前回は、BSプレミアムの新日本風土記スペシャル「さくらの歌」での志村正彦・フジファブリックの『桜の季節』の取り上げ方について問いを投げかけた。これは、『桜の季節』という歌がそもそも捉えにくいことにも起因しているかもしれない。この歌はこのブログで繰り返し語ってきた。『若者のすべて』もそうなのだが、歌の世界をたどりきれないようなもどかしさがある。だからこそ何度も書いてきたのだが、志村正彦の作った「桜の季節」の「迷宮」に迷い込んでいるようでもある。
歌詞について再考してみたい。この歌詞は三つの部分に分けられる。青色、黄色、赤色、に分けて図示してみよう。図1は歌詞を三つの部分に色分けして並べたもの、図2は構造を簡潔に図示したもの。(Google スライドをPNG画像に変換して添付したので、鮮明さにかけることをお断りします。クリックすれば見やすくなります)
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図1 |
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図2 |
青色の部分が主要なモチーフであり、分量的には歌詞の大半を占めている。『桜並木、二つの傘』分析の際に参照した荒川洋治の〈詩の基本的なかたち〉をここで再度紹介したい。
詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
こんなことがある A
そして、こんなこともある B
あんなこともある! C
そんな ことなのか D
いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。
このABCD(起承転結)による〈詩の基本的なかたち〉を『桜の季節』の青色の部分にあてはめてみよう。色々な分析の仕方があるだろうが、以下はあくまでも僕の観点によるものである。
A 桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?
B 桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない
C oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう
D 作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!
この青色の部分には、ABCD、やや変則的であるが起承転結の展開がある。「桜の季節過ぎたら」という近い未来に時を設定し、歌の主体「僕」は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、「桜のように舞い散って/しまうのならば」という仮定のもとに「やるせない」いう感情を歌いあげる。その未来の想像の出来事を「oh ならば」とさらに仮定して受けとめた上で、「愛をこめて」「so 手紙をしたためよう」という意志を告げるのだが、その手紙では「作り話に花を咲かせ」ている。「僕は読み返しては 感動している!」という多分にアイロニカルな表現は、おそらく、この手紙が投函されないことを伝えている。「やるせない」という感情はあるのだが、その感情も桜についての伝統的な感性、桜の美学的なものからはかなり隔たっている。この「やるせない」はむしろ、「遠くの町」「手紙」というモチーフの方に強く関わるとも読める。この青色の部分で気になる表現は「愛をこめて」だろう。この「愛」については後述したい。
黄色の部分はこうなるだろうか。
A ( 桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい? )
B ( 桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない )
C oh その町に くりだしてみるのもいい
D 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃
ABの部分は(桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?)(桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない)が省かれ、CDの部分だけが言葉として語られていると考えてみたい。歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」が「その町」なのだろう。「くりだしてみるのもいい」とあるから、ここでも未来の時が設定されている。その未来の時点は「桜が枯れた頃」という季節だ。「桜が枯れた頃」という季節についてはすでに何度か考察してきた。
赤色の部分は、歌の主体「僕」が経験した現在に近い過去の出来事を語っている。「坂の下」で「別れを告げる」という場面が描かれている。
A 坂の下 手を振り 別れを告げる
B 車は消えて行く/そして追いかけていく
C 諦め立ち尽くす
D 心に決めたよ
「手を振り 別れを告げる」「追いかけていく」「諦め立ち尽くす」という現在形の動作の主体は「僕」であろう。「心に決めたよ」の「た」という過去の助動詞がこの一連の動作を完結させている。「諦め」が「僕」の想いの中心にある。この部分では、歌の主体「僕」は、場面の中にいる「僕」を対象化して眼差している。
青色と秋色の部分には現在から近い未来へという方向の眼差しがあり、赤色の部分には近い過去から現在へと到る眼差しがある。
(この項続く)
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