今朝、ぴあのHPで『Live at 富士五湖文化センター 上映會』のチケットを確認したところ、「予定枚数終了」の表示が出ていた。開催2週間前にソールドアウトできたようで、ほんとうに良かった。
甲府の桜も一昨日、平年より一日遅く開花した。ほぼ例年通りだ。13日には「いつもの丘」の桜も美しく咲いているだろう。当日の天気が良いことを祈ります。
残念ながら、山梨の新聞・テレビ・ネットの様々な「チケット情報」サービスでは全く告知されていなかったので、富士吉田在住の方や一部の県内ファンを除いて、地元の観客は少ないと思われる。県外の方が多数になるだろう。少し寂しいが、もともと地元対象のイベントではないので、いちおう納得はできる。
生演奏ではない、特別な催しがあるわけでもない、あえて言うなら、単なるDVDの上映会(「単なるDVD」でないことは繰り返し書いたが)に、800人の観客が交通費や宿泊費を使って富士吉田に来る。「桜の季節」に、「愛をこめて」、「遠くの町に」来る。志村正彦の故郷への旅。やはり希有なことで、志村正彦在籍時のフジファブリックに対する持続的な深い関心と強い支持があってのことだ。
前回、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリックの山梨発ライブについて書いた。特にザ・ブームの宮沢和史については世代的に近いこともあり、それなりの思い入れがある。
実は、宮沢和史の生まれ育った場所と私の場所とはほぼ重なる。初期の名曲『星のラブレター』の歌詞を引用する。
朝日通りは 夕飯時 いつもの野良犬たちが
僕の知らない 君の話 時々聞かせてくれた
年をとって生命がつきて 星のかけらになっても
昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる
私は小学生の頃まで「朝日通り」とその商店街の近くに住んでいたので、とても懐かしい所だ。甲府の中心からは少し離れてはいたが、「朝日シネマ」という映画館もあり、子供の頃通ったりしていた。宮沢和史が最初にギターを買ったという楽器店もあった。住宅街の中の商店街なので、華やかさはなく地味だったが、それなりの賑わいと身近な親しみがあった。今はさびれてしまったが、最近、若者たちが新たに店を構えるようになったのはたのもしい。「昨日聞かせた僕の歌 町中に流れてる」という歌詞の一節のような街の風景を取り戻してほしい。
宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅のすぐ北西側に位置する商店街の街並みは、志村正彦にとっての「下吉田」やかつてそこにあった商店街に相当するのではないだろうか。昭和30年代、40年代頃まではまだ、「朝日通り」界隈には「路地裏」があった。郊外へと発展していった都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として、「路地」や「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年、昭和55年に富士吉田で生まれた志村正彦は、昭和の名残のある「路地」や「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。
宮沢和史の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」や『釣りに行こう』の甲府の荒川の源流など、山梨、甲府盆地の中にある。路地裏のような場と自然豊かな場の二つがある。彼は、その場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。
志村正彦の場合、下吉田、「いつもの丘」、そして富士山の景観というように、やはり、路地裏のような場と自然豊かな場の双方がある。
山梨に住む者にとって、街中の路地裏のような狭い場所から視点を少しずらして遠くを眺めると、向こう側に高峰の山々や雄大な自然が見えるという経験が日常的にある。もちろん、どこにでもこのようなことはあるのだが、山梨の場合、そのギャップが甚だしい。風景がワープするような感じ、とでも言えばいいのだろうか。私たちはもちろん「愛をこめて」その風景を眺めているのだが。
この独特の風景の構成が、宮沢和史や志村正彦の歌詞の世界を根底から支えている。
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