昭和14(1939)年9月、太宰治は甲府から東京の三鷹へ転居したが、その後も何度も甲府を訪れている。妻美智子の実家、湯村温泉の旅館明治、甲府中心街の東洋館などに滞在して小説を執筆した。昭和20(1945)年4月、東京の空襲に遭い、甲府に疎開してきた。
甲府の詩人一瀬稔は「太宰治点描―太宰治(1)」「追憶の酒―太宰治(2)」(『忘れ得ぬ人びと』甲陽書房 1986)で、その頃の太宰と井伏鱒二との思い出を語っている。まず、「追憶の酒」から引用したい。
ぼくが太宰さんに初めてお会いしたのは昭和十七年ごろで、その当時太宰さんは、東京の三鷹から水門町の奥さんの実家と湯村温泉に滞在して創作に専念、夜はたいがい市内のどこかで酒を飲んでおられた。そんな時いつも甲運村(現在甲府市に編入)へ疎開されていた井伏鱒二氏がご一緒だったようである。ぼくが特に親しくおつき合いねがったのは、終戦の前の年から、甲府が戦災を受けて太宰さんが津軽の生家へ引き揚げるまでの一年余りの期間である。
一瀬は太宰や井伏と甲府近郊の川魚料理屋へ行った思い出を語っている。
ぼくらは座敷に通されて、きっそく酒になった。飲むほとに酔うほどに太宰さんはすっかり上機嫌になり、酔った時のいつもの調子でにぎやかにはしゃぎ、「ぼくは今夜こそこの甲州に骨を埋める覚悟を決めましたよ」とくり返し言うのだった。
一瀬はこの太宰の発言について〈太宰さん特有の大仰なゼスチュアではあるが、それほどその晩の酔い心地は格別だったように思われた〉と述べている。太宰の甲府時代を振り返って、次のように評した。実際に太宰と交流した人の証言でもある。
太宰さんのいわゆる甲府時代というのは約五、六年間であるが、この期間は太宰さんの生涯の中で、生活的にも、精神的にもいちばん安定しており、ばりばりと仕事のできた文字通り脂ののった時期ではなかっただろうか。時代こそ暗かったが、気持ちにかげりがなく、飲めば闊達にはしゃぎ、太宰さんの周りにはいつも明るい雰囲気が漂っていた。
僕たち四、五人の常連も加わって、その峠の茶屋へ飲みにおしかけた。体の大きい田中さんは、その時学生服を着ていて、酔いが回るにつれてますます元気になり、果てはハチ巻などして、持ち前の蛮声で何やら大気焔をあげていた。太宰さんもこの遠来の愛弟子を加えての酒席がたいへん愉しかったと見え、殊更上気嫌で、「今夜は徹夜でのみ明かそうや」と言って、やんちゃな子供みたいにさかんにはしゃいでいた。その夜はとうとう夜明け近くまで飲みあかし、それぞれ酔いつぶれたような格好で畳の上にごろ寝してしまった。昼近くなって目を覚ましたが、また太宰さんの提唱で、すぐ近くの山へのぼって飲み直すことになった。各自一本ずつブドウ酒の壜をさげて(その頃は高級料理屋以外には清酒がなかったので、僕たちは主にブドウ酒を常飲していた)、同勢はそこから二丁ほど先の愛宕山へくり出した。
太宰治と愛弟子の田中英光、甲府の仲間たちがはしゃぐ姿が目に浮かぶ。ブドウ酒の壜とあるが、山梨では一升瓶のブドウ酒がよく飲まれる。愛宕山は甲府駅のすぐ北側にある。この山に少し登ると周囲を展望できる場所があり、甲府盆地の全景と富士山、御坂山系、南アルプスなどの山々がよく見える。夜景も美しい。昔も今も変わらない風景がある。
昭和20(1945)年7月6日深夜から7日未明までのあいだ、甲府は空襲された。焼け野原になってしまった日からまもなく、一瀬稔は街中を自転車で走る太宰を目撃する。
甲府の街が空襲で焼けて間もなくだった。ある日街を歩いていたら、少し離れた車道を、太宰さんが自転車で颯爽と走っていった。その時の太宰さんの服装はいまはっきりと記憶にないが、白い開襟シャツにカーキ色のズボン、それにゲートルを巻いて編上靴を穿いていたようだった。そして背中に空のリュックを背負っていた。その時人道を歩いていた僕は、とっさに声をかけようとしたが、太宰さんは何か急ぎの用事でもあるらしく、傍目もせず真っしぐらに走っていったので言葉をかける間もなかった。僕はその時、何かいつもの太宰さんとはまるで違った人でも見るような気がして立ちどまったまま、颯爽とペダルを踏んでいくそのうしろ姿をしばらく呆然と見送っていた。その時が最後で、太宰さんとはもう二度とお目にかかれなかった。
この後まもなく、太宰は家族を連れて故郷の津軽へ帰っていった。一瀬のもとに太宰から「来年になったら、またお会いして、ブドウ酒を飲み、ウナギを食べて文学の談を交わす事が出来るかと思い、たのしみにして居ります」という手紙が来た。
しかし、結局、太宰治が再び甲府を訪れることはなかった。昭和20年7月が甲府との別れの時となった。
甲府空襲の後、太宰は故郷津軽の実家へ疎開し、終戦を迎えた。津軽に一年半近く滞在し、昭和21(1946)年)11月、東京に戻った。もしも、という仮定をあえてするが、甲府空襲がなければ戦後もそのまま甲府でしばらくは暮らしていたかもしれない。太宰の人生や文学も異なる軌跡を描いたことだろう。
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