映画『百円の恋』の背景では時折、ロック音楽が鳴り響いている。ブルース・ロックが主人公「一子」の日常を、ハード・ロックが「一子」の闘いの序章を告げる。
ラストシーン。「一子」が闘いから日常へと還っていく夜の場面。クリープハイプの『百八円の恋』が流れる。尾崎世界観の声が、暗い画面の奥から聞こえてくる。映画が終わり、音楽が始まる。
もうすぐこの映画も終わる こんなあたしの事は忘れてね
これから始まる毎日は 映画になんかならなくても 普通の毎日でいいから
活動弁士のように、その声は「これから始まる毎日」を語り出すが、「普通の毎日」はほんとうに始まるのだろうか。音楽が終わると何かが始まるのだろうか。一瞬そのことを想うが、間奏を挟んで、声が拳のように素早く観客に打ちこまれる。
「itai itai itai itai itai itai itai itai…」という声の連呼。
「demo」で一呼吸おいて、再び「itai itai itai itai itai itai itai itai…」の連呼。
何回繰り返されるのか。テンポがすごく速い。ボクシングの連打のような声。
「itai… demo itai…」?
「itai」は「痛い」なのか、この連呼の意味の流れはその場では分からない。日本語には同音異義語が多いが、歌の文脈ではアクセントや音の高低も自在なので、言葉をつかみにくい。歌詞カードのような文字化されたテキストなしで聴くと、そのようなことがよく起きる。それもまた聞くことの愉しみではあるのだが、意味を結ばないで宙吊りされるような心持ちにもなる。
帰宅してからネットで調べると次の歌詞だった。(『百円の恋』のパンフレットにも歌詞が掲載されているが、少し違いがある。以前のあるいは以後のversionなのだろうか)
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
でも
居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい居たい
「itai… demo itai…」は「痛い… でも 居たい…」なのか。なるほど。この意味であれば、映画のラストシーンとほどよく解け合う。映画『百円の恋』は「痛いでも居たい」という闘いの物語なのだから。
それにしても、この「itai」の分節は特徴的だ。二度目、三度目と歌われるのだが、微妙にその発生や発音が異なっている。「itai」という《音の連なり》(構造言語学で言うところの《シニフィアン》)は、それが意味する「痛い」あるいは「居たい」という《意味》(同じく《シニフィエ》)と、不思議な連鎖をしていく。
「音楽ナタリー」掲載の尾崎世界観(クリープハイプ)と志磨遼平(ドレスコーズ)の対談[http://natalie.mu/music/pp/dresscodes06/page/4]で、尾崎は歌詞を携帯のメモ画面で書くと述べている。
尾崎 ずっとそうでした。歌詞でけっこう韻踏んだりすることが多いんですけど、それも文字変換とかで……。 (中略)
志磨 あれ便利な機能だよね! 作詞家にとって。ひらがなで打ったら漢字が3つくらい出てくるから、じゃあもう1行目それで2行目これでいいじゃんって(笑)。
尾崎 逆に、出てきた言葉に意味を持たせることもけっこうありますよね。「ああ、この読み方もできるなあ。じゃあ2番はどういう歌詞にしたらこの意味につながるだろう」って。
「企業秘密」のような話で面白い。「韻」の「文字変換」の連鎖は、まさしく日本語の日本語たる特徴だ。精神分析家ラカンの教えをもとに、少しだけ理屈をつけたい。
日本語は同音異義語が多い。そのために、特に歌う・聞く場において、シニフィアン(音そのもの)が謎めいたものになるという特徴を持つ。シニフィアンがシニフィアンのままで聞き取られると言ってもいい。日本語はシニフィアンが決定的に優位な言語だ。そして、シニフィアンがもうひとつのシニフィアンに「横滑り」していくことが自然に起きる。一応、一端、そのシニフィアンに対応するシニフィエにピン留めされるのだが、さらに滑っていくこともある。
『百八円の恋』の「itai」というシニフィアンは、尾崎世界観の声に促されるように、「痛い」「居たい」というように、《シニフィアン/シニフィエ》に滑っていく。彼の歌い方そのものが声の横滑りのような感じであるのも、そのことに勢いをつけている。
パンフレット掲載の尾崎のインタビューによると、武正晴監督との打ち合わせで、「この映画を音楽で助けて欲しい。音楽の力を借りたい」という要請があったそうだ。彼は「脚本を読んでこの物語自体がクリープハイプだなって思えた」と延べている。監督と音楽家とのコラボレーションとしては最良のものだろう。
私はクリープハイプについてはyoutubeのMVくらいしか聴いたことがない。「聴き手」とは当然言えない。あくまで映画『百円の恋』の一観客という立場にすぎない。
他の曲と比較することもできないので推測で書くが、「終わったのは始まったから」と歌詞の一節にあるように、歌の物語の始まりと終わりの感覚が独特で、古くてとても新しい。『百円の恋』から『百八円の恋』へと、『百八円の恋』から『百円の恋』へと、始まり終わっていく。
題名につながる一節は次の通りだ。
誰かを好きになることにも
消費税がかかっていて
百円の恋に八円の愛ってわかってるけど
「百円の恋に八円の愛ってわかってるけど」って歌われるけど、これは全く分からない。でも、分からなくてもなんだか分かったような気もする。けど、それではいけないのかもしれない。それでいいのかもしれない。
「百円の恋」「八円の愛」。どちらも謎のシニフィアン。
でも、何に、何処に、誰に、横滑りしていくのだろうか。
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