ページ

2024年9月29日日曜日

『若者のすべて』カバー、suis from ヨルシカ/大島美幸・こがけん/ガチャピン。[志村正彦LN355]

 2024年の夏は、suis from ヨルシカによる『若者のすべて』カバーが、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』の主題歌として話題を集めたが、大島美幸・こがけん、ガチャピンによる素晴らしいカバーが続いた。今日はこの三つのカバーについて触れたい。


 まず、suisのコメントから始めたい。suisは、10代後半の頃、あるアーティストの「若者のすべて」弾き語りカバーをライブ配信で聴いて、すごくいい曲だと衝撃を受けたそうだ。『suis from ヨルシカ 特集|フジファブリックの名曲「若者のすべて」カバーで描く“未知への希望”』という記事で、当時の想いについてこう述べている。

歌詞やメロディ、志村さんの歌声に“青春の延長”みたいなニュアンスを感じたんです。その頃の私は青春時代を過ごしていたんですけど、「これはいつか過ぎ去るものなんだ」と思っていて。「若者のすべて」には、過ぎ去ってしまった青春を未来から見ている感覚があったんだと思います。

 この歌を〈過ぎ去ってしまった青春を未来から見ている感覚〉として受けとめたというのが興味深い。志村正彦のかなりの作品には、未来から現在そして過去へと遡っていく視線があるからだ。時間への独特な眼差しが彼の歌に深みと広がりを与えている。

 suisが歌う『若者のすべて』には Music Videoがある。映像は、映画「余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。」ではなく、新たに制作された。監督は映画と同じ三木孝浩。二人の女の子は、映画で早坂秋人(永瀬廉)の妹夏海を演じていた月島琉衣と豊嶋花。キャスティングのつながりがあるので、あたかも早坂夏海の世代の物語のように見えてくる。

 suis from ヨルシカ 「若者のすべて」 Music Vide【2024/06/28】



 以前、「若者のすべて」の「僕ら」について次のように書いたことがある。

 「僕ら」とは誰なのか。
 『若者のすべて』の物語の鍵となる問いだ。「最後の花火」系列では、「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」と「まいったな まいったな 話すことに迷うな」という二つの対比的なモチーフが要となっている。「まぶた」を閉じた「僕」は「まぶた」の裏の幻の相手に対し「会ったら言えるかな」と、「まぶた」を開けた「僕」はその眼差しの向こうの現実の相手に対し「話すことに迷うな」と、心の中で語り出す。
 「僕ら」という一人称代名詞複数形によって指示されるのは、歌の主体「僕」と、「僕」の眼差しの対象である相手との二人であろう。「僕」の強い欲望の対象となっている相手であるから、恋愛の対象とみるのも自然だ。「僕」にとってその相手は、恋愛の関係である、あった、あるだろう、あるいはありたい、という枠組みで括られると読むのが普通なのだろう。しかし、恋愛の物語としての『若者のすべて』というのは動かしがたい解釈なのだろうか。
 「恋愛」という関係性は、その本質からして閉じられていくものだが、「僕らは変わるかな」という問い、「同じ空を見上げているよ」という眼差しからは、閉じられていくというよりも、開かれているような、そして、おだやかに変化しつつある関係性のようなものが伝わってくる。微妙ではあるが、その実質には「友愛」のような関係性も入り込んでいるように、私には感じられる。
 この場合の「友愛」とは、「愛」と呼ばれる関係からエロス的なものを排除したものであり、友人、仲間、同じ世代や同じ志を抱く共同体にゆるやかに広がっていく。そのような関係に基づく「僕ら」は、『若者のすべて』が収録されている『TEENAGER』のコンセプトにもつながるような気がする。十代の若者たち、今その世代に属する者も、かってその世代に属していた者も、これからその世代に属することになる者にとっても、「僕らは変わるかな」という問いはリアルなものであり続けるだろう。


 三木孝浩監督による「若者のすべて」Music Videoの「僕ら」は、月島琉衣と豊嶋花が演じる二人の女の子である。

 冒頭、花火のシーン。豊嶋花「ね」、月島琉衣「うん」、豊嶋花「来年もまた花火を一緒に見れるかな」。月島琉衣は返事をしないで少しだけ微笑む。豊嶋花は不安そうな表情。映像の最後では季節が冬へと変わり、二人はひとりひとりで別の場所にいる。この二人に何があったのかは、見る者の想像に委ねられているが、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」というフレーズに収斂していくことは間違いないだろう。


