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2014年4月6日日曜日

THE BOOM、解散。

 
   前回、ザ・ブームの宮沢和史について触れたが、その翌日3月31日に、THE BOOM
解散という発表があった。86年の結成から28年が経ち、89年のデビューからは25周年という節目の年に解散を決めたようだ。この知らせに驚くと共にある感慨を覚えた。

 以前書いたように、1989年、風土記の丘で開かれた山梨初ライブに出かけた。それから90年代中頃までは、毎年のように甲府の県民文化ホールで開かれたコンサートに通った。アルバムで言えば、1st『A PEACETIME BOOM』[1989年]、2nd『サイレンのおひさま』[1989年]から4th『思春期』[1992年]にかけての初期のものだ。どれも質の高い作品だったが、特に3rd『JAPANESKA』[1990年]は、「JAPAN+SKA」というネーミングとコンセプトが素晴らしく、歌詞もサウンドも独創的で、日本語のロックの歴史に残る傑作アルバムだった。

 曲で言うと、彼らの代表曲となった『星のラブレター』『釣りに行こう』『中央線』『からたち野道』等は、故郷山梨の風景とも絡まり合い、私たちにとって記憶に残る歌であり続けている。『虹が出たなら』『気球に乗って』『子供らに花束を』等の深い問いかけを持つ歌、『ないないないの国』『なし』等のナンセンスでユーモアのある歌。80年代後半から90年代前半にかけてのいわゆる「バンドブーム」の時代で、宮沢和史は、ユニコーンの奥田民生と双璧をなす、たぐいまれな才能だった。奥田と共に、日本語のロックの歌詞にそれまでにない広がりや豊かさを与えた。

  宮沢和史には『詞人から詩人へ』という、彼の好きな近現代詩を朗読して紹介するCD付きの書物もある。ロックのフィールドの中でも最も近現代詩を読み込み、歌詞を創作している「詞人」であり「詩人」であった。(彼の歌詞については、この《偶景web》でいつか丁寧に論じてみたい)
 

  公式サイトの「ファンの皆様へ」という文には、「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」というメンバーの言葉がある。
 宮沢・小林・山川という甲府で生まれ育った同級生に、千葉出身の栃木氏が加わって結成されたこのバンドは、「同級生バンド」の色彩が強い。めまぐるしい変転を続ける音楽業界の中で、中断期間はあったにせよ、一度もメンバー交代がなく、『島唄』の大ヒットを始めとして幾つものヒット曲を出し、ファンにも恵まれた彼らは、確かに「日本一幸せなロックバンド」だったろう。解散を宣言する文で、このような言葉を使えること自体とても幸福なことだ。

 宮沢和史そしてギター小林孝至、ベース山川浩正は50歳近くになり、ドラム栃木孝夫は50歳を超えている。宮沢・小林・山川氏と同郷で、栃木氏と同世代の人間として、本当にご苦労さまでしたと心から述べたい。宮沢氏は頸椎症の療養中のようだ。何よりも健康を大切にしてほしい。(私の今の職場には、甲府南高校時代の宮沢和史の同級生が二人もいる。「MIYA」は高校生の頃から「男気」のあるやつだったらしい。甲府は小さい街なので、こういうことが割とある)

 最後に、公式サイトの「MOOBMENT CLUB スタッフ一同」の言葉もとても感動的なので紹介したい。

 THE BOOMというバンド名は、彼らの歌や音楽が一時のブームで終わらないように、という思いを込めて逆説的に名付けられたものです。「星のラブレター」の歌詞に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても/昨日聴かせた僕の歌/町中に流れてる」と記されているように、願わくは、彼らの歌たちが、たとえ詠み人知らずとなっても、いつまでも皆さんに愛していただき、 歌い継がれていきますように…。

 実は前回、偶然ではあるが、同じ箇所を引用して考えた際に、「年をとって命がつきて/星のかけらになっても」という言葉にある種の感銘を受けていたことを記しておきたい。
 二十五年前、この歌を初めて聴いたときにはこの言葉はそんなに印象に残らなかった。むしろ常套句のように感じていた。しかし、時の重みが歌の解釈を変えることがある。それは作者の意図を超えることもある。『星のラブレター』には、文字通りの「年」や「命」、そして「時」への想いが貫かれている。歌い手も聴き手も、年を重ねることで、歌の本来の意味があらわになってくる。

 何十年、何百年と時が経っても、「詠み人知らず」となっても、歌い継がれていくこと。それがすべての歌にとっての究極の願いだろう。 

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