芥川龍之介「馬の脚」は、彼の物語的な特質を持つ小説のほとんどがそうであるように典拠となる物語がある。忍野半三郎が冥界から馬の脚をつけて現世へと帰還するという話は、中国の南北朝時代の怪異や不思議な話を集めた小説集『幽明録』中の「士人甲」に基づいている。「士人甲」は、一度死んだ人間が何らかの理由で息を吹き返し現世に戻ってくるという蘇生譚である。その概要が次の通りである。
晋の元帝の時代、〈甲〉という人物が突然病死し冥界に行った。しかし、寿命を管理する司命が記録を再調査すると甲の寿命は尽きていないことが判明した。冥吏が甲を人間界に帰らせようとしたが、甲の足はひどく痛み、歩くことができないために、新しく冥界に召した胡人の足を代わりに付けて現世へと帰還させた。
「馬の脚」と「士人甲」の違いは、取り付ける脚が馬のものか胡人(中国の北や西の辺境に住む異民族)のものかという点である。芥川龍之介は「士人甲」を基にして、馬の脚という奇想天外な要素を加えることでさらに不可思議な要素を強めていった。
小説の語り方も複雑である。
話者の〈わたし〉は、小説の世界のすべてのことを知ることできる全知的視点で語っているが、最後の方になると、小説の世界の中に登場して、一人称の限定的視点で語るようになる。しかも、作者芥川龍之介の知人である現実の人間「岡田三郎」が登場し、〈わたし〉に手紙をよこす。話者の視点も転換し、虚構の中に現実が侵入していくると自由自在な語り方である。小説としては破綻しかねないが、この奇妙な構造が奇妙な内容に見合っているとも言える。
忍野半三郎の失踪の場面を振り返りたい。
現世へ戻った後、半三郎は馬の脚によって起こる苦労や困難を日記に記す。そうこうしているうちに、失踪の時を迎える。この場面は社宅の使用人に目撃されていた。その箇所を引用する。
――半三郎は何かに追われるように社宅の玄関へ躍り出た。それからほんの一瞬間、玄関の先に佇んでいた。が、身震いを一つすると、ちょうど馬の嘶きに似た、気味の悪い声を残しながら、往来を罩めた黄塵の中へまっしぐらに走って行ってしまった。……
この〈黄塵〉はモンゴルから運ばれて来る砂埃である。半三郎がその足を付けた馬はモンゴル産だった。だから黄塵の到来によって馬は故郷へ走り出した。〈何かに追われるように〉とあることから、この失踪は半三郎自身の意思ではなく、馬の脚の故郷への帰還の力に引きずられるようにして起こった。彼が馬の嘶きに似た気味の悪い声を発したということは、彼の身体がさらに馬に変化してきたことを示してる。
また、話者はこの失踪の直前の場面で〈半三郎を家庭へ縛りつけた人間の鎖の断たれる時である〉と語っていることから、話者とその背後にいる作者はこの疾走が半三郎と人間との鎖が断絶する出来事だと捉えていた。
この失踪ついて、常子、半三郎の同僚、半三郎の死を判定した〈山井博士〉、現地の新聞「順天時報」の主筆〈牟多口氏〉はいずれも半三郎の〈発狂〉のためだと解釈した。牟多口氏は「順天時報」の社説で、山井博士が半三郎の状況を〈多少精神に異常を呈せるもの〉と見ていたこと、半三郎の日記から〈常に奇怪なる恐迫観念を有したる〉と書いた。さらに、国体は家族主義の上に立つという理念からこう主張している。
家族主義の上に立つものとせば、一家の主人たる責任のいかに重大なるかは問うを待たず。この一家の主人にして妄に発狂する権利ありや否や? 吾人はかかる疑問の前に断乎として否と答うるものなり。
語に曰、其罪を悪んで其人を悪まずと。吾人は素より忍野氏に酷ならんとするものにあらざるなり。然れども軽忽に発狂したる罪は鼓を鳴らして責めざるべからず。否、忍野氏の罪のみならんや。発狂禁止令を等閑に附せる歴代政府の失政をも天に替って責めざるべからず。
つまり、〈牟多口氏〉の主張は、国体の家族主義を崩壊させるので一家の主人には〈発狂する権利〉がなく、政府も〈発狂禁止令〉を出すべきだというものである。この国体保持のための家族主義は、この時代の日本や中国などのアジアの国家の特質であろう。芥川龍之介はそれを批判的に考えたので、牟多口氏にこのような主張をさせたのであろう。牟多口(むだぐち)つまり無駄口という滑稽な名を与えていることでシニカルにユーモラスに表現した。忍野半三郎(おしのはんざぶろう)、常子(つねこ)、山井(やまい)博士という人物名も同様の命名である。
前回述べた常子と半三郎との短い再会後、常子は夫の馬の脚を信ずるようになったが、他の登場人物は依然としてそのことを信じない。常子が馬の脚を見たことも幻覚だとしている。
半三郎自身は自らの失踪について何も語っていない。常子は馬の脚を信じることになったので失踪の原因を関連があると思っているだろう。半三郎と常子にとって馬の脚は現実であるが、他の人物は、半三郎の日記に書かれた馬の脚についての記述は精神異常による幻覚であり、その結果の失踪だと考えている。精神医学的な言説や国家主義的な言説がその背景にある。
芥川の「馬の脚」は、『幽明録』の「士人甲」の蘇生譚に基づいて、胡人の脚ではなくの馬の脚を取り付けるという奇想天外なモチーフを付加さて、主人公の失踪の原因について精神医学的な言説や国家主義的な言説を織り交ぜて、芥川の言う「大人に読ませるお伽噺」を構築していった。その展開の中で注目されるのは、前回述べた半三郎と常子の再会の場面である。
月光の薄明りのもとで半三郎と常子は再会して、二人の眼差しが交錯する。薄明りによって半三郎の〈馬の脚〉が露になる。一瞬の偶景である。半三郎は「常子、……」と呼びかけ、常子は「あなた!」と三度呼びかける。常子の半三郎への愛おしさと〈馬の脚〉に対する嫌悪が交錯する。結局、半三郎は再び姿を消す。このごく短い間の光景、声の交換、心情の揺らめきがこの小説の中心にある。
物語の枠組みに偶景・声・心情という要素を複合させて多層的な構造を作ることが、芥川龍之介の小説の特徴であり魅力である。