若者のすべて/フジファブリック/Miyuki Oshima/ Kogaken【2024/07/26】

  


 大島美幸[森三中]とこがけん(古賀憲太郎)のデュエットによる『若者のすべて』。このカバーの「僕ら」は、この歌を愛する同志、芸人仲間のことになるだろう。二人の生まれは1980年と1979年。志村正彦と同年、同世代である。同世代の「僕ら」が同じ空を見上げているかのように、美しいハーモニーで歌っている。


【最後の花火に今年もなったな】フジファブリック - 若者のすべてをガチャピンが歌ってみた。 Fujifabric - Wakamono No Subete 【2024/09/01】



 あのガチャピンが『若者のすべて』を歌う。これには驚いたが、聴いた後でその質の高さにさらに驚いた。東京お台場のフジテレビ本社などを背景に、ビルの屋上で佇みながら一人で孤独に歌う姿。夕方から夜にかけてのウォーターフロントの灯りがとても美しい。

街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
途切れた夢の続きをとり戻したくなって

 ガチャピンの〈途切れた夢の続き〉は何だろうか。そんなことを想う。ここからそう遠くはない場所で、フジファブリック20周年記念「THE BEST MOMENT」ライブが開かれたことも想い出す。いろいろな想いが浮かんでくる歌であり、映像である。


  志村正彦・フジファブリック 『若者のすべて』のカバーのすべては、すぐにはたどりきれないほどの数となっきたが、そのひとつひとつのすべてが愛おしい。夏の終わりの季節のこの歌は、つねにすでに懐かしくなる。


2024年9月22日日曜日

歌を創り歌う者、歌を歌い継ぐ者。[志村正彦LN354]

 映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』について断続的に四回書いてきたが、五回目の今回で完結させたい。(後半の重要な台詞についての引用があることをお断りしたい)


 映画の題名どおり、春菜と秋人は各々の余命を生き、各々が旅立っていく。しかし、二人の死があからさまに描かれることはない。むしろ、その死のあとに遺されたものに焦点があてられる。

 明菜が亡くなると、スケッチブックが遺される。そのなかの言葉が春菜の声で語られる。

(春菜)秋人君へ ここが 今の私にとっての天国です 秋人君は つらいばかりだった この場所を あたたかで まぶしい場所に変えてくれたんだ ここで 私はたぶん 一生分 笑えました ここで 一生分の涙を流しました 早く死にたいと思ってた私が 一日でも長く生きたいと思えるようになりました  秋人君のおかげで 本当に幸せだったよ だから秋人君も 私の分まで長生きして ーもっともっと幸せになってー もっともっと すてきな絵を描いてね 

  《回想シーン》(秋人)それ 何描いているの?(春菜)内緒

(春菜)そしていつか 空の向こうで おじいちゃんになった秋人君と再会できる日を 楽しみにしています そのときは 君のこと “親友”って呼んでもいいよね

最後に 数えきれない お花のお返しに 私も お花を贈るね

 春菜のスケッチブックには三本のガーベラが描かれていた。

 この後、秋人は懸命に絵を描き、出術を受けて、美大に合格し、家族と旅行に出かけ、綾香を良き友にして、余命を生き続けようとする。


 数年後、綾香は社会人となる。再入院した秋人の見舞いに行く途中で花屋に寄ると、あるSNSのサイトを見つける。秋人が春菜にあげたガーベラの画像があった。

 病院の屋上で秋人は、〈人生最後の絵〉いや〈春菜にもらった第二の人生最初の絵〉を描いている。秋人の腫瘍は転移し、死が迫っていた。綾香はガーベラの画像のあるSNSのことを秋人に教える。そこには限定公開のエリアがあった。秋人はパスワードを探しあてる。そこには、

  余命半年と宣告された私が、余命一年の彼と出会った話

という題名のもとに、一連の記述が続いていた。春菜の視点からのもう一つの物語が展開していく。この映画では、秋人による〈余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話〉と春菜による〈余命半年と宣告された私が、余命一年の彼と出会った話〉の二つの物語が重層的に織り込まれる。

