数日前から、金木犀が香りだした。今年は遅い。この地では例年、九月の二十六日頃に香りはじめる。春、夏、秋、冬の四季というよりも、暑い、寒いという二つの季節に変わってきたというのが大方の実感であろう。その影響で、秋という季節が失われてきた。金木犀の花もどこか寄る辺がない。香りも微かに漂うだけだ。
現実の季節の変容にもかかわらず、志村正彦・フジファブリックの「赤黄色の金木犀」は確かな初秋の季節感を伝えている。
赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって
何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道
歌の主体〈僕〉は、〈金木犀の香り〉を身体で受けとめ、たまらなくなる。抑えがたい何かにとらわれる。〈何故か無駄に〉記憶の中の何かが回帰してきて〈胸が騒いでしまう〉。〈帰り道〉とあるのは、〈僕〉が実際に歩く〈帰り道〉であると同時に、過去の記憶への〈帰り道〉でもある。〈過ぎ去りしあなた〉と〈金木犀〉の記憶。〈香り〉の〈記憶〉への〈帰り道〉を〈僕〉は歩むことになる。
香りは直接身体に作用する。香りの物質が鼻膣内の細胞を刺激したときに起こる感覚だ。身体にとって直接の享楽ともなる。
精神分析家の新宮一成は、「夢と無意識の欲望」という論考で、聖書の「野の百合」の喩えについてのジャック・ラカンの言及を引用して、次のように述べている。(『無意識の組曲』岩波書店1997)
ラカンはこの一節に触れてこう言っている。「野の百合、我々はそれを、すみずみまで享楽にゆだねられた、一つの体として想像してみることができる。……植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう。」(ラカン『セミネール第十七巻』)。ラカンにとって、植物が「享楽」を体現しているとすれば、動物は「快感」を体現している。精神分析では「享楽」と「快感」をはっきり区別しなければならないというのが彼の考えであった。動物というものは、「無限の痛み」のような享楽が最小限になるように、場所を移動する。それが動物特有の、快感原則に沿った暮らし方なのである。人間もその例外ではない。その中で、この暮らし方の外に出ようと意志する人のみが、自分をむち打って、苦行の中で植物のように暮らそうとするのである。
〈植物であるということは、おそらくは無限の痛みのようなものであろう〉という文を理解することは難しいが、ラカンの言葉は読む者に作用する。「野の百合」が喩えであるように、喩えの表現として受けとめてみたい。喩えは連鎖させることができるだろう。
志村正彦「赤黄色の金木犀」とラカンのこの言葉を意味や論理の関係として結びつけることはできないが、直感として連鎖するところがある。
〈赤黄色の金木犀〉も〈無限の痛み〉のようなものとして咲いている。〈無限の痛み〉のように香っている。
この曲を聴いていると、いつも、どこか、かすかに、痛みのような感覚におそわれる。
0 件のコメント:
コメントを投稿