2026年9月13日日曜日

八月の演劇、八月の追憶。

 九月に入り、長雨というか大雨が続く。被害も甚大だ。これから天候がどうなっていくのか。そんな不安が日常のものとなる。

 八月はもう去ってしまったが、演劇や合唱の公演を四つ見ることができた。今日はそのことを振り返りたい。


 8月8日、甲府の朝日町ベース。劇団ナマクラの第2回公演『パーマメント』。

 主宰者の仙河典(せんがつかさ)さんは山梨英和大学の私のゼミ生。演劇の脚本を卒業制作にする予定だ。今回の脚本についても事前に助言を求められたので、テーマやモチーフの展開や統一性についていくつかアドバイスをした。

 『パーマメント』には悩める女性「ハジメ」、契約社員の天使「モモセ」、二人が住むアパートの大家、アラフォー世代の「レイ」の3人の女性が登場する。「愛」をめぐるテーマに真っ向から向き合った劇である。

 当日は二回公演。あいにく雨模様だったが、会場のある朝日町通りを歩いて夕方の部に行った。この通りは甲府の中心街から少し離れたところにあり、周囲にも路地裏の感じがある。THE BOOMの「星のラブレター」で「朝日通りは夕飯時」と歌われた場所でもある。僕は小学生の頃までこの近くで暮らしていたので思い出がたくさんある通りだ。

 会場はコンパクトなレンタルスペース。二十数人いた観客と役者との距離が近い。脚本完成から公演までの時間が短くて準備が大変だったようだが、その割には仙河さんの脚本を三人の役者が的確に演じていた。観客も次第に劇の世界に引き込まれていった。演技の動きや身体の振りをもっと工夫し、脚本の完成度をさらに高めれば、今日の愛についての深い問いを投げかける作品になるだろう。


 8月20日、新宿の紀伊國屋ホール。第三舞台2026の『パレイドリア』。

 鴻上尚史の主宰する第三舞台が2012年の解散から15年を経て、2026年に再集結したメンバーによるユニット公演。僕は解散公演の『深呼吸する惑星』を見ていたのでそれ以来の第三舞台だった。

 鴻上が早稲田の学生の時、第三舞台を結成したのは有名な話だ。その当時僕も早稲田に通っていた。いくつも劇団があり、文学部のスロープに立て看板がいつも並んでいた。大隈講堂の裏のテントで芝居を見たこともある。暗いテントの中で役者が全速で走り回っていた記憶だけがある(第三舞台でなかったことだけは確かだが)。

 『パレイドリア』は、大学の児童ボランティアサークルで子ども向けの芝居を準備していたが、ある出来事が起こり、公演が中止となった。それから42年後。認知症になった「乾(大高洋夫)」が再結集を呼びかけ、かつての仲間たち(小須田康人、長野里美、山下裕子、筒井真理子[映像])が再び集まる。皆、六十代だ。観客も同世代か少し下の世代が多かったが、若者もけっこういた。

 学生時代から現在までの四十数年の時間。現実の第三舞台と虚構の児童ボランティアサークルというメタ的な構造。このような時間と構造を通して、学生時代の出来事に焦点が当てられ、劇の主題が明らかにされてゆく。ラストシーンが秀逸だった。思わず落涙。これまで見た演劇の中で最も感動した場面だと言える。時間、構造、主題が絡み合って、僕自身の学生時代から今日までの軌跡をいろいろと想い出していた。鴻上尚史という同世代の優れた表現者がいることは心強い。


 8月22日、甲府のYCC県民文化ホール小ホール。第64回早稲田大学合唱団サマーコンサートin甲府。

 早稲田の合唱団は最初に校歌を歌った。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」。一番は斉唱風に二番は合唱風にとアレンジが工夫され、学生たちの声が会場に美しく広がっていった。この校歌を聴くと学生の頃にタイムスリップする。日本文学専攻の宴会の最後では必ず、学生と教授が肩を組んで歌った。

