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2014年3月9日日曜日

「僕ひとりから、誰かひとりに」 クボケンジ

 クボケンジは『言葉と魔法 クボケンジ詩集』(2011年4月30日、テンカラット刊 企画・編集江森丈晃)所収の 「クボケンジ インタビュー」で、自分の歌が誰から誰に向けられたものであるのかということについて、次のように述べている。

 どうしても僕ひとりから、誰かひとりに向けられたものになってしまうんです。

 確かに、「詞論5」の最後でも触れたように、初期から現在まで、歌の主体「俺」「僕」という「ひとり」が、「君」「あなた」という「ひとり」に向けて語りかけるのが、クボケンジの歌詞の物語の枠組みとなっていることが多い。このような歌の枠組みは普遍的にあるが、クボの場合、その必然の度合いが他とは異なる。『ソト』の該当箇所をもう一度引用してみよう。

 どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に
 悲しみのトンネルは あとどれくらい
 くぐればあえる?


 歌の主体「俺」という「ひとり」が、どこかに隠れている対象である、「彼」か「君」か自分自身か、誰であろうとも、「もうひとり」に向けて、「出て来い俺の前に」と話しかけている。
 この『ソト』は、2002年リリースの『ギンガ』収録曲だから、クボの最も初期の歌だ。初期だからというわけでもないが、ここに登場する「俺」自身も「彼」も「君」も、具体的な人物像を欠いたきわめて抽象的な人物という気がする。全体が影絵のような世界のように感じとれると言っていいだろうか。この点について、クボは興味深いことを『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、星新一のSF小説からの影響についてこう述べている。

 彼の作品は、状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて、そこがすごく好みなんですよ。自分の歌詞でも、それほど人の顔は浮かんでこないし。すごく影響を受けていると思いますね。

 人物の具体性を省いた造形は意識的な選択であるらしい。だからクボの歌詞の場合、聴き手が人物像を想像して補填することになる。物語の展開についても、欠落や飛躍があり、様々な解釈が生まれる余白をあえて設けている。
 クボは、解釈は聴き手の自由であり、「音楽としては"どう聴かれても伝わるものになっているかどうか"というのが重要なんです」と確信をこめて語っている。自己表現としての歌ではなく、聴き手に「伝える」ことを重視した歌、聴き手中心の歌という点で、志村正彦の考え方とかなり重なる。クボと志村が親友であったのは、人間としての交流の次元だけでなく、歌詞の創作についての姿勢に根本的な共通項があったからではないだろうか。

 2月14日の渋公ライブでも歌われた『ビスケット』は、2012年発売の『ミュージックシーン』収録曲だから、『ソト』からは10年以上の時が経っている。
 『ソト』は「出かけようぜ」、『ビスケット』は「もっと 遠くまで」とあり、何かの旅立ちが歌の枠組みにモチーフになっていることは共通している。しかし、歌詞のモチーフそのものは異なる。この二つの歌は強引に接ぎ木する必要はないが、対象に対する歌の主体の関わり方にはある種の共通性がある。
  『ソト』には、「どこに隠れているんだい 出て来い俺の前に」とあるように、どこかに隠れている、今は見失われた対象が歌詞の背景にあり、『ビスケット』には、「あふれそうな I miss you」とあるように、失われた「you」の存在が歌の中心にある。歌詞の一節を引きたい。

 もういいや もういいや 君の夢でも みよう
 楽しい事 楽しい事
 肝心な時はやはり 出てきてもくれないか


 歌の主体は、「君の夢」を見ようと考える。しかし、「肝心な時」は「君」は「出てきてもくれない」。夢にも現れてこない。この「君」が誰であるのかは、歌詞の言葉からたどることはできない。先ほどの引用で「状況は浮かぶんだけど、主人公の顔は浮かびそうで浮かばなくて」と同様の世界が広がっている。歌詞の内部の次元では、「君」の像を限定することはできない。しかし、歌詞の外部、現実の次元、現実にクボケンジ自身が経験した出来事の次元にまで広げていけば、この「君」の像の中心に志村正彦が位置していることは間違いない。(すでに「LN30」で、「無意識の次元まで考えていけば、クボケンジの『ビスケット』の一連の言葉の流れから、志村正彦との関係の痕跡が浮かび上がってくるような気がしてならない」と書いたが、今回、クボの全作品をたどり直してみると、その感がさらに強まる)

 「僕ひとりから、誰かひとりに」というクボの自己注釈の「誰かひとり」は、失われている対象であることが多い。このモチーフは、クボの歌詞の変わらない部分を代表している。しかし、『ソト』に比べて、『ビスケット』では、「ひとり」の誰かが失われ、そのことによって、歌の主体が損なわれてしまった感覚がより強い。これは作者クボケンジの現実の変化に起因している。
 『言葉と魔法 クボケンジ詩集』のインタビューで、質問者(江森丈晃氏だと思われるが、明記されてはいない)の問いかけに対して、次のように応えている。

-これはとても訊きづらいことなのですが、ここまでの変化というのは、志村(正彦/フジファブリック)さんが亡くなられたことと関係していますか?

