時間を大晦日の紅白歌合戦に戻す。毎年その年の歌のトレンドを知るために見ている。平成最後が強調されていたが、歌合戦というよりもダンス合戦のような演出にはついていけなかった。suchmosの醸し出す「場違い感」だけがその流れを断ち切っていた。ロックだった。
圧巻だったのは松任谷由実。教会風のセットを背景に『ひこうき雲』、突如NHKホールに移動して『やさしさに包まれたなら』を歌った。バックには鈴木茂、松任谷正隆、林立夫たち。ベースは細野晴臣ではなく小原礼。それでも四分の三「ティン・パン・アレー」ではないか。会場に呼びかけるユーミンと淡々と奏でるバンドメンバーのコントラストも見物だった。
『ひこうき雲』の歌詞には「かげろう」が登場する。以前から気になっていたのだが、志村正彦・フジファブリック『陽炎』のエッセイを連載している今、この歌を取り上げてみたい。一番を引用する。
誰もが知る曲だが、『荒井由実 - ひこうき雲 MUSIC CLIP』というオフィシャル映像があったので添付しておく。
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる
空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲
この映像は、砂田麻美監督によるユーミン×スタジオジブリのコラボレーションによるもので、映画『風立ちぬ』主題歌『ひこうき雲』のMUSIC CLIP(Short ver.)である。荒井由実時代のものか、それを意図した演出かは分からないが、回想的な映像が効果的に使われている。
一番の歌詞を読んでいきたい。
歌の主体は、「白い坂道」と「空」を見上げていくまなざしのなかで「かげろう」と「あの子」を描いていく。「かげろう」とひらがなで書かれているので、大気を揺らす現象を指す「陽炎」か、命のきわめて短い昆虫の「蜉蝣」が決めきれないところもあるのだが、「坂道」「空」「ゆらゆら」という表現との関連、この曲全体の雰囲気からするとすると「陽炎」と取る方が自然だろう。それでも、「昇っていく」「舞い上がる」という動きには、か弱くも宙を飛ぶ「蜉蝣」のイメージが入り込んでいるとも捉えられる。「陽炎」「蜉蝣」の二つが「かげろう」に重ね合わされている感じもある。半ば無意識的なものとして。
『日本国語大辞典第二版』の「陽炎」の項目には次のような説明がある。
平安時代以降の和歌では、あるかなきかに見えるもの、とりとめのないもの、見えていても実体のないもののたとえとされることが多い。また、「かげろう(蜉蝣)」と混同して解され、はかないもののたとえとなることもある。
「陽炎」は、「あるかなきかに見えるもの」であり、しかも語の混同により「はかないもの」の喩えともなる。実際に詩でも歌詞でも、「かげろう」にはこの二重の意味合いがあることが少なくない。『ひこうき雲』の「かげろう」にもそのようなニュアンスがある。
解釈の枠組を作る際はどちらかの意味を基本とするかとりあえず決めなければならない。この論では「陽炎」という意味に取りたい。そうなると、「ゆらゆらかげろうが あの子を包む」は、「かげろう」がゆらゆらと揺れて、「あの子」を包んでいくというイメージが生まれる。しかし、歌の主体とそのまなざしの向こう側にいる「あの子」との間で「かげろう」が遮っているとも考えられる。「かげろう」が「あの子」を「ゆらゆら」と揺らすことで、有るか無きかの存在に見えてくる。
その揺れの狭間で「あの子」の像が微かに現れるが、それはあくまでも儚い。「誰も気づかず ただひとり」とあるように、「あの子」は単独者として空に「昇っていく」。
実は、志村正彦は『Rooftop』のクボケンジとの対談(2004.11.15 interview:Hiroko Higuchi)で「ロックを感じるCD3枚」の1枚目に、荒井由実のアルバム『ひこうき雲』を挙げている。次回はこのことを考えてみたい。
(この項続く)
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