 近現代詩をモチーフにした合唱曲、「愛は勝つ」などのJポップの名曲が歌われた後、山梨とのコラボステージ「よっちゃばれ!みんなで彩るハーモニー」で、地元のシャンソン歌手小倉浩二氏、山梨の和太鼓団体、山梨英和大学演劇部の寸劇が行われた。僕のゼミ学生がこの寸劇の脚本・演出を手がけ、自ら出演もした。武田信玄の合戦をめぐって平和を考えるというモチーフだった。

 この後、早稲田大学合唱団とコラボステージの出演者が舞台に上がって歌い始めた。志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」だった。百人近い人々が声を合わせて「ないかな ないよな きっとね いないよな」と歌っていく。早稲田の合唱団は直前合宿でしっかりと練習してきたようでハーモニーがとても綺麗だった。僕の胸がいっぱいになったことは言うまでもない。

 公演終了後、学生に「若者のすべて」を選んだ理由を尋ねると山梨出身のフジファブリックの歌だったからと答えてくれた。それでも、THE BOOMもレミオロメンもマカロニえんぴつもいるなかでなぜこの歌だったのかとも思ったのだが、数日後その答えが分かった。寸劇を担当したゼミ学生にこの話題を向けたところ、三ヶ月ほど前の打ち合わせの際に早稲田の学生からコラボステージで山梨ゆかりの曲のどれがおすすめかと聞かれたときに、彼が「若者のすべて」を推薦したそうである。このゼミ生に感謝した(なんと先生思いの学生だろう!)。


 8月23日、甲州市の市民文化会館。劇作家の水木亮さんが脚本と演出を手がけた演劇「別れの日」。80代、90代を含む17人のアマチュアからなるユニットだった。

 物語は、東京大空襲で家族を失い、甲府の親類に引き取られた主人公テルが遊郭で身を売りながらシベリアに抑留された兄の帰りを待つ姿を中心に、戦後復興期の山梨の女性たちを描いていた。

 戦後、水木さん自身が朝鮮半島から引き上げて日本に帰国した。その際に弟を亡くしている。この過酷な経験が創作の原点となっている。水木さんは、現在の政治が戦前に戻りつつあり、ささやかではあるがあらがいたいと考えたそうである。

 会場には260人ほどが集まり、1時間20分ほどの劇を熱心に見ていた。高齢者が多かったが、家族連れもいた。子どもたちには難しかったかもしれないが、何かは伝わったことだろう。

 水木さんは早稲田の文学部で日本文学、大学院で演劇を専攻し、民俗芸能を研究していた。山梨の高校教師となり、長い間、高校演劇の指導に携わった。自ら劇団も作り、脚本や小説も執筆し、著書も多い。八十歳を超えた現在でも山梨の演劇の中心人物として活躍している。


 八月はたまたま、鴻上尚史の第三舞台2026、早稲田大学合唱団、水木亮のユニットと、早稲田大学の出身者や在学生の演劇や合唱を鑑賞することができた。山梨英和大学の僕のゼミ生の演劇も見ることができた。

 四十数年前、追憶の中の学生たち。今、教員として接する学生たち。時代は変わるが、学生の本質は変わらない。

 表現の衝動。創作の熱意。孤独と連帯。若者のすべてがそこにある。


2026年9月7日月曜日

レアの夢・二つの世界・〈現実的なもの〉-五十嵐哲也『環の国にて』2

 今回は、黒板当番・五十嵐哲也氏の『環の国にて』第二部トコロボの重要なシーンに焦点を当てたい。四回ほど続いた五十嵐氏の作品についての批評的エッセイのフィナーレとなる。(できるだけ「ネタバレ」を避けたいですが、論の展開上、重要な箇所に言及することをあらかじめご了承ください)


