今日2月23日は富士山の日。そのことに合わせたのかは分からないが、昨夜、日付が変わるとすぐに、「フジファブリック最新情報」メールが届いた。
「GYAO!にて「フジファブリック 10th anniversary Live at 日本武道館 2014」特別編集版公開開始!」とあったので、早速クリック。深夜の故、オープニング、『桜の季節』『陽炎』と『卒業』だけを見て、今夜、残りを見終わった。
ところどころに観客の映像が入る。その姿、姿に引き寄せられる。自分のいた位置とは異なるアングルで再体験することで、3ヶ月前の記憶が別の形でよみがえってくる。このエッセイで記憶を頼りにして記した『卒業』の背景映像もほぼその通りだったが、雲の流れと動きがよりダイナミックだったことに気づいた。
3月15日までの配信(http://gyao.yahoo.co.jp/music-live/player/monthly02/fujifabric)ではあるが、誰もが無料でこの映像を見ることができるのは有り難い。
ただし、あのライブで最も記憶に刻まれたシーンは欠けている。志村正彦の《声》が歌う『茜色の夕日』だ。もちろん、無料配信ですべてを流す必要はない。このシーンとの《再会》は、4月8日発売の『Live at 日本武道館』まで待つべきなのだろう。
前回論じた《再会》のモチーフについて、この3週間の間考え続けてきたのだが、なかなか思考が展開できない。考えあぐねているところに、昨夜の映像配信で、あの日の武道館の《声》の感覚が再び強く迫ってきた。この感覚に導かれて、次のような断片が現れてきた。まとまりがないが、それを記してみたい。
この世界には、すでにその主体が不在であるが、主体の不在を超えて有り続けるもの、残り続けるものが存在する。そのようにして有り続けるものとは、例えば、その不在となった主体がかつて表した言葉である。記憶された言葉。記載された言葉。印刷され、刊行された言葉。言葉は有り続ける。
歌の場合、言葉だけでなく、《声》そのものが有り続ける。百年以上前から、録音や音盤制作という現代の技術によって、《声》が、その主体の不在を超えて、有り続けている。この《声》の現前は、それ以前とそれ以後で、歌の享受に決定的な変化をもたらした。あたりまえとなっているが、これは不可思議なことでもある。不在の主体の《声》は天使的な響きを持つ。
さらに今日、映像技術の飛躍によって、不在の主体そのものの《像》が記録され、《像が有り続ける。記録された《言葉》、《声》、《像》。その主体が不在であるにもかかわらず、《言》や《声》や《像》は、主体の不在を超えて存在し続ける。少なくとも、《言》や《声》や《像》の受け手がいる限り。
モニタやスクリーンの画面上にある《言葉》や《像》は、視覚的なもの、想像的なものとして、私たちに届いている。その経験にはどうしても視覚像という媒体、ある意味で回り道のような余計なものが差し挟まる。
しかし、《声》は異なる。再現された《声》ではあるが、聴覚像という媒体には還元されることなく、限りなく直接的に、聴覚に入り込む。耳に、身体に届く。《声》は、不在の主体を、あたかもそこで歌っているかのように現前させる。ありのままにありありと。
あの日の武道館で、演出や演奏やアレンジの次元を超えて、数分という短い時間ではあったが、志村正彦の《声》はその独自の存在のあり方で聴き手に届いた。
私たちは、《声》の直接性によって、《声》の現前によって、不在の主体と再会することができたのかもしれない。
(この項続く)
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