦、2014年2月14日と2006年12月25日、渋谷公会堂で歌う二人の帽子姿。その像を頭に浮かべながら、3回続いたこの「詞論」、メレンゲ渋公ライブについてのエッセイを閉じることにしたい。

2014年3月2日日曜日

『Live at 富士五湖文化センター 上映會』 [志村正彦 LN72]

 4月13日(日)、富士吉田の「ふじさんホール」で、デビュー10周年記念『Live at 富士五湖文化センター 上映會』が特別開催されることが一昨日伝えられた。フジファブリックの公式WEBSITEによると、『FAB BOX Ⅱ』(4月16日発売、EMI Records Japan[ユニバーサルミュージック])リリース前の先行上映となる。

 翌日の14日(メジャデビュー10周年の記念日)には、『FAB MOVIE -劇場版-』という名の上映イベントが渋谷・横浜・浦和・名古屋・大阪の5会場の映画館で行われる。こちらの方は、『FAB BOX Ⅱ』の志村正彦在籍時のフジファブリックの映像と、『FAB LIVE Ⅱ』(5月21日発売、4月1日にSMEのレーベル8社は再編され、「ソニー・ミュージックレーベルズ」に統合される予定なので、このレーベルからのリリースになるのだろうが、現時点では不明だ)の現フジファブリックの映像をまとめた特別版らしい。

 4月13日富士吉田、14日渋谷・横浜・浦和・名古屋・大阪と、会場形式のビデオコンサートで「デビュー10周年」を祝福して、16日の『FAB BOXⅡ』発売を迎えることになる。ビデオコンサートの方は、4日から、"SMA☆アーティスト"会員限定でチケット先行予約の受付が始まるので、一連のイベントの企画・運営はSMAソニー・ミュージックアーティスツになるのだろう。

 今回のBOX版のリリースは、

 志村正彦在籍フジファブリック   『FAB BOX (Ⅰ)/Ⅱ』  EMI[ユニバーサル]

 現フジファブリック                        『FAB LIVE (Ⅰ)/Ⅱ』   ソニー・ミュージック

 というように、以前のものも含め、きれいに棲み分けされたことはファンとしては有り難いのではないか。志村正彦在籍時のフジファブリックのファン、現フジファブリックのファン、その二つを通してのファン、という三つの立場というか好みのようなものが現実にある。これは議論の余地がない「現実」だ。だからこそ、それぞれのファンのあり方が尊重されるべきだというのが私の考えだ。好みは自由であり、時と共に変化することもあるからだ。
 そして、レコード会社や音楽事務所は、志村在籍フジファブリックの音源や映像も、現フジファブリックの音源や映像も、需要のある限りは、誠実に制作し発売すべきだ。「私」企業ではあるが、音楽文化と芸術を支える「公」的立場もあるからだ。
 (私自身は、この「志村正彦LN」の内容からも自明なように、志村正彦の作詞作曲した歌と楽曲の世界に深い愛着と関心があり、それゆえに、志村正彦在籍時のフジファブリックを中心に聴いている)

 今回発売の『Live at 富士五湖文化センター』はDVDなのでいわゆる標準画質だ。2008年の収録なので、録画そのものはHD画質(ハイビジョン)で行われていると推測されるので、HD画質で編集完成させたヴァージョンがあり、それをダウンコンバートしてDVD版が製作されるのであればいいのだが。「ふじさんホール」は800席ほどのキャパシティで、「中ホール」位の規模があり、スクリーンもそれなりの大きさが必要となる。プロジェクターで投影する場合、上映素材の画質がとても重要になる。音響についても、当日の音量や音質を再現できるレベルの機材が必要となる。(私は博物館に勤めていた頃に、展示映像や記録映画の制作やホールでの上映会を担当していたので、このような問題が気になる)
 フジファブリックの公式WEBSITEには、「6年前に行われた実際のステージと同じ空間を共有しながら、ライブの空気感までも実感出来る、またとない貴重な時間をお楽しみください」と記されているので、映像や音響の機材や設備には大いに期待していいのだろう。

