昨日5月2日の夜は、「忌野清志郎ナイト」と題して、ライブやドキュメンタリーの番組が、WOWOWで数本放送された。2009年という年の5月2日、忌野清志郎の58年の生涯が閉じられてしまった。この年の12月24日に、志村正彦は29歳という若さで亡くなっている。
この二人は、生まれた年が30年近く違い、親子ほどの年の差がある。この二人の間に何らかの交流があったという記事、あるいは志村正彦が忌野清志郎やRCサクセションについて言及している記事の存在を、寡聞にして知らない。(もしも何かご存じの方がいらっしゃるなら、コメント欄でご教示ください。お願いいたします。)
今のところ、曲の上でも歌詞の上でも、この二人には特別の「影響」関係があるようには見えない。ただし、日本語のロックの革新という歴史的な面では、何らかの「系譜」的なつながりがあるかもしれない。その問いに対しては、他の重要なアーティストと共に、いつか書いてみたい。志村正彦を「日本語のロック」の歴史の中に位置づけたいという構想が私にはある。まだまだ時間がかかるだろうが。
忌野清志郎は「日本語のロック」の第一世代の後期に属するアーティストだ。自ら書いた「日本語のロック」の歌詞とロックのリズム、サウンドをそれまでにはない手法で完璧に融合させた。非常に優れたパフォーマーとして、東京だけではなく全国の地方都市でツアーを行い、2千人程度の、時にはそれ以上の規模のホールの聴き手に(フォークやニューミュージックではなく、ロックという枠の中で)、圧倒的な説得力で伝えることに初めて成功した、「日本語のロック」の「KING OF ROCK」であった。
私事を書かせていただきたい。1980年のことだったと記憶する(不確かなので間違っているかもしれない。今回調べてみたが分からなかった。この年で正しいのなら、志村正彦が誕生した年にもあたる)。甲府の県民会館のホール(この建物は壊されて、今はもうない)でRCサクセションのコンサートが開かれた。20歳を少し超えたばかりの私も東京から帰省中だったので駆けつけることができた。当時は、「シングルマン」というLPレコード(ジャケットの絵がすばらしかった。棚に立てかけて見たものだった。LPの強みだ)の「甲州街道はもう秋なのさ」「スローバラード」等の名曲をよく聴いていた。
会場に入ると、「甲府にも、山梨にも、こんなにファンがいたのか」と驚くほどの人と熱気があり、演奏中に女の子が通路でダンスを始めたりして(当時の盛り上がりは今と異なり、自然発生的なところが良かった)、その場は「ロックの祝祭の空間」と化していた。私も気がついたら最前列の方に進んでいたので、よほど興奮していたのだろう。日本のロック・コンサートで、後にも先にも、あんなに楽しんで騒ぐことができたものはなかった。あの頃の忌野清志郎、RCサクセションは、心と体に強く響く、最高のロックの創造者だった。
すでに30年を超す月日がたつ。それなりの年齢となった私が今、あの頃の忌野清志郎、そして志村正彦をこのような形で書くこと自体が、とても不思議な感じがするが、書きのこしておきたいという強い想いがある。若い頃「ロック」の洗礼を受けたものは、年を重ねても、「ロック」なんだという、時に言われることでもあり、気恥ずかしいことでもある事実が、この「志村正彦ライナーノーツ」の原動力の一つとなっている。
「忌野清志郎ナイト」のような企画があると、やはり、ファンとしては「志村正彦ナイト」「志村在籍時のフジファブリック・ナイト」のようなものを夢想してしまう。残念ながら、志村正彦は忌野清志郎ほどのメジャーな存在ではないので、「期待」と言えず「夢想」と言うしかないところが悲しいのだが。
それでも、WOWOWでは昨年7月に、フジファブリックの「フェス・ヒストリー・スペシャル」があり、志村正彦の貴重なライブ映像も放送されていた。WOWOWには、<ROCK IN JAPAN FESTIVAL>や<COUNTDOWN JAPAN>の映像が残されているので、何とか、時間は短くてもいいので、「志村正彦ナイト」のようなものを企画していただけないかと思う。それだけの価値のあるアーティストだということは確かなことなのだから。
付記 今回は直接、志村正彦の歌について書いてはいないので、別のシリーズにした方がよいかとも思ったが、異なるアーティストに触れることは、一見、志村正彦から離れるようではあるが、別の側面から近づくこともあると考えたので、同一のシリーズとさせていただいた。
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