一昨日8月4日、フジファブリック 20th anniversary SPECIAL LIVE at TOKYO GARDEN THEATER 2024「THE BEST MOMENT」を見てきた。熟考したいことがあるのだが、それは後日に譲ることにして、一昨日の余韻が残るうちに書いておきたいことを記す。
東京での夜のライブの場合、いつもは日帰り。時間を気にしながらあわただしく甲府に帰るのだが、この日はゆっくりとライブを味わいたかった。会場隣のホテルを予約して午後3時にチェックイン、ひとやすみしてから開演間近に会場に向かった。壁面の大型画面に、山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一の画像が表示され、三人のやわらかい微笑みが来場者を迎え入れた。
会場のキャパシティは八千人。チケットは売り切れたそうだ。年齢層が広い。親子連れもいる。二代にわたるファンなのだろう。僕と妻の年齢でもあまり疎外感はなかった。
座席は、バルコニー3のHというステージに面してかなり右側に寄ったエリアにあった。かなり高い位置から斜め下のステージを見下ろす。傾斜がきつすぎるが、会場のほぼ全体がサイドの側から見渡せた。視野のなかに八千人の観客がいたのは壮観だった。ライブが始まると、記念のペンライトの光が輝いた。曲にあわせて色合が変化していく。
2000年、志村正彦はフジファブリックを始めた。2004年のメジャーデビュー、2009年の志村逝去を経て、2024年の現在、八千人ほどの観客がこの場に集っている。7月3日発表の「大切なお知らせ」のなかで、志村を失った後、〈フジファブリックという大切な場所を音楽を作り続けながら守っていくという覚悟〉という言葉がある。山内・金澤・加藤の三人にとって、フジファブリックは大切な場であったと同様に、ファンにとっても大切な場であった。この日の東京ガーデンシアターという会場自体が大切な場として可視化されていた。
山内・金澤・加藤の三人は、フジファブリックという大切な場を〈音楽を作り続けながら守っていく〉ことを選択した。ギター担当だった山内総一郎をメインボーカル、フロントマンに起用して音楽を作り続けた。バンドを解散し、新しいバンドを作り、周年や特別な機会にあわせて、ゲストボーカル方式で志村の作品を演奏していくという選択肢もあっただろう。しかし、彼らはフジファブリックとしての新作をリリースしていくかたちでフジファブリックを存続させようとした。
僕自身は2019年の〈「15周年」への違和感〉という記事で、〈フジファブリックは2009年12月でその円環が閉じられた〉〈志村正彦のフジファブリックと2010年以降のプロジェクト・フジファブリックとの間には、作品そのものの根本的な差異がある〉と書いた。現在もこの考え方は基本的には変わらない。その時点では2010年以降のフジファブリックを「プロジェクト・フジファブリック」と名付け、その目的が〈志村正彦の作品を継承すること〉〈山内総一郎のフジファブリックを確立すること〉だと捉えていた。
フジファブリックのバンドとしての継続が、『FAB BOX』のⅠ・Ⅱ・Ⅲなどの音源や映像のリリースや新しいファンの獲得につながり、結果として〈志村正彦の作品を継承すること〉に大きな役割を果たしたことは間違いない。このライブを通じて〈山内総一郎のフジファブリック〉のファンもかなりの数に上っていることが実感できた。〈山内総一郎のフジファブリックを確立すること〉というプロジェクトもある程度まで成功したのだろう。
「プロジェクト・フジファブリック」のそのような展開のなかで、活動休止が告げられた。なぜこの時期なのか、という問いへの答えがこのライブで伝えられるかもしれないという期待はあった。この点に関しては、金澤ダイスケが、フジファブリックの活動に区切りをつけると言いきった。大型モニターには硬い表情をした金澤が映し出された。彼の脱退の意思が活動休止につながった。そのことに対する複雑な気持ちもあっただろう。しかし、彼は静かに毅然として区切るという意思を示したことが心に強く残った。金澤にとってこれからもフジファブリックは大切な場であり続けるのだろうが、〈音楽を作り続けながら守っていく〉場であることには区切りをつけたのだ。
ここ十数年の間でも『若者のすべて』が示すように、志村正彦・フジファブリックの作品は広く浸透していった。『若者のすべて』は夏の定番ソングの一つとなり、数多くの歌い手からカバーされ、高校音楽の教科書に掲載されるようになった。最近では、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』の劇中歌となり、映画の重要なモチーフを支えた。フジファブリックが独自で特異な世界を創造したことが、日本語ロックの歴史のなかで高く評価された。三人が〈音楽を作り続けながら守っていく〉必要は薄れていったと言える。このことが金澤の決断の理由の一つだと推測する。
