公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2013年3月24日日曜日

《作者》《話者》《人物》としての「僕」 (「志村正彦LN 7」)

  「志村正彦ライナーノーツ」のLN4から6にかけて、志村正彦の歌についての予備的考察や方法論の説明を重ねてきた。理屈が先行しているようで心苦しいのだが、この試みの最後に歌の語りの問題に言及したい。LN2ですでに次のように書いた。

 「若者のすべて」の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られる

 「語りの枠組み」と書いてあるが、この言葉はあまりなじみがないかもしれない。いわゆるストーリーの「5W1H」、「When(いつ) Where(どこで)Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)したのか」という、物語の形式面に留意した捉え方と考えてもらえればよい。また、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点、と述べているが、この「僕」は、「若者のすべて」で展開していく物語の「語り手」でもあり、語られる物語の世界の「作中人物」「主人公」「主体」でもあるという特性を持っている。「僕」という言葉には、物語を語る「僕」と物語で語られる「僕」の二重性がある。

 これから私が進めていく論では、語る「僕」のことを《話者》としての「僕」、語られる「僕」つまり作中人物としての「僕」のことを《人物》としの「僕」、時には《主体》としての「僕」と呼ぶことにしたい。さらに付け加えると、《話者》としての「僕」、《人物》としの「僕」の背後に、この歌を創造した《作者》としての「僕」つまり志村正彦という現実の作者、歌い手が存在している。

 《作者》志村正彦が物語性のある歌を創作する際には、《話者》としての「僕」やどのように物語を語っていくか、物語の枠組みをどう設定するかを考えるであろう。その行為を通じて、その《話者》によって語られる《人物》としての「僕」の輪郭が見えてくる。「僕」とはいったいどのような存在であるのか。《話者》「僕」による「僕」に対する問いかけが始まり、《人物》としての「僕」、歌の世界の《主体》としての「僕」が登場してくる。

 このような方法、《作者》、《話者》、《人物》としての「僕」という三つの区分を設けることで、志村正彦の歌の解明が少しでも進むのではないかと私は考えている。しかしこの区分は、作品ごとに具体的に設定されなければならないし、論者によって区分が異なることもあるので、あくまで方法的なものだということを断っておきたい。方法が重要なのではない。どのような方法であっても、結果として、言葉が志村正彦の歌の深い部分までたどりついているかどうかが本質的なことだということは言うまでもない。

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