僕の住む甲府では、毎年、九月の下旬には金木犀が香り出すのだが、今年はまったくその兆しもなかった。金木犀は気温があるところまで下がってくと、花が開花し、香り始める。今年はあまりにも猛暑が続いた。その影響で全国各地で金木犀の季節が遅れているようだ。
もしかすると今年はもう香らないなのかもしれない。そんな心配をしていたところ、一昨日から、家の周りからあの特別な香りが微かに漂い始めた。例年より二十日以上遅いことになる。暑い季節と寒い季節の二つが巡っているような季節感が定着しだした。秋は束の間に過ぎ去っていく。
毎年、金木犀が香り始めると、志村正彦・フジファブリックの『赤黄色の金木犀』の音源をあらためて聴くことにしている。大学の日本語表現の授業では、短い時間を使って曲の歌詞を分析して、日本語の詩的表現の特徴を伝えることがある。一昨日、この授業があった。このタイミングしかないと思って『赤黄色の金木犀』を取り上げた。学生に音源を聴かせた後で、特に〈赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって/何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道〉の箇所について次のようなことを語った。
- 香りというものは我々の記憶の深いところに作用する。意識にも上らない何かの出来事と金木犀の香りが結びつき、無意識の底に張り付いているのかもしれない。
- 〈何故か〉〈無駄に〉〈胸が〉〈騒いでしまう〉。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列による表現はなかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。〈胸が〉〈騒いでしまう〉想いの内実は明かされることなく、言葉の間に隠されているが、〈何故か〉〈無駄に〉という修飾語が痛切に響く。
- 歌詞の全体に三拍の言葉によるビート感があり、〈強・弱・弱〉の反復がリズムの区切りとなっている。特に〈何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道〉の〈なぜか・むだに・むねが・さわい・で・しまう・かえり・みち〉というフレーズは、三拍の頭の〈な・む・む・さ・し・か・み〉の強い響きが、何かに急き立てられるような感覚を打ち出す。
この九月サントリーが発売した発泡酒「金麦〈帰り道の金木犀〉」が、志村ファンの間で話題になった。そのWEBには〈アロマホップを使用し、上面発酵酵母を用いて醸造することで、甘く爽やかな香りを実現しました〉とある。〈帰り道の金木犀〉という命名は、〈帰り道〉〈金木犀〉という語を各々使うことはあるかもしれないが、〈帰り道〉〈の〉〈金木犀〉という言葉の連鎖になると、おそらく、「赤黄色の金木犀」の歌詞から着想を得たものだと思われる。あるいはむしろ、この歌に対するオマージュのような気もする。9月のアルコール飲料売上ランキングの1位はこの〈帰り道の金木犀〉だったという記事を読んだ。商品名のセンスが良いことも売れている要因だろう。
販売開始後まもなくスーパーで買ってきたのだが、僕は酒がまったく飲めない。缶を眺めるだけの日々が続いたが、昨夜、甘い香りがする酒を飲む夢を見た。これまで酒を飲む夢を見たことは一度もない。間違いなく、金木犀の香りがしたことにも触発されて、僕の無意識が〈帰り道の金木犀〉を飲みたいという欲望を成就させたかったのだろう。
今夜、10月17日のNHK「クラシックTV」という音楽番組を見た。テーマは「音楽会議ふたたび! エモいって何?」。〈最近よく耳にする「エモい」ってどういう意味?に音楽から迫る「音楽会議シリーズ」第2弾!エモい感情を生み出す音楽とは?おすすめの「エモ曲」と共にひも解きます〉という趣旨だった。
この番組で〈世の中には「これはエモい!」と感じるエモ曲があります〉というナレーションとともに、フジファブリック「若者のすべて」のMV映像が一瞬だけ流れた。志村の声も聞こえてきた。「エモ曲」の代表曲としての扱いだが、時間が短すぎて「エモい」感じに浸れなかった。他にいくつもの曲が紹介されていたが、音楽はそもそもエモいものである。
〈エモい〉の辞書的な意味は〈感情が揺さぶられて何とも言い表せない気持ちになること〉だと説明されていた。このような意味合いであれば、志村正彦のかなりの、というよりもほとんどすべての曲は、エモいと言える。「若者のすべて」は、当然、エモい。しかし、エモい感情や感覚が最もあふれている曲は、「赤黄色の金木犀」ではないだろうか。
この曲は聴き手の感情を揺さぶる。イントロとアウトロの志村によるアルペジオのギター音が流れ、歌詞の言葉は繊細に情緒深くつながる。曲が金木犀の香りを想起させる。音と言葉、様々な要素が複雑に共鳴して、感情を揺さぶり続け、何とも言えない気持ちにさせる。まさしく、〈何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道〉にいるようなエモい想いに聴き手は包まれる。
金木犀が香りはじめた。「赤黄色の金木犀」に耳を澄ました。「金麦〈帰り道の金木犀〉」の缶を眺めていた。甘く香る酒の夢を見た。何故か、無駄に、僕の無意識が騒いでしまった。