昨日、シアターセントラルBe館で、シャーロット・ランプリング主演の『ともしび』(Hannah、アンドレア・パラオロ監督、2017)を見た。
甲府での上映は5月2日(木)まで。1日(水)は映画サービスデー。他の地域でも上映中やこれから上映の館があるようだ。(東京では6月上旬に下高井戸シネマで予定されている)
この映画は何の予備知識もないまま席に座ることが絶対の条件のような気がする。(これから鑑賞予定の方は以下のテキストも飛ばしてほしい)何も知らないまま、何も分からないまま、この世界に入り込むことによって、何かを経験する映画である。
いきなりの異様な声が館内に響きわたる。分節された音のようにも単なる奇声にも聞こえる。誰の声か、どのような状況なのかも分からない。不穏なものが立ち上がる。おそらく視聴する時間ずっとこの不穏なものを追いかけていくのだなという予感に折り合いを付ける。覚悟のようなものと共に。
画面が切りかわると、ダンスか演劇か体操か分からないが身体的なレッスンの場面だということ分かる。
焦点人物は、シャーロット・ランプリング(アンナ)。73歳の彼女の全身が70年を超える生の時間を表象している。続いて、アンナの家の室内。夫と思われる同年齢の男性。その夫の年齢を感じさせる色合いの肌、衰えてはいるがそれなりの滑らかさもあるかのような背中をマッサージするアンナ。老齢期の夫の肌。やわらかく揉む妻の指。肌と指の接触。これがイメージ上のモチーフになるのかなという予感がしたのだが、その予感が裏切られることはなく、その後の展開の中でシャーロット・ランプリングの老齢期の肌を繰り返し描いていく。観客は自らの眼差しでアンナの肌を揉みほぐしていく。『愛の嵐』(Il Portiere di notte, 英題: The Night Porter,リリアーナ・カヴァーニ 1974年)の裸体を想起させるショットもある。美しさからは遠く離れていくのだが、それでも肌の「肌理」は不思議な存在感を持つ。
物語は、夫が収監されるところから始まる。おそらく小児に対する性愛・虐待の罪だと推測されるのだが確かなことは結局明かされない。このことを契機に、アンナ夫妻と息子家族との断絶が起こり、アンナの人生は行き詰まる。観客の眼差しは、至近距離から、それこそアンナの肌を感じるような距離から、彼女を見つめていく。不穏なものが加速していく。
映画全体に不明なところが多い。いくつかの小さな出来事が起きるのだが、それが回収されることはない。「謎」を解くことが目的とされていない。「話」を語ることも目的とされていない。むしろ物語はこの映画の欄外、枠外にあるという気もする。この映画は物語に依存していない。「話」らしい話のない映画、「話」を本質的には必要としてない映画というものがあるとしたらこの作品が第一に挙げられるだろう。
それではこの映画の枠内、その中心にあるのは何だろうか。
シャーロット・ランプリングという「存在」そのものとしか言いようがない。監督はもともと彼女を宛て書きにして構想を練った。虚構作品である以上「アンナ」を描いているというのが穏当だろうが、シャーロット・ランプリングを主題とする「虚構のドキュメンタリー映画」を見ているような境地に陥る。「アンナ」を演じる「シャーロット・ランプリング」を演じる「シャーロット・ランプリング」というように、メタ的な視線が仮想される。映画そのものがジャンルを破る不穏さに溢れている。
最後の地下鉄駅の場面まで、不穏ものはそのまま持続する。不穏なものを追いかける種類の映画であっても、どこか途中でそれがやわらいだりすることが少なくないが、この作品は最後まで不穏なものがほどけることはない。カメラの眼差しはほぼ「アンナ」と一体化する。眼差しは不穏なものをまとう。いや、眼差しが不穏なものを作り出している。観客はその眼差しから逃れることができない。「アンナ」の歩行と共に観客も歩行しなければならない。歩みのその先には何があるのだろうか。映画はその先を避けることなく描く。それでも解釈も分析も拒んでいるようでさえある。観客個々の自由であろうが。
僕自身には、不穏なものからほんのわずかな距離かもしれないが離れていった、のかもしれないと感じとれた。
取りあえず、取りいそぎ、分離すること。通過すること。乗り換えること。
不穏なものからの分離。この時代の勇気がそこにあるのかもしれない。
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