この花の季節が過ぎたら初夏を迎えるのだろう。
『セレナーデ』の一節、「明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ」に込められた《祈り》について考えあぐねている。そんな時は書くのを止めてほんとうに好きな作家を読むようにしている。例えば須賀敦子の散文。《祈り》という主題であれば須賀の言葉ほどふさわしいものはない。
『須賀敦子全集』を読み返すのは三度目か。ゆっくりと読み進めていく。第8巻の書簡に次の手紙が収められていた。1960年2月21日、ローマにいる須賀敦子がミラノの住むペッピーノにあてたものだ。現代作家の書簡を読むのは私生活をのぞきこむようで後ろめたい気持ちにもなるが、もともとイタリア語で書かれたものを翻訳者が訳したものなので、《作品》として受けとめることもできる。
ミラノではまだ雪が降っているのでしょうか。こちらでは、私の窓の下のスイス人学校の庭のアーモンドの花はもう終わりました。ヨーロッパの大部分の花と同じように「ビジネスライク」に咲くのです!こうした、ただたんに果実を得るためだけに花を咲かせるということを、こうもあからさまに示す樹木を見ていると、なんだか悲しい気持ちにさせられるものがあります。私には、日本の花の独特の美しさは、少なくとも部分的には、その花の、まるで花開きながら遊ぼうとでもしているような、そんな咲き方にあるように思えるのです……こんな説明の仕方でわかっていただけるでしょうか。
いずれにしても、なにもかもありがとうございます、そして私のためにたくさん祈ってください。私のために、遊びのように、祈ってください……。
「ビジネスライク」なヨーロッパの大部分の花に対して、「花開きながら遊ぼうとでもしているような」日本の花。対比の感受が独特だ。そのような花の捉え方が、「私のために、遊びのように、祈ってください」という《祈り》に重ねられていく。
このとき須賀敦子は三十一歳。後に夫となるペッピーノ(ジュゼッペ・リッカ)と毎日のように手紙を交換していた。年譜を読むと「ミラノでペッピーノと祈りについて語り合う」という記述もある。イタリアのカトリック左派の拠点であったコルシア書店という場で二人は出会った。
小さな花壇を見ているときに、この手紙の言葉が風景に重なってきた。花のような存在に向けた《祈り》があるとしたらそれはどのようなものか。ぼんやりと想いが巡るだけで、言葉はつながらない。そうこうしているうちに、志村正彦の歌詞が浮かんできた。
蜃気楼… 蜃気楼…
この素晴らしき世界に僕は踊らされている
消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる
おぼろげに見える彼方まで
鮮やかな花を咲かせよう (『蜃気楼』)
「蜃気楼」がゆらめく世界の彼方まで「鮮やかな花を咲かせよう」とは、いうまでもなく《祈り》の言葉である。聴き手はそれを意識しないが、意識しないがゆえに、それはそのものとしてたどりつく。