 『環の国にて』の主人公、若い女性のレアは土星の衛星の氷の中にある〈宝物〉を探すための調査に出かける。

 あるとき、土星の惑星エンケドラスの内部海の大きな氷塊の割れ目から、手の平くらいの大きさのU字型の物体を見つける。おもちゃのロボットのようなものだった。

 レアはその物体を〈トコロボ〉と名づけ、手話による対話を始める。


レアとトコロボ


 ある日レアは夢を見る。第二部SCENE 30「夢の中で」の該当箇所を引用する。

 夢のなかで、自分はレアではなく、暗い海のなかでさまよういきものになっている。人の形はしているけれど、人間ではないなにか。冷たい水の底でひとりぼっちでいると、いつも自分を見つけてくれる小さな〈ともだち〉がいた。


 その〈ともだち〉はレアを〈目的地〉に連れて行こうとする。けれども、その目的地にはたどりつけない。夢はいつもその手前で終わってしまうからだ。これは我々の見る夢の特質である。しかし、この日だけは特別だった。レアは目的地の〈海の底の平原〉に行くことができたのだ。

 レアが上を見上げると、明るい光を投げかける生き物たちがたくさん浮かんで、あたりを照らしていた。自分たちの光を浴びて、彼らの姿は、まるで小さな白い花が空にたくさん散らばっているみたいだった。夜空の星のような、舞い散る雪のような、たくさんの花。


 海の底ではたくさんの生き物が明るい光を浴びて、小さな白い花のように光っている。レアはその美しい光景を見てある洞察に至る。

 レアは気付いた。そうだ、ここはトコロボの故郷なんだ。私はいま、トコロボの住む性界にいて、このともだちは、トコロボの本当の姿なんだ。私はいつも夢のなかで、この海のなかでもトコロボに会っていた。そしていつもトコロボに助けてもらつていたんだ。


 レアが夢の中でたどりつこうとした目的地はトコロボの故郷だった。そして、その世界で暮らす小さな生き物がトコロボの本当の姿であった。レアはすでにある予感を持っていた。第1部SCENE 2「千億の宝石の河」の場面で、レアがふと何かを感じて、〈誰かが、この環のどこかにいるような気がした〉とあったが、この〈誰か〉とはトコロボのことだった。レアは夢から覚めた後でも夢で見たことをはっきりと覚えていて、〈この夢は、ただの夢。それとも、自分が見たのは、どこかにある現実の場所なのだろうか?〉と考える。


 第二部SCENE 31「二つの世界」では、レアの世界とトコロボの世界という二つの世界の関係についてある重要なことが示される。


 レアは海の底で別の生き物になる。ヒトの目では決して見えない暗い海底の光や色彩を見ること、ヒトの可聴域をはるかに超えて響く音や声を聞くことができた。自分とはまったく違った身体になり、トコロボの本当の姿である生き物に遭遇する。

 レアが自分の見た夢を語り終え、デルス先生たちのミーティングに参加すると、次の仮説が生まれる。

 それは、トコロボはロボットではなく、どこか別の世界に棲む生物がリモートで動かしている仮の身体なのだ。そしてレアも同じように、夢の中でその海底にある別の肉体にアクセスし、お互いが別の身体で相手の世界を訪れているのではないか。


 つまり、仮の身体のトコロボと別の肉体のレアが互いに夢の中で相手の本体と交流している。レアはこの海が衛星エンケラドスの内部海だと推測する。レアが描いた夢の中の海底の風景はエンケラドス生命圏の想像図だった。

 さらに、異星人〈氷売り〉が九万四千年前にここを訪れ、互いが別の身体で相手の世界を訪れる技術を残したいう仮説も生まれる。〈氷売り〉は、地球の生命とエンケラドスの生命が互いの生態系を脅かさずに相互交流できる方法として、トコロボを残していった。 レアは最終的にある結論に至る。

 トコロボは〈氷売り)が作った一種の受信機のようなもので、トコロボの本当の姿は、環の国のすぐ近くをめぐる衛星エンケラドスの海の中で、仲間たちと一緒に暮らす〈トコトコ族)のひとりなのかもしれない。