 『Live at 富士五湖文化センター 上映會』という文字を改めて見ると、「会」ではなく「會」の字が使われていることに気づく。現在の用字法では「上映會」の「會」は普通使われない。あえてこの字をあてはめたのは、2010年1月21日、中野サンプラザで営まれた志村正彦とのお別れ会『志村會』の「會」の字を受け継いでいるからだろうか。14日の全国5会場上映は「上映イベント」と名付けられているので、意識的に「會」を使用しているのは間違いない。もっとも、デビュー7周年記念日にあたる2001年4月14日に渋谷と大阪で開催された『フジフジ富士Q 完全版上映會』でも「會」が使われているので、今回が初めてではないが。「会」ではなく「會」なのは、追悼という意味を込めての用字法なのだろうか。
 

 しかし、一連のイベントを頭の中で整理できても、心の中の整理ができない方も多いのではないだろうか。
 特に、リアルタイムで彼に出会い、彼の音楽と人生を聴き手として共有していた方々にとっては、4月13日の富士吉田での上映會をどのように受けとめていいのか、複雑な心境の方が少なくないのかもしれない。
 このような機会が訪れたことへの喜びや感謝の反面、志村正彦の永遠の不在という現実を再び確認せざるをえないという哀しみと喪失感が交錯するような心情が察せられる。

 富士吉田の上映會に行くことを決めた人も、仕事や色々な都合で行けない人も、あえて行かないことを選択した人も、それぞれの想いで、この『Live at 富士五湖文化センター 上映會』という出来事を受けとめればよいと考える。
 私自身はチケットを入手できればぜひ出かけたいと考えている(チケットが手に入るかどうかが不安だが)。彼の音楽が再び「報われる時」を、あの場で同じ想いの人々と一緒に経験したいからだ。そして、その日の出来事について「志村正彦LN」にしっかりと書きとめておきたい。

 昨年は4月中旬、一昨年は4月下旬に富士吉田を訪れた。昨年は桜の開花が早く、4月中頃には市内の桜はほぼ散ってしまっていた。一昨年は逆にかなり遅く、下旬でもまだかなり咲いていた。数日前に発表された山梨の「さくら開花予想」によると、大雪等の影響もあり、昨年よりは開花が遅くなるようだ。そうであれば、4月13日頃には、富士吉田の桜は美しく咲いているのではないだろうか。
 桜の季節が過ぎてしまってもいいのかもしれないが、やはり、桜の花と春を迎えた富士山を背景に、志村正彦「一世一代」のライブの上映會が開催されることを願いたい。

2014年2月27日木曜日

クボケンジ 『ソト』

 前回触れたように、渋谷公会堂ライブのMCで、クボケンジは、『星の出来事』までは故郷の兵庫、それ以降は東京が舞台となり、歌詞の世界が創られているという意味のことを語っていた。
 その変化はもちろん、兵庫から東京に上京したという現実の出来事に起因しているが、物理的な場所の移動だけでなく、青年の成熟という時間的な要因も関わっている。
 クボケンジの世界には変化するモチーフと変化していないのモチーフの二つがあると前回書いたが、この問題を今回は追跡していきたい。

 デビュー作『ギンガ』に、『ソト』というカタカナ表記の曲がある。クボの繊細な感受性と巧みな作詞と楽曲の技術が結実した作品だ。渋公ライブを前にして、初期から現在まで通してCDを聴く中で、印象深い曲の一つだった。この原稿を準備するにあたり、ネットで調べると、2009年9月27日、SHIBUYA-AXで開催のメレンゲ5th Anniversary ワンマンライブで、ゲストの志村正彦が『ソト』を歌ったことを知った。彼の亡くなる3ヶ月ほど前のことで、おそらく、彼が歌った最後の他者の作品が、クボケンジ作の『ソト』になるだろう。『ソト』を選択したのが志村の意志かクボの提案かは分からないが、この事実を知ってからますます、この『ソト』という作品に惹かれるようになった。
 『ソト』は歌詞検索サイトにもほとんど掲載されていないので、参考までに詞全体を歌詞カードから引用する。

  『ソト』

 ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた
 ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう


 彼は話に夢中だ デタラメに船をこいでる
 オレはもう出かけたいな 窓を閉める
 出かけようぜ


 行こう! 恥ずかしい外へ 沈む太陽 追いかけるのさ
 揺れるブランコの音が 夢を連れて 逃げたりしない様に


 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?

