2025年10月26日日曜日

甲府の名所や街の喫茶店-太宰治と甲府 4

 新田精治は「甲府のころ」(八雲書店版『太宰治全集』附録2 昭和23年9月)で、昭和13(1938)年から14(1939)年までの太宰との思い出について書いている。「富岳百景」に登場する富士吉田の青年〈新田〉は新田精治がモデルになっていると思われる。「富岳百景」を引用する。

新田といふ二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきつた岳麓の吉田といふ細長い町の、郵便局につとめてゐて、そのひとが、郵便物に依つて、私がここに来てゐることを知つた、と言つて、峠の茶屋をたづねて来た。

〈新田〉が郵便局勤めで郵便物によって太宰治が天下茶屋にいることを知つたことは、おそらく「新樹の言葉」の郵便屋〈萩野〉の設定と行動に活かされているのだろう。


 新田は甲府で暮らし始めた太宰の家を何度か訪れた。その出来事を次のように回想している。

御崎町のお家は、空襲の時焼けてしまつたさうだけれど、御崎紳社の前あたりの小路を這入つて、一番奥まつた静かなお家だつた。『東京八景』に家賃六円五十銭と書かれてゐる、あのお家だつた。前にさゝやかな庭があり、花壇があつて、大きなバラがアーチみたいに植わつてゐた。陽当りのいゝ手頃なお住ひだつた。横手は桑畑で、街の騒音から遠く、一日ひつそりとしてゐた。御坂以来の静養で、御体の調子も好いらしく、指先なぞもう震へなかつた。(御坂に居られた頃は煙草を吸ふ時なぞ、幽かに指先が震へてゐた。)それに訪間客もなかつたので、僕等はお伺ひすると、湯村やら、武田神社やら遊び歩き、いつも終列車まで御邪魔した。『愛と美について』はこの頃書きためてをられた。

 現在、太宰の家の跡に「太宰治僑居跡」の石碑がある。そのすぐ近くに御崎紳社がある。西の方に歩くと二十分ほどで湯村温泉、北の方に歩くと二十五分ほどで武田信玄を祭神とする武田神社がある。太宰は昭和17年2月と翌年3月に湯村温泉の「旅館明治」に滞在して小説を書いた。この旅館は今年8月にリニューアルされて太宰治資料室も設けられた。

 太宰は青年たちを連れて甲府の名所や中心街を遊び歩いたようだ。『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」にもその体験が反映されているだろう。


桜が咲く頃、お訪ねすると、「君等が来ると言ふんで、甲府で一番綺麗なこのゐるうちを探しといたんだよ」と言つて、岡島の横のトレビアンといふ小さな喫茶店に案内して呉れた。十七、八と二十二、三位の女の子が、二人ゐて、どちらも美人だつた。「しつかりやれよ。男はね、一生のうち一人だけ女を騙してもいゝんだよ」と先生は囁いた。併し僕も田邊君も仲々もてなかつた。暫らく飲むと先生はばかに陽気になつて、「ナタアリヤ握手しませう。ナタアリヤ、キスしませう」と女の子の手を握つたり肩を抱かうとしたり、ネチネチからかひ出した。他の客は不安さうに僕等を見るし、女の子は寄りつかなくなるし、もてないことおびたゞしく、さんざんのしゆびでトレビアンを出ると、「君等は、なんてもてないんだらう、吉田からわざわざ来て、あんなに飲んだつて、何の収穫もなかつたぢやねえか。新田と田邊とぢやあ、僕だけが、もてるにきまつてゐるから、わざといやがらせをやつて嫌はれたんだよ」とクツクツと例の大笑ひをされた。

 〈岡島〉は岡島百貨店。江戸時代後期から茶商、呉服商、両替商をしていた。昭和13年(1938)年9月、甲府の中心街に地上5階の大型店舗を建設し百貨店の営業を始めた。ちょうど太宰が甲府で暮らし始めた頃である。その横の〈トレビアン〉という小さな喫茶店のことも調べてみたのだが分からなかった。当時から岡島の周辺は賑やかで店がたくさんあった。〈田邊〉は「富岳百景」で〈短歌の上手な青年〉として登場している。

 この岡島百貨店の店舗は甲府空襲でも焼けずに残った。その後、改築や増築を繰り返して総合百貨店として山梨県民に親しまれてきたが、2023年2月で閉店し、建物が解体されることになった。現在は近くの商業ビルの三階分のフロアに入り、屋号も〈岡島百貨店〉から〈岡島〉へ改称し営業している。


市制祭の日、街を見て歩き、澤田屋の二階の喫茶店へ這入つた。その日は音楽の話で、「ベエトーベンの第五なんか最も芸術的なものだが、同時に最も通俗的なものだね、あれなら誰だつてわかる筈だ。今やつてゐるあゝいふ俗悪な曲と違ふ」併しその時ラヂオが、やつてゐた俗悪な曲といふのは、丁度第五だつた。「ありやあ、なんだらう、聴いたことが、ある様だねえ」と先生、「あの俗悪な曲が、先生第五ですよ」と僕。「なんだ、さうか」と例の大笑ひ。街を歩き過ぎて疲れ、僕はウトウトと居睡りをしてゐると、激しい調子で先生が、何か言つてゐる。コックが註文したコーヒーを忘れて了つて、いつ迄も持つて来ないのを叱つてゐるのだつた。「余り待たせるんで、疲れて睡つてゐるぢやあないか。可哀さうに、忘れたなんて、失敬な、もういゝよ、出よう、出よう」と澤田屋を出た。僕は恐縮しながら、先生の愛情を感じた。 



 〈澤田屋〉は甲府の和菓子製造の老舗として現在も営業している。黒糖の羊羹でうぐいす餡を包んだ「くろ玉」が有名だ。レトロあまい、とでも言えるような上品な甘みが特徴である。昭和4(1929)年の誕生以来、ほとんど変わらない製法でひとつひとつ手づくりをしているそうだ。ロングセラーのお土産でもある。

 澤田屋のHPに昭和9年頃の澤田屋の写真があったので、ここに掲載させていただく。説明文には〈1階は店舗、2階はレストラン、3階は和室。3階建てのビルは当時珍しかったが甲府空襲によって消失〉と記されている。太宰たちが行った〈澤田屋の二階の喫茶店〉はこの2階を指していると思われる。澤田屋には今もカフェが併設されている。




 太宰が新田や田邊を連れて甲府の中心街を歩き、岡島百貨店横の喫茶店や澤田屋二階の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで愉快に話をして楽しく過ごした。僕と妻はシアターセントラルBe館で映画を見るときに、中心街の駐車場に車を駐めて、澤田屋の近くを歩いていくことがよくある。そのとき、太宰がここで青年たちと愉快な時を過ごしたことを想い出す。八十数年の時を隔てているが、甲府の街の同じ場所を歩くといろいろな想像が浮かんでくる。


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