『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]のスリーブには、次のようなクレジットがある。
vocal/guitar:山内総一郎
keyboards:金澤ダイスケ
bass:加藤慎一
vocal:志村正彦
guitar:名越由貴夫
drums:BOBO
この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。
これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。
この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。
さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が胸を締めつける (『陽炎』)
「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。
今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。
しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。
少し視野を広げてみたい。
例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。
志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。
どうしてなのだろ う。
志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。
(この項続く)
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