 
 白い君の手を ふと 思い出すけど
 息も忘れるほどに僕を乗せて生活はまわる


 でもギターはもうほら嘘のなる木 食べれやしないよ? 
  行こう! 懐かしい外へ 上がる体温 復活のとき
 期待を背負って外へ・・・・外へ・・・


 『ソト』を一読しても、歌詞の言葉から背後にある物語がなかなか読み読みとれない。構成された物語よりも、断片的な《光景》と、冒頭に「ようやく 暖かくなって 僕らは汗を掻いた/ああ 焦げ臭い子供達の靴を隠そう」とあるように、気温、汗、臭い、という《感覚》が聴き手に迫ってくる。 「子供達」という語から、幼少年期の記憶を引きずっているようにも感じられる。(MCの言葉からすると、この歌の舞台は兵庫になる。そうすると、もしかしたら、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶が入り込んでいるのかもしれない。あの当時、クボは高校生だったようだ)

 歌の主体は「オレはもう出かけたいな 窓を閉める/出かけようぜ」と呟く。最後は「期待を背負って外へ・・・・外へ・・・」で締めくくられる。題名「ソト」も示しているように、歌の主体「オレ」の「ソト」への出航が物語のモチーフの中心であることだけは確かなようだ。

 『ソト』は歌われることを前提とした作品ではあるが、歌詞の言葉を追っていくと、《書かれた詩》としのて性格が濃いように思われる(そもそも、「ソト」「外」、「オレ」「俺」という表記の二重性は、書かれて読まれることを前提としている)。言葉の凝縮の度合いが強く、抽象性も高い。これはこれで優れた達成なのだが、歌われる歌という面では内容的に難しい、物語がたどりにくいという属性も帯びてしまう。『ギンガ』収録曲にはその傾向が強いが、その後はゆるやかに変化している。

 クボケンジは、記憶や風景を解体し再構築する術を身につけている。『ソト』の物語の余白を埋めるように、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に/悲しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」という不思議な一節が歌われる。

 「どこに隠れているだい」と言われる対象、「出て来い俺の前に」と呼びかけられる対象は、いったい誰なのか。歌詞の世界には、冒頭に「僕らは汗を掻いた」の「僕ら」、「彼は話に夢中だ」の「彼」、「オレはもう出かけたいな」の「オレ」である歌の主体(後には「俺」とも表記されるので「俺」に統一する。付言すると、一人称複数が「僕ら」であるのに、単数が「オレ」「俺」であることも謎だ)、「白い君の手を」の「君」が登場する。人称代名詞で指し示されるだけで、各々の個性は分からない。「彼」の方は少年、「君」の方は少女だという気がするが、この「彼」と「君」が同一人物の可能性もある。その場合は少年になるだろう。どちらにしろ、「隠れている」対象は「彼」か「君」と考える解釈があり得る。(先ほど、1995年1月の阪神・淡路大震災の記憶を指摘したが、その場合、この「彼」や「君」という他者はすでに失われた、不在の対象という可能性もある)

 もう一つ、「隠れている」対象が自分自身であるという解釈もできる。歌の主体「俺」が隠れてしまっているもう一人の「俺」(それは現在のことなのか過去のことなのか分からないが)に「出て来い俺の前に」と語りかけている。この場合、「俺」と「俺の分身」とが対話している光景になる。この「ソト」という歌詞のモチーフと重ねるなら、「ソト」ならぬ「ウチ」に隠れている「俺」に対して、「ソト」に出ていこうとする「俺」が呼びかけている。反転して、「ウチ」にいる「俺」が「ソト」に行こうとする「俺」に話しかけているとも考えられる。

 あるいは、「恥ずかしい外」「懐かしい外」が「隠れている」対象だとすることも可能かもしれない。そのような隠れている「外」へ呼びかけ、「外」に出ようとする「俺」の存在を誇示するかのように。
 また、「哀しみのトンネルは あとどれくらい/くぐればあえる?」の解釈は難しいが、「哀しみのトンネル」をくぐることが、「隠れている」対象と歌の主体「俺」とが再び「あえる」ためには不可欠なのだろう。

 初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」と「君」「あなた」との対話、その変奏としての歌の主体と分身との対話は、クボケンジの歌詞の枠組みを形作ることが多い。枠組みに留まらず、この対話そのものが初期から現在まで続く、クボケンジの変わらない主題でもある。   (この項続く)