ペソアの異名「Alberto Caeiro(アルベルト・カエイロ)」の詩の一節にはこうある。
私が死んでから 伝記を書くひとがいても
これほど簡単なことはない
ふたつの日付があるだけ──生まれた日と死んだ日
ふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ
昨年夏の旅は、ジェロニモス修道院の棺と碑から、ペソアの晩年の家(ペソア博物館)へと遡るものだった。生と死の「ふたつに挟まれた日々や出来事」をほんのわずかだけだが、たどろうとした。
旅に戻る。ジェロニモス修道院を後にして、バスは中心街へと出発した。リスボン大聖堂の近くで降り、アルファマ地区を歩く。この界隈は1755年のリスボン大地震でも被害にあわなかったそうだ。古くからの建物、その間に狭い路地が続く。リスボンの昔の面影があると言われている。街並を通り抜けると、ファド博物館に行き着く。ポルトガル音楽というとファドだ。音楽好きとしては寄りたかったが、時間が許さない。再びバスに乗り、ロシオ広場で解散。まだ昼前。これから自由時間だ。
アルファマの路地 |
ファド博物館 |
私と妻の二人はペソア博物館へ行くために、28番線の市電、エレクトリコの停車場に向かう。始発の停車場はすごい行列。あきらめて、フィゲイラ広場に戻り、タクシーに乗る。リベルダーデ大通りを上がる。街路の並木の緑、車の窓からの風がすがすがしい。大通りを左折して西の方角へ進んでいく。車窓の風景と地図を見比べて、もうそろそろ着くかなという頃、新米の運転手さんのようで道に迷っている。通行人に聞いたり道を行ったり来たりして、やっと「Casa Fernando Pessoa(フェルナンド・ペソア博物館)」に到着した。「Casa~」なので、文字通りでは「フェルナンド・ペソアの家」と呼ぶべきかもしれない。
ペソア博物館 |
ペソアは1920年から1935年の死去まで、二階の一室に住んでいた。中心街からやや離れた場所にあり、当時も今も生活者の住む街だと思われる。
1993年、リスボン市はペソアが晩年を過ごしたこの家を利用して、ペソア博物館を設立した。ペソアの部屋をのぞいて、内部は大幅に改築された。さらに数年前に展示ルームなどを現代風に改装したようだ。外見は道路沿いにある普通の建物なのであまり目立たない。近づくと、通りに面した窓に「PESSOA」という赤色の字が記されていた。壁面にも文字があった。
入り口のドアを開け、エントランスでチケットを購入すると、年配の女性の受付の方から「どこから来たのですか」と声をかけられる。「日本からです」と答えると、「日本からの客を迎えるのは初めてです」と言われた。日本人は珍しいのだろうが、「初めて」という言葉に驚く。受付も当番制だろうから、この女性の当番の時に初めてということだろうが。どのくらいの期間の中での初めてなのだろう。確かめてみたかったが、タイミングを逸してしまった。日本人が訪れることは極めて珍しいことは間違いない。
平日の昼頃の時間帯のせいか、他に客は見あたらなかった。一時間以上滞在したが、その間、子供連れの家族を一組見かけただけだった。ここでは時々、詩の朗読会などが行われるようだ。そういうイベントの際や生徒や学生の見学の場合を除けば、来館者はあまりいないのかもしれない。日本でも同様の状況がある。
東西を問わず、文学者の記念館は地味な存在だ。
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