今回は舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に戻り、そのラストシーンについて考えたい。
YouTubeの公式チャンネルに〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』Official Trailer 【舞台映像Ver.】〉がある。
映像の最初にあるのは舞台の最後のシーンである。
藤原竜也が演じる計算士の〈私〉、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの主人公が呟く。
ここは世界の終わり 何もかもがあり 何もかもがない
小説と舞台のラストシーンは異なる。(これについては後の回で触れたい)
そもそも〈私〉自身が〈世界の終わり〉という事態を認識しているわけではない。〈世界の終わり〉は〈私〉の無意識の核にあるから、意識に上ることはない。25節で、無意識の世界で情報の暗号化を行う〈シャフリング〉のシステムを開発した〈博士〉は〈私〉にこう説明する。
「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」
「わかりませんね」と私は言った。
「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかく、そうなのです。あんたの意識の中では世界は終っておる。逆に言えばあんたの意識は世界の終りの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在しておるはずのものがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです」
〈私〉には現実世界から消えていく運命が待っていた。〈博士〉はさらにこう言う。
しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを
27節になると、〈博士〉は〈私〉に〈世界の終わり〉についてこう告げる。
それは安らかな世界です。あんた自身が作りだしたあんた自身の世界です。あんたはそこであんた自身になることができます。そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない。
つまり、〈博士〉の〈そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない〉という言葉を、舞台の最後のシーンで〈私〉が語ることになる。〈私〉は〈博士〉という他者の言葉によって〈私〉の〈世界の終わり〉を認識することができた。
小説では39節の「ハードボイルド・ワンダーランド」パートと40節の「世界の終り」パートの二つの終わり方がある。
39節の「ハード」パートのラストシーン。〈私〉は海の見える港の倉庫に車を駐めてボブ・ディランのテープを聴く。雨ふりのことを考えながら最後の時を迎える。
やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を覆った。
眠りがやってきたのだ。
私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を開じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。
〈私〉は雨が降る中で深い眠りに落ちていく。それは死ではない。〈世界の終わり〉への転位である。〈世界の終わり〉には何もかもがあり、何もかもがない。しかしともかくも、そこでは〈私〉と〈僕〉は自分が失ったものを取り戻すことができる。
40節の「世界」パートのラストシーン。〈影〉は現実へと帰って行った。〈僕〉は街に残った。〈僕〉はこう考える。
影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。
降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。
この舞台でもその方向で演出されていた。藤原竜也は〈私〉であり同時に〈僕〉であった。藤原竜也の〈ここは世界の終わり 何もかもがあり 何もかもがない〉という声によって、観客は〈舞台の終わり〉を迎えることになった。
〈僕〉〈私〉は、〈何もかもがあり 何もかもがない〉〈世界の終わり〉の街で、〈手風琴〉で音楽を奏で、〈一角獣〉の〈頭骨〉の夢を読み解き、〈君〉〈彼女〉の〈心〉を取り戻そうとする。二人はやがて〈森〉へと向かうかもしれない。そのようにして〈僕〉〈私〉は失ったものを回復していく。
(この項続く)
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