 衛星エンケラドスの海の中の生物〈トコトコ族〉がトコロボの本当の姿だった。


 この〈トコトコ族〉は前作『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』に登場している。この作品では、トコトコはその名のとおリトコトコと歩き回る生き物で、珍しいものを探して旅をするのが大好きだった。『環の国にて』では、本体の生き物〈トコトコ〉とリモートで動かされる仮の身体〈トコロボ〉の二つに分化しているのだろう。レアは〈トコトコのひとりがレアの世界ではトコロボだった。レアは環の国とエンケドラスの海の底という二つの世界のあいだでトコロボと対話しているのだった〉と考えた。


 五十嵐哲也『環の国にて』はレアの見る夢が鍵となる作品である。

 筆者は芥川龍之介や志賀直哉の夢をモチーフとする作品を精神分析家ジャック・ラカンの理論に依拠して分析した論文を書いてきたが、この作品についても同様の試みをしたい。


 ラカンはセミネール第11巻『精神分析の四基本概念』(Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse 1963-1964、『 精神分析の四基本概念(上)  小出 浩之・新宮 一成・鈴木 國文・小川 豊昭 訳  岩波文庫 2020)の「無意識と反復」で、フロイトを参照して、人間という主体と夢との関係について次のように述べている。


 フロイトは主体に次のことを言うために主体に語りかけた、と言いたいのです。つまり、「この夢という領野、そこでこそあなたは我が家に居るのです。Wo es war, soll Ich werden.(それがあったところに、私はあらねばならない)」、と。


 さらに、ラカン理論の核となる〈現実的なもの〉を導入して次のように説いている。


 主体自身はそこに、つまり「それがあったところ」に――先取りして言うと、現実的なものに――自身を再び見出すために、そこに居るのです。〔……〕そしてそこに居ることを知るには、たった一つしか方法はありません。それは網目に目印をつけることです。では、網目はどうやって目印をつけられるのでしょう。それは、戻ることによって、帰ることによって、道を横切ることによってです。つまり何かがつねに同じ仕方で重なることによってです。


 人間主体にとって夢は〈我が家〉である。夢は、〈現実的なもの〉とラカンによって名づけられたもの、〈それがあったところ〉である。人間主体は〈現実的なもの〉に自身を再び見出そうとする。「再び」とされるのは、主体はかつてその〈現実的なもの〉の場に居たことを暗に示している。

  〈現実的なもの〉はフランス語の〈Le Réel〉の訳語だが、この語は〈現実界〉とも訳されている。ラカンの唱える〈現実的なもの〉は、私たちが生きている通常の〈現実〉とは異なる。〈現実的なもの〉は、本質的に、言語によって語ることもイメージによって描くこともできない。表象することが不可能なものである。その不可能なものを説明することは難しいのだが、引用したラカンの文脈では、〈現実的なもの〉は、人間が元々あったところ、人間が本来あるべきところ、人間が最終的に帰還すべき場所だとひとまず考えることができる。その帰還は夢の中で可能となることがある。夢の中で人間の無意識が開かれると、一瞬の幻のように〈現実的なもの〉が現れることがある。しかし、あくまでも夢の中での出来事であり、現実の中では不可能である。言語やイメージなどの意識的行為によって〈現実的なもの〉を示すことは不可能だが、無意識の活動によって〈現実的なもの〉が浮かび上がることはありえる。〈現実的なもの〉は意識によって閉じられるが、無意識によって開かれるとも言えるだろう。

 主体が夢の中で〈現実的なもの〉を見出すための方法として、夢の中の〈網目〉に目印をつけることが挙げられる。ここで織物の編目という比喩が使われていることに注目したい。ラカンは夢を構成する一つ一つの要素をシニフィアンと名付けている。私たちの喜怒哀楽の経験はシニフィアンとして無意識の中に記憶され、やがて、その記憶と何らかの関係を持つような出来事との遭遇によって、シニフィアンが多様に連鎖し、イメージを形成し、夢を構築していく。