 ……関係しているというか、それがすべてなような気がします。……あれ以来、何もかもが変わってしまったようなところがあるんですよ。(略)……あの日を境に、空気が変わってしまったんです……。それに伴って、人生観も変わったというか、達観したような感覚があるんですね。……でもその感情を"悲しい"とか"寂しい"という言葉を使って歌うのはナシだと思ったから、歌詞だけ追ったのでは、誰もわからないようなものにはなっていると思います。前面に出しては歌いたくないんで。

 志村正彦の死という現実の出来事によって、「何もかもが変わってしまったようなところがある」が、志村正彦はクボにとっての「誰かひとり」という場に存在し続けることになった。志村の死は、彼の御家族や「大親友」クボにとっては、受け入れがたい現実であり、受け入れる必要はないとも考えられる(私たちのような単なる聴き手が言及できる事柄ではない)。
 受け入れがたい現実であるが、避けることのできない現実、不可避の現実でもある。
 この不可避の現実に向きあい、それでも、歌を紡ぎ出していくことは、形容しようもないほどに、辛くて難しい歩みとなる。しかし、『アポリア』以降、クボケンジ、メレンゲは、その困難な道を歩んでいる。
 もちろん、クボケンジ、メレンゲの聴き手は、志村正彦の死という現実を意識しても、意識していなくても、クボの言葉が伝えようとする「誰かひとり」を自由に解釈できる。そのような自由を保つためにも、クボケンジは、時間をかけて、あるいは時間と闘いながら、作品を創造し続けている。

 2月14日のクボケンジは、洒落た柄のリボンが付いた茶色のハットを被っていた。彼には茶色の帽子が似合う。その姿を見て、数日前に視聴した、フジファブリックの渋公ライブ映像(4月発売の「Live at 渋谷公会堂」DVD」[2006年12月25日収録]のMUSIC ON! TV 放送版)の志村正彦の帽子姿を想い出した。
 志村正彦が帽子(スタッフから借りたものらしい)を被ってステージに立ったのはこの時が初めてだったそうだ。茶色がかったグレー色に見える帽子だった。彼が持っていた十数の帽子の中では、中原中也の被った山高帽に似た黒い帽子が印象深いが、茶色の洒落たハットも、やわらかいあたたかい感覚があって、よく似合っている。

 クボケンジと志村正彦、2014年2月14日と2006年12月25日、渋谷公会堂で歌う二人の帽子姿。その像を頭に浮かべながら、3回続いたこの「詞論」、メレンゲ渋公ライブについてのエッセイを閉じることにしたい。

2 件のコメント:

  1. 「言葉と魔法 クボケンジ詩集」は、クボさんのファンにとっても、志村さんのファンにとっても、貴重な一冊です。

    「ギンガ」含め、「初恋サンセット」や「少女プラシーボ」などの楽曲から受ける印象は、「アポリア」や「ミュージックシーン」から受けるものとは全く違うものですね。

    ごく最近、初期の作品と出会いの機会を頂いたので、もしかしたら時間の経過と共に感想が変わるかも知れませんが、まるでクボさんが大切な思い出の宝箱をそっと開け、ふと飛び出てきた一つの宝物を手にとって、映画のワンシーンでも書くようにそれを表現している感を受けました。

    でも、「アポリア」以降は、虚無感、喪失感などが、現実味をもって痛切に迫りくるような気がします。そういう楽曲たちは、なぜか決まって音楽と歌詞が裏腹なのです。
    これからのメレンゲ、期待して見守りたいです。

    時を越え、次元を越え、何かが他者に伝わる瞬間が音楽の中であるということは、彼ら二人が「本物」を伝えられるミュージシャンだということに他なりません。

    詳細にわたるメレンゲ詞論、ありがとうございました。とても勉強になりました。

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  2.  聴き手がいつも、クボケンジの作品を志村正彦との関係という観点で語り続けることは、クボさんにとって、ある種の不自由や束縛をもたらすおそれもある、と常々感じていました。どのような観点にせよ、それが聴き手の欲望から発していることに違いはなく、聴き手は自らの欲望に自覚的でなければならない、と自らに戒めています。「志村正彦LN」ではなく、「詞論」という枠に載せたのも、その一環です。

     ただし、今回、クボさんの作品を初期から現在まで通して聴いていく内に、私たち聴き手の欲望などという次元を越えて、クボケンジと志村正彦との間には、ある本質的な結びつき、他の何かには還元できないような、決定的なつながりがあることをますます感じるようになりました。
     『アポリア』収録の『火の鳥』から、その絆が最も強く伝わってきます。あの歌詞には、クボケンジの「僕ひとりから、誰かひとりに」と共に、志村正彦の「僕ひとりから、誰かひとりに」が書き込まれています。二人の対話が刻まれている、希有な作品です。いつか『火の鳥』のことを丁寧に時間をかけて書いてみたいです。

     コメント、ありがとうございました。山梨はすごく冷たい風が吹く毎日で、冬の真っ直中。桜の季節の到来が遅れそうです。4月13日まで、あと一月ほど、吉田の桜はどうなるのでしょうか。案外、ちょうどよい頃になるかもしれません。

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