 春菜の言葉のなかで大切なところを引用する。

(春菜)秋に生まれた君へ 

秋人君がくれたガーベラの写真と 私の思いをつづっておくことにしました

この記述から、春菜は秋人の余命のこともすべて知っていたことが、秋人に伝わる。そして、大切なことが記されていた。

そして私が先に死んで 空の上から君を見守るから

花火の夜 言えなかったことは 伝えないままでいくね

《8月20日花火の夜、回想シーン》

(春菜)あのね 私ね (花火の音)本当のこと言うと 秋人君のことが…

 ここでも、春菜の〈本当のこと〉は言葉として書かれることはなかった。 

(春菜)だけどもし 巡り巡って 君がこれに気づいてくれたら 信じたい それが ずっと意地悪だった神様が 最後に私にくれた贈り物なんだって ねえ 君はきっと 6本のガーベラの意味を知って届けてくれていたんだよね 長い間 病院暮らししてるとね 見舞い花の花言葉は ひととおり 覚えちゃうもんなんだ 秋人君も知ってると信じて 私は 3本のガーベラの花言葉を 君に贈ります

 春菜のスケッチブックに描かれた三本のガーベラの絵の画像がスマホの画面に映し出される。三本のガーベラの花言葉〈あなたを愛しています〉という意味だ。春菜から秋人へ、花の絵が、花の言葉が贈られる。

 秋人は余命宣告から3年半後に亡くなった。綾香が三本のガーベラの花束を二つ抱えて墓参りに行くシーンで映画は終わる。秋人と春菜だけでなく、綾香の物語もあることを忘れてはならない。この映画では、秋人、春菜、綾香の三人の物語が語られる。


 物語の終了後、エンドロールに、suis(ヨルシカ)が歌う『若者のすべて』が聞こえてくる。やがて、展覧会場のある絵がクローズアップされてくる。その絵のキャプションにはこうある。

  二科展入選作
  早坂秋人・桜井春奈共作
  ふたりの空 (油彩/キャンパス)

 この絵はもともと、春奈が自分のスケッチブックに描いていたものだ。その絵を秋人が油絵として完成させた。だから、二人の共作であり、題名も「ふたりの空」となったのだろう。

  エンドロールには次の表示があった。

  劇中使用曲
  「若者のすべて」フジファブリック 作詞・作曲 志村正彦

  主題歌
  「若者のすべて」suis from ヨルシカ 作詞・作曲 志村正彦 編曲 亀田誠治

 原曲とカバー曲は、劇中使用曲と主題歌として位置づけられている。そして、『若者のすべて』の作詞・作曲者が志村正彦であることを明確に記している。このようなクレジット表記にも、監督をはじめとする制作者側の志村正彦・フジファブリックへのリスペクトが感じられた。

 今回は、〈映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』予告編 - Netflix〉を添付する。suis(ヨルシカ)が『若者のすべて』を歌うヴァージョンの予告編だ。
 同じ映像を背景にしても、志村の声と歌い方、suisの声と歌い方とではずいぶん印象が異なる。それでも、映画本編には劇中使用曲として志村正彦の歌を使い、終了後の主題歌としてsuisの歌を使ったのは、“残す者、残される者”、“歌を創り歌う者、歌を歌い継ぐ者”というモチーフを徹底させたからだろう。



 
 あらためて、映画を見て、この二つの歌を聞き比べた。

 劇中の志村の歌は、あたかも志村が空の彼方から春菜と秋人を見守るかのように聞こえてくる。終了後のsuisの歌は、あたかも映画の鑑賞者の私たちの視点から、春菜と秋人の二人、そして志村正彦のいる空を見上げているかのように聞こえてくる。


 志村正彦は『若者のすべて』で、〈僕らは変わるかな 同じ空を見上げている〉と歌った。この歌詞の意味を受けとめると、三木孝浩監督映画『余命一年の僕が、余命半年の君に出会った話。』は、制作者が意図したように、死ではなく生を描こうとした作品であることが伝わってくる。

2024年9月8日日曜日

《小説の世界》《歌詞の世界》《現実の世界》 [志村正彦LN353]

 8月2日の記事〈虚構内の現実としての『若者のすべて』[志村正彦LN349]〉で、映画『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』の虚構の世界のなかで『若者のすべて』の作詞作曲者であり歌い手である志村正彦、フジファブリックの音楽が現実に存在していると書いた。一月ほど間が開いたが、再び、この映画について語りたい。

