「お月様のっぺらぼう」の世界では、〈俺〉の〈一人旅〉は、夢を見ることによって、〈月〉の〈夜〉から〈虹〉の〈空〉へと出かける。そしてその〈一人旅〉は、〈虹〉の〈空〉から〈月〉の〈夜〉へと帰還する。言葉と楽曲それぞれのループ、言葉と楽曲の間のループによって、〈一人旅〉の往還を歌った。
この「お月様のっぺらぼう」と対照的な作品がある。「午前3時」だ。2002年10月リリースの1枚目ミニアルバム 『アラカルト』の三曲目に収録された。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。
午前3時 · FUJIFABRIC アラカルト 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21 Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura
演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一、武本俊一(担当楽器の記載なし)の六人である。
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歌詞をすべて引用しよう。行番号も付けたい。
午前3時(作詞・作曲:志村正彦) 1 赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた 2 もやがかった街が僕を笑ってる様 3 鏡に映る自分を見ていた 4 自分に酔ってる様でやめた 5 夜が明けるまで起きていようか 6 今宵満月 ああ 7 こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた 8 短かった髪がかなり長くなっていたから 9 時が経っていた事に気付いたんだろう 10 夜な夜なひとり行くとこも無い 11 今宵満月 ああ 12 こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた 13 赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた 14 もやがかった街が僕を笑ってる様 15 こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた 16 こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた
70年代前半のイギリスのプログレッシヴ・ロックの曲調に乗せて、言葉が編み出されている。歌詞を一行ごとに追っていきたい。
第1行〈赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた〉。冒頭にいきなり〈赤くなった君の髪〉という描写があり、〈君〉という二人称が登場する。文字通りに〈赤くなった〉を髪の色の変化と捉えて、〈僕をちょっと孤独にさせた〉という〈僕〉の受け止め方を考え合わせると、この〈君〉は女性であり、〈僕〉と〈君〉ととの間には、恋愛か何か特別な関係があるのだろう。あるいは、〈赤くなった君の髪〉は、赤色を帯びた満月の描写という可能性もある。赤くなった〈今宵満月〉の光景が〈僕〉を孤独にさせる。
この〈孤独〉という直接的な表現が使われたのは、全歌詞の中でこの「午前3時」と『CHRONICLE』収録の「Clock」だけである。志村はこの言葉の定型性、説明的なニュアンスを回避したかったのだろう。「Clock」(作詞・作曲:志村正彦)の該当箇所を引用する。
今日も眠れずに 眠れずに 時計の音を数えてる いつも気がつけば 気がつけば 孤独という名の 一人きり
〈今日も眠れずに〉〈時計の音〉〈孤独という名の 一人きり〉という表現に、「午前3時」との関連が見いだせる。
「午前3時」に戻ろう。第2行〈もやがかった街が僕を笑ってる様〉。この歌の現在時は〈午前三時〉という深夜。夜中の雲が満月の光を反射して、〈街〉が〈もやがかった〉ように見えるのだろうか。満月の夜の靄がかった微妙な暗部の光景が、〈僕〉を突き放すように〈笑ってる様〉と感受している。
第3行〈鏡に映る自分を見ていた〉、第4行〈自分に酔ってる様でやめた〉。歌の主体〈僕〉は〈鏡に映る自分〉を見る。〈僕〉という〈自分〉が〈自分〉の鏡像を見つめることは、ナルシスの神話を想わせる。ナルシスは水面という鏡に映った自分自身の像に恋をしてその鏡像から離れることができなくなるが、「午前3時」の〈僕〉は〈自分に酔ってる様でやめた〉というように、自己の鏡像から離れようとする。自己という閉域、閉じられた世界から遠ざかろうとするのだ。〈鏡〉という言葉は志村の全歌詞の中でこの歌にしか使われていないことにも留意したい。(「東京炎上」に〈目と目が合った君は万華鏡〉という言葉はあるが)また、この箇所は、曲調が変化し、声も抑制するようにして、独特の歌い方をしている。
第5行〈夜が明けるまで起きていようか〉、第6行〈今宵満月 ああ〉。〈満月〉の夜、夜明けまで起きていようかという覚醒の持続への意志は、第7行〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉につながっていく。
前回論じた「お月様のっぺらぼう」では、〈俺、とうとう横になって ウトウトして/俺、今夜も一人旅をする!/あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉というように、月夜の〈一人旅〉は夢を見ることへの旅であった。それと正反対に「午前3時」では、同じ月夜ではあっても、〈夢見たく無くて〉〈ひとり外を見ていた〉と歌われている。(〈夢見たく無くて〉の〈夢〉は睡眠中の夢ではなくて、実現させたい事柄という意味での夢の可能性もあるが)夢を見ることと夢を見ないこと、睡眠と覚醒の持続。この二つの作品の対比の関係は明らかである。「午前3時」では、夢を見たくないから一人外を見ていたという解釈も成り立つ。第3・4行にある、〈僕〉が自己の鏡像から離れて、自己愛の閉域から遠ざかろうとすることが、この〈ひとり外を見ていた〉に接続していくのかもしれない。自己の外部、〈外〉、外の世界を見ることは、自己の内部に目を向けることからの回避につながる。
第8行〈短かった髪がかなり長くなっていたから〉の〈髪〉は、〈君〉のものなのか〈僕〉のものなのかは分からない。どちらにしろ、第9行〈時が経っていた事に気付いたんだろう〉という時の経過に気づく。あるいは、満月の様子の変化による時間の進行を描いているのかもしれない。
第10行〈夜な夜なひとり行くとこも無い〉は、通常の意味で、〈夜な夜な〉特に〈午前三時〉頃に〈ひとり行く〉場所はないだろう。あるいは、この〈ひとり行く〉は「お月様のっぺらぼう」の〈今夜も一人旅をする〉との関連があるのかもしれない。「午前3時」では〈一人旅〉ではなく〈ひとり外を見ていた〉のだから。
第11行から16行までは反復であり、〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉に収斂される。志村の歌い方は、〈夢〉〈見たく〉〈無くて〉というように分節されて、〈無くて〉が強調されているようにも感じられる。〈なくて〉ではなく〈無くて〉と、〈無〉という漢字が使われたこともその印象を強める。
この「午前3時」の音源はその後リテイクされていない。また、ライブ映像にも残されていない。初期作品の中では実験的な習作の意味合いが強いことがその理由かもしれない。しかし、「午前3時」と「お月様のっぺらぼう」という《月夜》をモチーフとする対照的な作品を試みているところに、インディーズ時代の志村正彦の実験が刻印されている。やがてその言葉と楽曲の実験は作品の成果として結実していくだろう。