2004年4月14日、志村正彦・フジファブリックの「桜の季節」がメジャー・デビュー・シングルとしてリリースされた。すでにこの年の2月、ミニアルバム『アラモルト』がメジャーのプレデビュー盤として発売されているが、これはインディーズ時代の既発曲の再録音盤だ。新曲の「桜の季節」によって、フジファブリックはメジャーデビューを果たした。今日はその二十年目の日となる。
「桜の季節」についてはすでに30回ほどエッセイを書いてきた。今日はそのすべてを読み直してみた。この曲に初めて言及したのは志村正彦ライナーノーツの第4回。2013年3月18日の日付である。「志村正彦の歌の分かりにくさ」と題したそのエッセイの冒頭部を引いてみたい。
志村正彦の歌、その言葉の世界には、ある特有の分かりにくさがある。言葉の意味をたどっていっても、その意味がたどりきれない。その言葉が展開される文脈、背景が理解しにくい。歌が繰り広げられる舞台が明瞭でない。通常「僕」「私」という言葉で指示される、歌の話者や歌の世界の中の主人公としての主体の把握が難しい。そのような想いを抱いたことがある聴き手が多いであろう。少なくとも私にとって、彼の歌はそのように存在している。例えば、『桜の季節』はその代表ともいえる歌であろう。
志村の言葉の世界のある特有の分かりにくさの代表例として「桜の季節」があげられているが、この捉え方は基本として今も変わらない。ただし、分かりにくいというよりも、むしろ、言葉の世界を捉えようとしてもその向こう側に言葉が遠ざかっていくような感覚とでもいうべきかもしれない。分かる/分からないという対立ではなく、その対立を言葉自体が超えていってしまう。
そうは言っても、「桜の季節」の世界を何とかして捉えてみたいという気持ちもある。二十年を迎えた機会にその試みをあらためて書いてみよう。
この歌は〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉という二人称に対する問いかけと〈桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない〉という一人称へ回帰する想いとがループのように綾をなす。このループがグルーブとなって楽曲を貫いていく。この問いかけや想いのループには具体性がほとんどない。具体性が欠如しているからこそ、聴き手は「桜の節」の世界に召喚される。
しかし、ある程度具体的な出来事が描写されている、ひとまとまりの場面がある。
坂の下 手を振り 別れを告げる
車は消えて行く
そして追いかけていく
諦め立ち尽くす
心に決めたよ
〈坂の下〉と示された場がこの場面の舞台となる。歌の主体〈僕〉は手を振る、別れを告げる。〈車〉は消えて行く。〈僕〉は追いかけていく、諦め立ち尽くす。〈僕〉の一連の動作が現在形で叙述されている。〈僕〉が別れを告げた相手は車に乗って視界から消えてゆく。
この場面は〈心に決めたよ〉という完了の助動詞〈た〉と相手に対する呼びかけの助詞〈よ〉で終わっている。この〈心に決めた〉ことは何であるのか。この歌のすべてがその回答であるような気もするが、歌そのものはつぎのように展開していく。
oh ならば愛をこめて
so 手紙をしたためよう
作り話に花を咲かせ
僕は読み返しては 感動している!
歌の進行からすると、〈心に決めた〉ことはすぐ次のフレーズ、〈oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう〉が該当すると考えるのが自然だろう。〈oh〉と〈so〉という間投詞的な表現から始まるこの二つのフレーズは、この歌の中でも最もエモーショナルな部分だ。まさしく、〈心に決めたよ〉という声の残響が聞こえてくるようだ。
歌の主体〈僕〉は別れの相手に対して〈手紙〉をしたためることを決意する。その〈手紙〉には〈愛〉がこめられている。ここで終わればよくある恋愛物語になるだろう。しかし、志村の場合、物語は折れ曲がる。〈僕〉は屈折する。〈作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!〉とあるように、〈手紙〉のなかでは〈作り話〉が〈花〉を咲かせている。作り話とは志村が作る物語だ。つまり、物語の花が咲く。その花は舞い散ることも、枯れることもある。「桜の季節」は、「手紙の、作り話の、物語の季節」のことでもある。
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