ライブ前の数日、三人体制後のアルバム、特に2016年から2024年までの『STAND!!』『F』『I Love You』『PORTRAIT』を繰り返し聴いた。〈山内総一郎のフジファブリック〉だけでなく、〈金澤ダイスケのフジファブリック〉〈加藤慎一のフジファブリック〉も存在し、各々が時を追うごとに進化していることに気づいた(この四枚のアルバムを断片的にしか聴いていなかったのは自分の不明だった)。〈山内総一郎のフジファブリック〉〈金澤ダイスケのフジファブリック〉〈加藤慎一のフジファブリック〉という言い方をしたのは、彼らの作品の根柢には志村正彦の歌詞と楽曲があるように感じられるからだ。ここでは具体的に指摘しないが、言葉やモチーフには意識的無意識的に志村の世界の痕跡があることは確かだろう。
さらに踏み込めば、〈フジファブリック〉という枠組から離れても、三人の作品が作品として自立する可能性も出てきた。三人のソングライターとしての能力が上がってきた。逆説的だが、フジファブリックとしての〈音楽を作り続けながら守っていく〉ことはむしろ、彼ら自身の音楽を成長させた。活動休止後は、山内総一郎・金澤ダイスケ・加藤慎一は各々が自分の音楽を創造していけばよい。このことが活動休止の第二の理由となったのではないだろうか。
金澤は、志村正彦に対する感謝とこのライブの企画に関わった志村家への感謝を語った。御家族は、志村正彦の尊厳と彼の作品を大切に大切に守ってきた。振り返ってみれば、2010年のフジフジ富士Qライブや周年ごとの記念ライブの会場で、このような感謝の言葉が観客に向けて率直に語られたことはなかった。この感謝の明確な表明は重要なことだったと考える。
ライブの内容については後日書いてみたいが、『モノノケハカランダ』『陽炎』『バウムクーヘン』『若者のすべて』と、志村正彦の音源・映像とステージでの生演奏を複合させた演出。志村正彦の画像や映像をこのライブのテーマである「THE BEST MOMENT」の瞬間としてつなげていく演出は見事だった。画像ではあるが、彼の表情とその変化に魅了された。時には強い眼差しで、時には憂いを秘め、時には笑顔で見つめている。これまで公開されたことがない画像(記憶違いでなければ)もあった。
『陽炎』の志村の声が聞こえてくると、涙腺がゆるんできた。この歌は、聴き手の感覚や記憶に直接作用する。そのまま、過去の時や場へと持って行かれる。〈きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう/きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう/またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ/出来事が 胸を締めつける〉のところで涙が落ちてきた。〈無くなったもの〉と〈変わらず過ごしている〉もの。この二つの対比はそのまま、志村正彦とこの場にいる者たちを表している。この日の『陽炎』は特にそのように迫ってきた。アウトロのラストが金澤ダイスケが実際に弾くピアノ音で終わったことにも心を動かされた。
結成十周年の武道館ライブの際は、志村の歌う声に演奏を重ねるものであり、画像はなかった。この日のアンコールでの『茜色の夕日』も同様の演出だったが、冒頭で富士吉田市民会館での志村の〈この曲を歌うために僕はずっと頑張ってきたような気がします〉というMCが入った。『茜色の夕日』以外の四曲で志村の画像が大型モニターに映し出されたことはまったく予想していなかったので、この演出には驚いたが、それ以上に、この演出は最初でおそらく最後のものなのだろうとも思った。
ほんとうにフジファブリックの活動は終わるのだ。しかし、音源や映像のなかの志村正彦・フジファブリックはこれからも生き続ける。言葉の真の意味において、志村正彦が創造した作品は永遠である。この会場にいる八千人の聴き手、この場には来られなかった数千、潜在的には数万に上る聴き手、そして未来の無数の聴き手にとって。
演奏は2時間40分に及んだ。密度の濃いライブを集中して見て聴いたので、心も体も重いものを受けとめたように疲れきった。このところの酷暑や年齢のせいもあるだろう。終了後すぐに隣のホテルに戻れたのは幸いだった。だが、なかなか眠ることができないので、Xをリアルタイムで検索して様々な呟きを読んだ。
フジファブリックとしての活動、音源のリリースやライブの開催という〈場〉は失われる。これからは、聴き手一人ひとりが自ら〈場〉となって、フジファブリックを聴き続ける。そんなことを思い浮かべながら、ようやく眠りにつくことができた。
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