ページ

2015年3月15日日曜日

『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』、静岡県立美術館で。

 2月中旬、静岡県立美術館で『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/06.php ]を見てきた。
 
 行きは、高速乗合バス「甲府-静岡線」を初めて使った。高速といっても、中部横断道がまだ全線開通していないので、甲府近郊からわずかばかりの高速を経てからは国道52号線の一般道をひたすら南下していく。静岡との県境を越えてしばらくすると、新東名高速に入る。
 山沿いの道から時々海が見えると心が少したかぶる。海のない山梨県人は、海を見ることに慣れるということがおそらくない。途中休憩を挟んで3時間で静岡駅前に到着。車内はたまたまかもしれないが3列シートで広々、運賃が2,550円と安いことも助かる。(自分で車を運転すれば、2時間半程だろうか。新東名のおかげで以前より短くなった。数年後、清水までの中部横断道が開通すれば、1時間半ほどに短縮されるだろう。静岡が近くなることが待ち遠しい)

 静岡駅前から路線バスに乗り、昼前に美術館に到着。「日本平」の小高い丘にあるこの館には何度か来たことがあるのだが、相変わらず落ちついた佇まいだ。眺望も良い。
 観覧前、館内のレストラン「エスタ」で「石田徹也展特別料理」のランチをいただく。彼の「故郷、焼津や、ここ静岡の食材を、ふんだんに使用」と紹介されていたコース料理はとても美味しかった。食材が山梨よりも豊かでうらやましい。石田徹也の作風とこんなに美味しい料理の取り合わせにはかなりギャップがあるような気もしたのだが、静岡の食文化の作品として堪能することにした。

 午後、企画展室へ入る。

 彼の存在は、2013年9月放送のNHK日曜美術館『聖者のような芸術家になりたい ~夭折の画家・石田徹也~』を見て初めて知った。テレビ映像を通じてではあるが、その作品と彼の言葉に強く惹かれるものがあった。吉野寿(eastern youth / outside yoshino)が登場し、『地球の裏から風が吹く』のジャケット画が石田作品だということにも興味を持った。隣県の静岡に巡回展が来るのは2015年ということもその時に知った。一年半近く待ち、この日、ようやく彼の作品そのものと向き合うことができたのだった。

 石田徹也は1973年静岡の焼津で生まれ、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科に進む。卒業後はアルバイトで働きながら制作を続けるが、2005年事故で不帰の人となった。
 [「石田徹也の世界 飛べなくなった人」石田徹也公式ホームページhttp://www.tetsuyaishida.jp/  参照]

 三十一歳という短い生涯、それにも関わらず遺された作品の数と質。生前からその才能をある程度まで評価されていたが、没後評価が非常に高まったという点において、美術と音楽というジャンルは違えど、どこか、志村正彦の人生と作品の命運に重なるような感じが最初からしていたことも書きとめておきたい。

 会場での印象を簡潔に記したい。
 彼の作品、特に初期のものは、例えば、eastern youthのCDジャケットになったように、ある種のデザイン性、メッセージ性という観点で語られることが多いだろう。描かれている世界の独自性は言うまでもない。また、彼の作品への関心を広げたという点でも肯定されるべきだろう。



石田徹也「兵士」 【eastern youth 『地球の裏から風が吹く』CD】
 

 しかし、静岡の展示室で彼の絵画を直に見ると、描かれている世界と同等かそれ以上に、その入念で執拗ともいえるような描きこみの方に衝撃を受けた。描くことの時間の重なりそのものが、彼の絵画として具現化している。描線と絵具のリズム、その複合的な反復のようなものが彼の作品をきわめて独創的なものにしてる。痛ましい言い方になるが、特に晩年になるにつれて、そのことが際だってくる。

 この日は講堂で、彼の親友の映像作家、平林勇氏による「石田徹也の発想の源をさぐる」という講演を聴くこともできた。平林氏によると、石田のアトリエは6畳ほどで、長辺の方にキャンバスを置き、短辺の方に位置して描いていたそうだ。大きな作品が多かったので必然的に短い距離で、作品に向き合うことになる。あの入念な時間をかけた描き混みは、絵との至近距離からの対話がもたらした。しかも、ほとんどの作品は2週間程度で完成させたそうなので、その集中力と持続力は凄まじい。
 平林氏は、石田が飲み会が終わるとすぐに描くためにアパートに帰ってしまったという挿話も述べてくれた。(志村正彦にも同様の話がある。志村もまた一年のほぼ毎日、音楽を作り続けた。)

 会場の所々に掲げられた彼のノートの言葉で強く記憶に刻まれるものがあった。次の文言だ。

   わたしが不安感にこだわる理由は、現実を見えるようにするためです。

 作者自身の言葉でその作品を説明することは、あまりにあからさまであり、分からないことを分かったような気にもさせるだろう。そのことを戒めながらも、それでもやはり、この言葉は熟読に値する。

 現実は幾層も何かに覆われている。見えるもの、あるいは見るべきものを見えなくするための覆いや装置が完備されている。安心して生きていくためにはその覆いは不可欠である。
 しかし、不安感が先行するのか、見えるようにする意志が先行するのかは明らかでないが、現実を見えるようにするという行為が、ある種の表現者にとって、不可避になることがある。

 不安感と共に、表現という行為が切迫してくる。その行為に追いたてられるようにして、時間がせきたてられる。
 時間が作品の内部に凝縮され、やがて、時間が「現実を見えるようにする」のだろうか。

 石田徹也はどのように時を過ごしたのか。何を見えるようにしたのだろうか。
 とりとめもないことを考えながら、美術館を後にした。
 (3月25日まで開催しているので、近隣の未見の方にはご覧になることをおすすめしたい)

 帰りは、身延線の特急「ふじかわ」に乗った。
 日は没していたので、夕暮れ時までは姿が浮かぶはずの富士山も何も見えない。闇の深い山間を夜汽車に揺られ、甲府へと還っていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