 人間主体は夢を見る。そしてその夢の中で、シニフィアンの網目に目印をつけようとする。網目に目印をつけることは自らの記憶やそれに関わる出来事を想起することでもある。夢の網目の中で、進む、戻る、帰る、横切るなどの反復行為によって、〈現実的なもの〉を見出そうとする。人間が本来あるべきところに帰還しようとする。

 「環の国にて」という作品の場合、レアは〈スライディング〉の技術を使って、土星の環の空間を自在に飛び回る。レアは土星の惑星の編み目をたどるようにして、上昇したり下降したり、横切ったり時に戻ったりして、空間を移動していく。夢の中では、海の底に入り、風景を眺め、生物と遭遇する。その行路は、ラカンの言う〈現実的なもの〉を見出すための軌跡に類似している。

 レアは夢の中で〈目的地〉を目指して進んでいく。レアの夢の中の〈目的地〉、気配として感じた〈誰か〉がいる場所は、レアにとっての〈現実的なもの〉の場だと捉えられる。レアは本来あるべき場、自らが帰るべき場所を意識的無意識的に目的地にして、探索の旅を続けたのではないだろうか。『環の国にて』の物語の枠組はSF小説のものだが、レアの物語は内面の旅、無意識の次元の旅でもあるだろう。


 レアの夢のシーン、二つの世界という仮説提示の後も、物語は進んでいく。地球、富士山、故郷、スペースシャットル、手紙という重要なモチーフが展開していく。ぜひこの作品を読んでいただきたい。


 最後に五十嵐氏の作品の全体を振り返りたい。




 2018年の『トコトコとスペースシャットルの宇宙のハタオリトラベル』で、山梨の織物工場で使われていた〈シャットル〉が宇宙を旅する〈スペースシャットル〉となり、土星の衛星エンケラドスの氷の下の海に住む小さな生き物たち〈トコトコ〉に出会う物語を作り、2025年の『環の国にて』では、〈レア〉という女性が〈トコロボ〉という小型ロボットを発見し、夢の中でエンケラドスの〈トコトコ〉と遭遇する物語に発展させていった。

 ハタオリとシャットル=スペースシャットルを基軸にして、地球・山梨・富士北麓と土星・環の国・エンケドラスという宇宙の空間、人間レアと未知の存在トコロボ=トコトコの遭遇と交流という要素を織り込んで、宇宙空間を舞台とするSF小説として『環の国にて』を編み出すことに五十嵐氏のモチーフがあったと言えるだろうが、筆者はレアの夢の中の出来事を語ることも重要なモチーフであったと考えている。レアの夢のシーンは非常に魅力的だ。


 リモートで動かされる仮の身体のトコロボと別の肉体にアクセスしたレアが、夢の中で互いに相手の本体と交流する。夢もまた人間主体が見る仮想の世界である。夢という仮想の世界で二つの仮想の存在が遭遇するというアイディアが秀逸である。

 さらに踏み込んで言うと、五十嵐氏はレアの夢を通じて、レアにとっての〈現実的なもの〉、レアが本来あるべきところ、レアが最終的に帰還するところを黒板画のイメージとして描き、物語のテクストとして語ろうとしたのではないだろうか。これは五十嵐氏の無意識な次元での創造であるかもしれないが。筆者はそのような想いにとらわれた。

 黒板画というイメージ、SFのストーリーというテクストを編物・ファブリックのように織り込んで、地球・富士北麓と土星の環の国・エンケラドス、〈レア〉と〈トコロボ=トコトコ〉という二つの空間と存在を描き、語った。ラカンの理論に依拠した筆者の観点からすると、〈現実〉と〈現実的なもの〉という二つの世界を構築していった。


 五十嵐哲也『環の国にて』(Life in the Rings of Saturn)は、秀麗なイメージと秀逸なテクストを融合させた真に独創的な作品である。