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2015年5月18日月曜日

月-フジファブリック武道館LIVE10 [志村正彦LN105]

 昨年11月末のフジファブリック武道館ライブから半年近く経つ。その翌日から書き始めたこのライブに関するエッセイも断続的に続いてきたが、今回で終了としたい。

 第1回目で、志村正彦の声の音源による『茜色の夕日』を聴いた経験を、彼が「《声》という純粋な存在になった」という言葉に集約させた。そして、「聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる」と結んだが、その時にあらかじめ分かっていたわけではないが、その後、このエッセイは結局、志村正彦の《声》を巡る文となっていった。あの武道館の巨大な空間に満ちあふれたあの《声》に導かれるようにして、行きつ戻りつ巡回しながら、同じことを繰り返し、視点を少し ずつ変えながら書いていった。錯綜や矛盾があるかもしれないが、そのようにしか書き進められなかった。

 書いているうちに確かなものとなってきたモチーフもある。現在のフジファブリックをどう捉えるか、というものだ。このライナーノーツでいつか書こうと準備してはいたのだが、難しい主題ではあった。いまだに、現在のフジファブリックについての議論(消極的あるいは懐疑的な評価にせよ積極的な評価にせよ)が共存している状況下で、単純な否定論や肯定論を超えるような視座がないかと模索してきた。考えあぐねていたというのが正直なところだが、武道館での『卒業』の歌と映像によって、ある考えの枠組みが浮かんできた。それと共に言葉が動いていった。

 志村正彦の音源の《声》が自らの作品『茜色の夕日』を、山内総一郎の《声》が志村の作品『若者のすべて』を、続いて、山内が自作の『卒業』を歌う。この三曲の《声》の主体と歌の作者の組合せの変化が、このメジャデビューから十年という時を、象徴的にそしてある意味では儀式的に、表していた。『卒業』の歌詞の分析によって、現在のフジファブリックの「位置」、志村正彦との関わり方の「方位」を測定することができた。
 そのことと同時に、志村在籍時のフジファブリックに焦点を変えてみるのなら、現在のフジファブリックの歌と演奏から逆説的に、志村正彦の歌と楽曲、《言葉》と《声》のかけがえのなさ、独自性と創造性が、一つの「経験」として強く迫ってきた、ということに尽きる。

 武道館という「トポス」ゆえに、ロックの聴き手としての私の個人史も差しはさんだ。(トポスとはギリシア語で「場所」を意味し、転じて、特定の「場」に関係づけられるテーマやモチーフ、それらの表現を指す)
 武道館というトポスは、70年代以降の「来日」洋楽ロックや80年代以降の邦楽ロックに関わる様々な記憶と結びつく。1973年のマウンテンから2014年のフジファブリックまで、40年を超える年月が流れている。密度の濃淡はあっても、この間、欧米と日本のロックを聴き続けてきたわけだ。
 PA技術の進化によって、武道館の音が以 前に比べてはるかにクリアになったことに驚かされた。(昔は「悪い」という定評があったのだが、「良い」とは言えないにしても「悪くはない」水準にはなっている) 志村正彦の歌の音源とメンバーの楽器演奏によるリアルタイムの「合奏」も、この技術の進化によって実現したのだろう。収容人数からするとコンパクトな座席とその配置も一体感を醸し出していた。(昨日、5月17日付の朝日新聞「文化の扉」欄に偶然「はじめての武道館」と題する記事が掲載されていた。この「トポス」についてはいつか再び書いてみたい)
 また、一連の記事について何人かの方にTwitterで触れていただいた。感謝を申し上げます。


 あの日は、甲府への帰途につかねばならない都合があり、アンコ ールの途中で武道館を後にした。背後から大音量の演奏と観客の拍手の音が漏れてくるが、一歩一歩階段を下りると、音は少しずつ遠ざかっていく。
 外はすっかり夜の時を刻んでいる。十一月末の冷たい空気が、直前まで身にまとっていた熱気を冷ましてくれる。十周年を祝う祝祭の時と場に別れを告げると、奇妙に静かな風景が広がっていた。
 前方に広がる公園の樹木の陰、その暗がりの上方を見ると、三日月よりやや大きな月が現れている。雲間からこぼれるようにかすかな光が差しこむ。淡い穏やかな光だった。


 志村正彦の月。瞬間、その言葉が浮かんできた。

 彼の歌には「月」がしばしば登場する。

 2014年初冬の武道館。
 現在のフジファブリックと数千人の観客。
 その熱狂を静かに淡く照り返す月光。

 不在の志村正彦が月の光となり、私たちを見つめているかのようだった。

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