フジファブリック 『桜の季節』のミュージックビデオを見るといつも、それを見つめるこちら側のまなざしが凝固するような瞬間がある。
志村正彦が「桜が枯れた頃」と歌い、もう一度『桜が枯れた頃』と繰り返すシーンだ。その時の彼の苦しげな哀しげな表情を見ると、ある種の痛みのようなものすら感じてしまう。声量を上げ高いキーを歌う箇所でもあるのだが、「桜が枯れた頃」という言葉そのものを伝えようとして、あの表情になっているのではないか。無意識的なものかもしれないが、そのような気がする。
『桜の季節』についての一連のエッセイを書き続けながら、この歌の中にある痛みのような感触について考えてきた。そんな最中、四月の終わり頃にNHKのETV特集『生き抜くという旗印〜詩人・岩崎航の日々〜』という番組を見た。詩人岩崎航の存在については、二年ほど前、このblogのことを時々紹介していただいている方のtweetで知った。それ以来、彼のblog「航の SKY NOTE」を時々読んでいた。
「どうしようもなく/孤独の時間に/こみあげた思いひそかに研ぎ澄ます/それを/凱歌として突き貫くのだ」という五行歌がある。生きることそのものを闘うための「凱歌」。それがどれだけ孤独な行為であったのか。現在に至る日々をこの番組は丁寧に追っていた。その中で紹介されたある五行歌に心を動かされた。
校庭の
桜吹雪が
痛かった
ただ黙って
空を見ていた
「桜吹雪」が「痛かった」という経験。この経験を理解することは端的に不可能だと言える。可能なのは、つまらない抽象的な言葉でその輪郭を描くことくらいなのだが、あえて試みるなら、心だけでも身体だけでもなく、存在が受け取っている痛苦、という輪郭がひとまず浮かび上がる。その痛みを抱えたままただ沈黙して空を見る。桜を見るのではなく空を見るところに、二重の痛みがある。五七五の短歌調の韻律が、偶然かもしれないが、この詩の重心を支えている。
桜は美しさ、儚さ、喜び、悲しみ、様々な感覚、感情を伴って表現されてきたが、「痛かった」という捉え方と共に表現されたことは、私たちの詩の歴史の中にはほとんどないであろう。
岩崎航の「桜吹雪」の詩の舞台は「校庭」。『桜の季節』のMVの主な舞台は、歌詞と直接の関係はないが、「教室」や「学校」だ。そんなことも連想を促したのだが、この二つの作品の表現する世界は異なる。孤独の在り方も異なる。しかし、その孤独の深さにおいてどこか通底しあうものを感じる。
冒頭に書いたように、志村正彦の『桜の季節』、この歌の奥底にも通奏低音のように「痛み」の感覚が流れている。
公演名称
〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込
公演概要
日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ
申込方法
右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。
*〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。
*申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。
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