一昨日夜からの大雪で山梨は白銀の世界。甲府は40センチを超え、富士吉田も60センチ近く積もった。富士山の雪のイメージが強いせいか、山梨は雪が降る地域と思われていることが多いが、実際はそうではない。東京よりやや回数が多く、より深く積もるくらいの感じだ。20年ぶりの大雪で、昨日今日と、私たちの家と各々の実家の雪かきに大わらわだった。しかしながら、雪景色の故郷を眺められるのも、時の過ごし方としては贅沢な気がする。
今回は「志村正彦LN」に戻り、LN63以来中断していた1stCD『フジファブリック』についての論の続きを書きたい。
アルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』から始まる。「東京vs.自分」の変奏として、「東京VS故郷、富士吉田」というような主題が潜在している。四季盤の春夏秋冬の最初となる春の曲だから、CDの第1曲目となったのだろうが、この曲は最初を飾るにふさわしい独特の世界を持つ。
『桜の季節』には、《桜》という季節に特有の、「遠くの町に行く」「別れを告げる」という《出郷》と《別離》という主題が表されている、とひとまず言えるだろう。そして、《出郷》や《別離》の状況にある人と人とを結びつける《手紙》というモチーフが現れてくる。
志村正彦は、故郷の実家に甘えていては駄目だと考え、特にメジャデビュー後はあまり帰省しなかったようだ。本当は時には帰りたかったのだろうが、その気持ちを厳しく律していた彼にとって、故郷と結びつく手紙や電話は大切なものだった。
『音楽と人』2004年5月号に、上野三樹氏が志村正彦にインタビューしてまとめた、とても参考になる文が掲載されている。(取材日2004.3.15)このことについて『志村日記』に「今回の取材でも、様々な事を再認識した」と言及されている。メジャーデビューし、色々な取材を通じて、自らの歌詞の世界や音楽について振り返る機会が多くなったのだろう。
-今作の「桜の季節」は手紙がモチーフですが。手紙って、よく書かれますか。
「ほとんどないです。今って、メールがあるから、みんな手紙って書かないですよね。だから誰かが時折、手紙をくれたりすると驚くじゃないですか。家の母親とかよく送ってくるんですけど。そういうハッとする感じを出したかったんです。」
-お母さんに返事書かなきゃ。
「書かないです!恥ずかしい。(後略)」
男性が母親からの手紙に対して、恥ずかしくて返事が書けないと言うのは、我が身を振り返ってもよく分かる。もう少し年を重ねれば違ってくるかもしれないが、20歳代の息子は母親に対して、手紙という形ではなかなか向き合えない気がする。
志村正彦は手紙をとても大切にしていた。『志村日記』にそういう記述がある。実際に、彼は、家族、友人やファンからの手紙を全て保管していたようだ。
上野氏は『桜の季節』の「手紙」の役割について的確な指摘もしている。
-しかも結局書いたけど出してないでしょ、この曲。
「そうです。手紙を書いて、そこで終了している曲です。」
-そこでまたひとりになると。
「そうですね。」
作者自身が「手紙を書き、そこで終了している曲」だと述べている。言葉が発せられるが、その言葉は他者に届かない。繰りかえされるモチーフが、この歌では「投函されない手紙」に託されている。『桜の季節』の該当する箇所を引用してみる。
桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい?
桜のように舞い散って しまうのならばやるせない
ならば愛を込めて 手紙をしたためよう
作り話に花を咲かせ 僕は読み返しては感動している!
『桜の季節』を聴く度にいつもある問いが頭にもたげてくる。
「桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい? 桜のように舞い散って しまうのならばやるせない」という一節は、誰が誰に向かって発話したものなのかという問いだ。
普通、歌の主体「僕」がある他者に向かって話しかけていると捉えられるが、この歌の場合、その逆、ある他者が「僕」に向けて語った言葉を、手紙のような形で引用しているとも考えられる。
歌の主体「僕」は、この一節の言葉の送り手なのか、あるいは受け手なのか。そのどちらとも取ることができるのは、手紙のやりとりという相互性の効果かもしれない。
この一節を受ける「ならば」という一語はとても解釈が難しい。「ならば」という仮定の対象が複雑だからだ。(これについては『桜の季節』論でいつか展開したい)
とにかく、歌の主体は「ならば」と仮定して、その帰結、「愛を込めて 手紙をしたためよう」を語り出す。志村正彦は「愛」という言葉を歌詞の中でほとんど使わなかった。この「愛」も手紙に込められる愛、文面に込められる想いであり、直接、人に向けられる愛、名指しをされる愛ではない。
その手紙は「作り話に花を咲かせ」でいる。その後、歌の主体「僕」が登場し、「読み返しては感動している!」と感嘆符で歌いだされる。
「僕」は「作り話」を何度も読み返し、感動しているだけだ。「僕」の言葉が他者に向けられることはなく、閉じられた円環の中で反復される。
言葉は自分自身に戻ってくる。言葉は純度を増し、「感動」するようなものに化す。同時に、そのような閉じられた行為に対する「照れくささ」や「恥ずかしさ」を「僕」は感じ始めているのかもしれない。
あるいは、手紙に書きとめられた言葉は、現実の次元で、ある具体的な他者に向けられたものというより、何か別の次元の他者に向けられているようでもある。そう考えると、手紙自体が、言葉で表現される「歌」の比喩になる。その歌で語られる物語が「作り話」となる。
さらに、作者としての志村正彦の次元へ接続してみると、彼の「歌」そのものが、彼を差出人、聴き手を宛先人とする「手紙」だと捉えられる。
『桜の季節』は、志村正彦から私たち聴き手に送られた大切な手紙だ。
そして、『フジファブリック』というバンド名を付された1stアルバムは、手紙をモチーフとする歌を巻頭にして、『夜汽車』まで続く、十を数える手紙の連作だと受けとめることができるだろう。
(この項続く)
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