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2016年1月10日日曜日

鈴木慶一「45周年記念ライブ」、年末の一日。

 昨年12月20日、東京メルパルクホールまで、鈴木慶一の「ミュージシャン生活45周年記念ライブ」を聴きにいった。

 午後五時過ぎ、地下鉄の芝公園駅から上ると、目の前に東京タワーが現れた。やわらかくて眩い光。綺麗だった。冬の夜の冷たい空気のせいか、逆に光があたたかくゆれているように見えた。こんなに間近で見るのは初めて。ここは東京のど真ん中。ライダーズには『東京一は日本一』という名のベスト盤があったな。少し華やいだ気分になって、会場のメルパルクホールに到着した。

 僕は鈴木慶一、ムーンライダーズのかなりのファンだった。「だった」と過去形で記したのはここ十数年ほとんどフォローしていなかったからだが、時々、BSで放送されたライブ映像などは見ていたので「だ」という現在形でもいいだろうか。生で聴くのは1996年の渋谷公会堂以来だった。あの年はムーンライダーズ20周年記念の年。すでにマニアックなファンが集まる「同窓会」のような雰囲気で、それはそれで楽しかった。

 出会いは1978年の『NOUVELLES VAGUES』だった。70年代末という時代において、古くさい言い方だが、洋楽(特に英国ニューウェイブ)の水準に達している日本語ロックとして、ムーンライダーズは抜きんでていた。LPジャケットの写真も気に入っていた。そのアルバムをCDで久しぶりに聴いてみた。懐かしすぎる。鈴木慶一の声も音も、記憶していたものよりずいぶんと明るく、さわやかでさえある。40年近く前の音源だが、あまり古びてはいない。サウンドに限定すれば、現在のフジファブリックのスタイルの源流の一つのように位置づけることもできる。

  『NOUVELLES VAGUES』には、その名が示すように、クロード・シャブロル『いとこ同志』を始めとする、仏ヌーヴェルヴァーグ映画などの多様な作品をモチーフとする楽曲が多かった。当時流行の「現代思想」(これも懐かしい言葉)の「記号論」の影響もあったのか、「引用」という手法を日本語ロックの世界に取り入れた先駆者だった。(その後、日本のオルタナティヴ・ロックでこの手法が安易に使われることもあったが。)
 独特の屈折のある歌詞。知的で洒落ているが、どこか外しているところ。憂いや翳りをおびたユーモア。高度な演奏力とアレンジ技術。それらの混合、時には混沌がムーンライダーズの魅力だった。

 座席に着き、辺りを見回すと、五十代六十代の男性が多い。鈴木慶一の音楽を聴き続けた同世代か少し上の世代の男たち。同じ時代を生き、僕と同様、同じようにくたびれてきた者たちが集う場だった。
 公演は、現在のバンド「Controversial Spark」、最新作録音のためのバンド「マージナル・タウン・クライヤーズ」、高橋幸宏とのユニット「THE BEATNIKS」、「ムーンライダーズ」、「はちみつぱい」と、45年の時をさかのぼる構成だった。途中でゲストの斉藤哲夫、PANTAも迎えた。

 ムーンライダーズの舞台。鈴木博文、白井良明、岡田徹のオリジナルメンバーの登場。かしぶち哲朗はもういない。武川雅寛も療養中でいない。でも、驚いたことに3曲目に「くじらさん」がステージに。この日のために準備してくれたのだろう。会場からは大喝采、「おかえり」という声も上がる。5人のライダーズとサポートドラムの矢部浩志によるすばらしい力演だった。
 ゲストのPANTAが『くれない埠頭』を歌った。ムーンライダーズの代表曲だが、慶一の弟、鈴木博文の作品。弟の作品をPANTAに歌わせたのは鈴木のオーガナイザー的資質を示している。

              吹きっさらしの 夕陽のドックに
              海はつながれて 風をみている

              行くあてもない 土曜のドライヴァー
              夢をみた日から きょうまで走った

         
              残したものも 残ったものも
              なにもないはずだ 夏は終った    (鈴木博文『くれない埠頭』)

   
 はちみつぱいの生演奏を聴いたのは初めてだった。オリジナルメンバーが全員集まったようだ。最初の曲の前奏なのか、インプロビゼーション風のサウンドは、70年代初頭の「ニューロック」の匂いが濃厚だった。メロディもリズムも音色ものびやかで、かなりサイケデリックなのは意外だった。
 『塀の上で』と『煙草路地』が嬉しかった。この二つの歌が聴けただけでも来た甲斐があった。

            誘導灯が秋波くれて
              広告塔も空に投げキッス
              羽田から飛行機でロンドンへ
              ぼくの嘆きを持ってお嫁に行くんだね 今日は

  
              塀の上で 塀の上で
              ぼくは雨に流れみてただけさ     (鈴木慶一『塀の上で』)

    
 鈴木慶一の出身地は東京大田区の下町。鈴木兄弟は羽田近くの湾岸地域で育ったそうだ。「羽田」という地名。「塀の上」、「夕陽のドック」という風景。鈴木自身が「東京ディープサウス」と呼ぶ場が『塀の上で』『くれない埠頭』の舞台だ。京浜工業地帯の臨海部の吹き溜まりの感じが歌詞には濃厚にある。

 ライブの前、橋口亮輔監督の七年ぶりの新作『恋人たち』を見た。
 橋口亮輔は最も敬愛する監督だ。新作を映画館で必ず見たいという気にさせる監督は他にない。たまたまキネカ大森で上映中だったので、大森まで出かけた。
 映画を見ている最中に気づいたのだが、主人公アツシが住み、働く場所は、大森や蒲田近くの街という設定だった。ついさっき大森駅近くで見たのと似た風景がスクリーンでいきなり映し出されたのには驚いた。予期しない偶然だった。

 アツシの仕事は湾岸地域の河川の橋梁を検査すること。ハンマーで打音して、その音に耳を澄まし、水郷都市でもある東京の土台の「ひび割れ」を探知している。戦後の東京の老朽化、そのような時代性を橋口監督は映画に織り込む。
  『恋人たち』は今各地で上映中なので、内容を語ることはやめよう。それでも一言印象を記すとしたら、ドキュメンタリー的手法を使ったフィクション映画というように括られるのだろうが、この作品は、「ドキュメンタリー」と「フィクション」、「事実」と「虚構」という二項対立を超えた「リアルなもの」、私たちの生の「真実」と名づけられるものを描いている。必見の映画だ。この作品については稿を改めて書いてみたい。

 帰りに京浜東北線に乗り、車窓から外を眺めていた。ある景色が呼び覚まされた。
 僕の伯父さんは山梨から上京し、大田区で小さな洋品店を営んでいた。蒲田から数駅向こうの下町の商店街だ。ほんとうに小さな頃だが、あの界隈の風景、商店街や路地や小さなビルの姿がほんのかすかに記憶にうずくまっている。
 昭和30年代の終わりか40年代の始めのことだろう。何かの用事で親に連れられていった。僕が東京に行った初めての記憶かもしれない。

 はちみつぱい『塀の上で』、ムーンライダーズ『くれない埠頭』。橋口亮輔『恋人たち』の舞台の街。伯父さんの店、商店街のかすかな残像。『NOUVELLES VAGUES』のLPジャケット、よく聴いた学生の頃の部屋。入場前の東京タワーの光、会場の同世代の聴衆。過去、現在、風景がゆるやかに旋回する。

 鈴木慶一の「45周年記念ライブ」は、僕という一人の聴き手にとっても、時をさかのぼる一日、年末の一日だった。

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