 なぜこの映画のなかに『若者のすべて』が存在しているのか。原作小説の森田碧『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』でも花火に関する出来事は語られているが、『若者のすべて』との関係は特にない。映画の方はこの曲を劇中使用曲にしたのだが、三木孝浩監督はその理由と経緯についてSTARDUSTのインタビューでこう述べている。


新たに作るのではなくて「みんなが知っている思いを乗せられる楽曲をモチーフにしたいね」という話が最初からあって、いろんな楽曲の候補が出た中でプロデューサーからフジファブリックの「若者のすべて」を提案してもらいました。僕もすごく好きな曲で、ヨルシカのsuis(スイ)ちゃんにカバーしてもらっているんですけど、志村さんが亡くなられた後もみんなが歌い繋げてきたという部分と、秋人と春奈の2人の思いをその先に生きていく人が引き継いでいく部分と同じだなと思う側面があって「これだ!」と思いました。この曲は夏の終わりの切なさを歌っているんですけど、僕はむしろ今この瞬間のエモーションを大切にしたいという曲の持っているポジティブなメッセージを2人の距離が近づいていくシーンで流したいという意図があって、この映画の切なさより力強さを表すことができたと思いました。


 『若者のすべて』を〈みんなが知っている思いを乗せられる楽曲〉として採用したようだが、この〈みんな〉には、現実の世界でこの歌を知っている〈みんな〉だけでなく、〈春菜〉を中心とする映画内の虚構の人間も含まれている。また、〈志村さんが亡くなられた後もみんなが歌い繋げてきたという部分〉と〈秋人と春奈の2人の思いをその先に生きていく人が引き継いでいく部分〉とを重ねあわせる意図があったようだ。監督をはじめとする制作者側は、『若者のすべて』の曲としての運命のようなものをこの映画の主題にも関わらせようとしている。現実と虚構の架橋をする効果も考えたのかもしれない。

 三木監督はWEBザテレビジョンのインタビューではこう語っている。


フジファブリックの志村正彦さんが作った曲で、志村さんは29歳の若さで亡くなっています。それでも、彼の音楽はいろんな人がカバーしていますし、引き継がれている。それがこの作品の“残す者、残される者”という部分にリンクしているな、と。


 つまり、志村正彦は亡くなったが作品は引き継がれている、という現実を強く意識し、その現実をこの映画の“残す者、残される者”というモチーフと結びけたことを率直に述べている。そのような意図があれば、志村正彦の声によるオリジナルの音源を劇中使用曲にするのは必然だった。


 この映画には、原作小説『余命一年と宣告された僕が、余命半年の君と出会った話』の《小説の世界》、『若者のすべて』で歌われる《歌詞の世界》、夭折した志村正彦の作品が歌われ聴かれ続けているという《現実の世界》という三つの世界が織り込まれている。《小説の世界》《歌詞の世界》《現実の世界》という三つの世界をつなけるのは、“残す者、残される者”というモチーフである。

 三つの世界を重ね合わせるという構想を実現させるのは、端的に言って難しい。この映画は、8月20日の花火をめぐる出来事までの前半とそれ以降の後半とに大きく分けられる(より正確に言うと三つに大別されるが、これについては後述したい)。秋人(永瀬廉)と春奈(出口夏希)が出会い、互いに対する想いを深めていく前半で、春奈が大切にしている歌として『若者のすべて』が流れる。歌詞にある〈最後の花火〉〈最後の最後の花火〉というモチーフが映画と密接な関係を持つ。しかし、後半では《花火》のモチーフは遠景に遠ざかり、《空》とその彼方というモチーフが強まっていく。歌詞のなかの言葉で言えば、最後のフレーズの〈僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ〉が前面に出てくる。


 前半と後半との間で一貫したモチーフとして登場しているのは、絵画と絵を描くこと、ガーベラの花とその花言葉である。そもそも、スケッチブックの絵が二人を結びつける契機となった。Netflix の一連の映像には、二人の出会いとスケッチブックの絵に焦点をあてたものがある。

その〈秋人を照らした春奈の無邪気な笑顔 | 余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。| Netflix Japan〉を紹介したい。




 この絵を描くことが、映画の後半とラストシーンにつながっていく。花火を見ることから、空を見上げること、さらに空の彼方を見つめることへとモチーフが展開していく。
 《花火》と《空》。この二つは『若者のすべて』の中心のモチーフである。
 
   (この項続く)