公演名称

〈太宰治「新樹の言葉」と「走れメロス」 講座・朗読・芝居の会〉の申込

公演概要

日時:2025年11月3日(月、文化の日)開場13:30 開演14:00 終演予定 15:30/会場:こうふ亀屋座 (甲府市丸の内1丁目11-5)/主催:甲府 文と芸の会/料金 無料/要 事前申込・先着90名/内容:第Ⅰ部 講座・朗読 「新樹の言葉」と「走れメロス」講師 小林一之(山梨英和大学特任教授)朗読 エイコ、第Ⅱ部 独り芝居 「走れメロス」俳優 有馬眞胤(劇団四季出身、蜷川幸雄演出作品に20年間参加、一篇の小説を全て覚えて演じます)・下座(三味線)エイコ

申込方法

右下の〈申込フォーム〉から一回につき一名お申し込みできます。記入欄の三つの枠に、 ①名前欄に〈氏名〉②メール欄に〈電子メールアドレス〉③メッセージ欄に〈11月3日公演〉とそれぞれ記入して、送信ボタンをクリックしてください。三つの枠のすべてに記入しないと送信できません(その他、ご要望やご質問がある場合はメッセージ欄にご記入ください)。申し込み後3日以内に受付完了のメールを送信します(3日経ってもこちらからの返信がない場合は、再度、申込フォームの「メッセージ欄」にその旨を書いて送ってください)。 *〈申込フォーム〉での申し込みができない場合やメールアドレスをお持ちでない場合は、チラシ画像に記載の番号へ電話でお申し込みください。 *申込者の皆様のメールアドレスは、本公演に関する事務連絡およびご案内目的のみに利用いたします。本目的以外の用途での利用は一切いたしません。

2014年1月9日木曜日

「今、ここに、いない」聴き手に向けて (志村正彦LN 68)

 年末から年始にかけて、ビデオテープに録画していた音楽番組でこれからも保存したいものをDVDにダビングする作業をしていた。90年代から00年代前半までの間に放送されたもので、時々、懐かしい映像に見とれてしまうことがあった。

 中でも、NHKBSで1995年に放送された『日本ロック大全集』(第1弾、第2弾共に4夜連続の放送で、分量が多い)の映像には貴重なものが多かった。この番組には、70年代からの90年代半ばまでのライブ映像がたくさん紹介されているのだが、とにかく、みんな若くて初々しい。日本のロックの黎明期からバンドブームの時代の音楽には情熱があふれている。時代を再認識することは大切なことだ。こんな表情をして歌っていたんだな、こんな演奏をしていたんだなと、などと、記憶の中のぼんやりした像が「再生」され、当時の像に「修正」される。

 比較的近い映像では、2000年NHKBSの「風待ミーティング・松本隆トリビュートライブ」(サニーデイ・サービス,曽我部恵一が出演している)、2002年BS朝日の「四人囃子 vs スモーキー・メディスンライブ」などは、映像を食い入るように見てしまった。

 『日本ロック大全集』は、日本のロックのおよそ30年という流れ(1995年当時の)を背景に制作されている。あの頃から、日本のロックを歴史として振り返る意識が生まれ始めたのだろう。30年という時間は、親子ほどの年齢差のある世代的なサイクルとなる。
  この番組からも20年近い月日が流れて、2014年の今日、すでに50年近い歴史およそ半世紀の歴史を、日本のロックはすでに築いてしまっている。(私の人生とほぼ重なる時間だいうことに迂闊にも初めて気づいた)

 ダビング作業と並行して、年末にWOWOWで生放送された「COUNTDOWN JAPAN 13/14」も見ていた。過去と現在のロックを時々ワープするという稀な経験をしたのだが、今のロック音楽家はいろいろと大変だなという感想を持った。会場にいたわけでもなく、あくまで映像を通じてのものだが、何か突き抜けたものがない、自由でない、枠のようなものにしばられている、というような抽象的な感想だ。演奏者だけではなく、聴衆にも同様のことを感じる。「ロッキング・オン」という媒体の質や音楽業界の縮小という状況など、様々な要因があるのだろうが。
 (この問題を正確に書くのには丁寧な準備が要るので、今回はこのあたりに留めておきたい。それにしても、質の高いロックを創っているメレンゲ、GREAT3、アナログフィッシュ等が全く出演していないのはどういう事情なのだろうか)
 
 本質的には、現在の日本のロック音楽家が、洋楽だけでなく、日本のロックの過去50年の蓄積とも比較されてしまう位置にいることは相当「きつい」のだと思う。(「きつい」などと感じることもなく、過去は関係ないという姿勢があってもいいのだが)
 現代の音楽家は、同時代の音楽家だけでなく、過去の音楽家たちとの「音楽の価値」の比較の中に否応なく巻き込まれてしまう。そんなことを望みはしないだろうが、これを避けることはできない。ある音楽ジャンルが成熟してくると、そのような状況が現れるのは不可避だ。音楽は究極的には聴き手のものだからだ。

 聴き手は音楽への向き合い方を選択できる。「聴き手中心の歌(志村正彦LN 22)」[http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln-22.html]で、「聴き手の立場からすると、『現在のシーン』を追いかけるという呪縛から離れて、過去の音源、日本語のロックの半世紀近い歴史とその蓄積からなる作品群を主体的に聴いていく方向がある。この方向はこれからますます強くなっていくだろう」とすでに書いたが、年末年始にかけて、過去の歴史的な映像と現在のCDJの映像を比較して、その想いはさらに強固なものになった。

 もちろん、音楽は歴史的な価値だけでなく、今ここで演奏され聴かれるという現在的な価値、絶対的な価値を持つ。「ライブ」とは「今、ここに、共にある」ことの別名だ。ライブ演奏を通じて、演奏者と聴衆との間に、一時的なものであるにせよ、「共同体」のようなものが形成される。
 現実のつながりが失われがちの時代において、これは貴重な体験なのだろう。CDよりライブ等のイベントの売り上げの方が相対的に伸びているらしいが、非常にうなずける事態だ。

 今、ロック音楽家たちは、かつてないほど、「今、ここに、いる」聴き手を「守る」姿勢を取らざるをえないのかもしれない。まさしく守勢に立たされている。しかし、CDよりライブを重視すると、逆にますます、CDの作品としての質が問われるという悪循環に陥るだろう。
 もちろん、音楽が「今、ここに、いる」人々に向けられたものであることは確かだが、「今、ここに、いない」誰かに向けられたものでもあることも重要ではないだろうか。音楽は「今、ここ」という時と場から離れて、遠い遠い時と場にいる他者に届く場合に、作品としての高い価値を得ることができる。そのような作品だけが歴史に残る。

 志村正彦が遺した言葉と楽曲は、彼が繰り返し述べたように、彼自身を聴き手としていた。そして「今、ここに、いる」聴き手を大切にして、さらにそれを超えて、「今、ここに、いない」聴き手に届けようとしていたのではないだろうか。
 彼が遺した作品は、彼が亡くなった後も、「音楽遺産」のようにして、新たな聴き手を獲得している。

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