公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2024年9月8日日曜日

《小説の世界》《歌詞の世界》《現実の世界》 [志村正彦LN353]

 8月2日の記事〈虚構内の現実としての『若者のすべて』[志村正彦LN349]〉で、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』の虚構の世界のなかで『若者のすべて』の作詞作曲者であり歌い手である志村正彦、フジファブリックの音楽が現実に存在していると書いた。一月ほど間が開いたが、再び、この映画について語りたい。

 なぜこの映画のなかに『若者のすべて』が存在しているのか。原作小説の森田碧『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』でも花火に関する出来事は語られているが、『若者のすべて』との関係は特にない。映画の方はこの曲を劇中使用曲にしたのだが、三木孝浩監督はその理由と経緯についてSTARDUSTのインタビューでこう述べている。


新たに作るのではなくて「みんなが知っている思いを乗せられる楽曲をモチーフにしたいね」という話が最初からあって、いろんな楽曲の候補が出た中でプロデューサーからフジファブリックの「若者のすべて」を提案してもらいました。僕もすごく好きな曲で、ヨルシカのsuis(スイ)ちゃんにカバーしてもらっているんですけど、志村さんが亡くなられた後もみんなが歌い繋げてきたという部分と、秋人と春奈の2人の思いをその先に生きていく人が引き継いでいく部分と同じだなと思う側面があって「これだ!」と思いました。この曲は夏の終わりの切なさを歌っているんですけど、僕はむしろ今この瞬間のエモーションを大切にしたいという曲の持っているポジティブなメッセージを2人の距離が近づいていくシーンで流したいという意図があって、この映画の切なさより力強さを表すことができたと思いました。


 『若者のすべて』を〈みんなが知っている思いを乗せられる楽曲〉として採用したようだが、この〈みんな〉には、現実の世界でこの歌を知っている〈みんな〉だけでなく、〈春菜〉を中心とする映画内の虚構の人間も含まれている。また、〈志村さんが亡くなられた後もみんなが歌い繋げてきたという部分〉と〈秋人と春奈の2人の思いをその先に生きていく人が引き継いでいく部分〉とを重ねあわせる意図があったようだ。監督をはじめとする制作者側は、『若者のすべて』の曲としての運命のようなものをこの映画の主題にも関わらせようとしている。現実と虚構の架橋をする効果も考えたのかもしれない。

 三木監督はWEBザテレビジョンのインタビューではこう語っている。


フジファブリックの志村正彦さんが作った曲で、志村さんは29歳の若さで亡くなっています。それでも、彼の音楽はいろんな人がカバーしていますし、引き継がれている。それがこの作品の“残す者、残される者”という部分にリンクしているな、と。


 つまり、志村正彦は亡くなったが作品は引き継がれている、という現実を強く意識し、その現実をこの映画の“残す者、残される者”というモチーフと結びけたことを率直に述べている。そのような意図があれば、志村正彦の声によるオリジナルの音源を劇中使用曲にするのは必然だった。


 この映画には、原作小説『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』の《小説の世界》、『若者のすべて』で歌われる《歌詞の世界》、夭折した志村正彦の作品が歌われ聴かれ続けているという《現実の世界》という三つの世界が織り込まれている。《小説の世界》《歌詞の世界》《現実の世界》という三つの世界をつなけるのは、“残す者、残される者”というモチーフである。

 三つの世界を重ね合わせるという構想を実現させるのは、端的に言って難しい。この映画は、8月20日の花火をめぐる出来事までの前半とそれ以降の後半とに大きく分けられる(より正確に言うと三つに大別されるが、これについては後述したい)。秋人(永瀬廉)と春奈(出口夏希)が出会い、互いに対する想いを深めていく前半で、春奈が大切にしている歌として『若者のすべて』が流れる。歌詞にある〈最後の花火〉〈最後の最後の花火〉というモチーフが映画と密接な関係を持つ。しかし、後半では《花火》のモチーフは遠景に遠ざかり、《空》とその彼方というモチーフが強まっていく。歌詞のなかの言葉で言えば、最後のフレーズの〈僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ〉が前面に出てくる。


 前半と後半との間で一貫したモチーフとして登場しているのは、絵画と絵を描くこと、ガーベラの花とその花言葉である。そもそも、スケッチブックの絵が二人を結びつける契機となった。Netflix の一連の映像には、二人の出会いとスケッチブックの絵に焦点をあてたものがある。

その〈秋人を照らした春奈の無邪気な笑顔 | 余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。| Netflix Japan〉を紹介したい。




 この絵を描くことが、映画の後半とラストシーンにつながっていく。花火を見ることから、空を見上げること、さらに空の彼方を見つめることへとモチーフが展開していく。
 《花火》と《空》。この二つは『若者のすべて』の中心のモチーフである。
 
   (この項続く)

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