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2016年4月30日土曜日

『桜の季節』その一年 [志村正彦LN125]


 この一年、ある桜の樹を眺めてきた。

 春、夏、秋、冬、四季の季節ごとにその姿を見つめ、記憶してきた。
 この桜は勤め先の校舎入口近くにある七本の樹の一つ。この樹の向こう側、甲府盆地の南側に広がる御坂山系の稜線、その真中よりやや東側に、富士山の姿が望める。近景の桜、遠景の富士。遙かな小さな富士ではあるが、桜と富士という風景を眺められる。

 ここでフジファブリック『桜の季節』を聴いてみたい。



  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
   
    (作詞・作曲 志村正彦)  *リフレイン部を一部省略。

 「桜の季節過ぎたら遠くの町に行くのかい?」この言葉を追いかけるように、桜の季節を過ぎた時期、その後の時間の光景に注目した。落花直後のさびしげな姿。葉がすぐに出て緑に包まれる新緑の頃。眩しい夏の樹の濃い影。光の落ちつく秋の涼しげな姿。晩秋の「桜紅葉」の季節。

 やがて葉は枯れる。寒さが増すたびに一枚一枚と落ちていく。地面の葉。まだ色鮮やかなものもあれば、色がくすんでしまったものもある。北の風が吹くとあたりに舞う。年を越す頃には葉がすっかり落ちる。枝と幹だけの桜は暗い灰色と濃い茶色が混ざり合う。午後になり日が差さなくなると、ほとんど黒色の樹と化す。「桜が枯れた頃」とはこのような季節を指すのだろうか。
 この桜の樹は、葉がなくなると逆に、その隙間から御坂の山越しに冬の富士がよく見える。樹の黒灰色と雪景色の富士の白色、そのコントラストが影絵のようだ。

 二月の終わりから三月の初め、暖かくなると桜の樹に何か力が宿りはじめる。中旬からつぼみを観察する。少しずつふくらみ、二十日を少し過ぎた頃から徐々に咲き始めた。例年より少し早い。自分が育てているわけではないが、一年という時を共に過ごしたので、なんだか見守ってきたような気分だった。今年の桜の季節は格別だった。感慨があった。三月最後の週末に満開となり、週明けの四月初めには散り始めていた。

 この桜の樹は、幹がまだ細く、樹皮の感じも若い。十数年前に校舎が新築されたときに新たに植えられたものだろう。樹齢は二十歳ほどか。
 桜の樹の寿命は五十年といわれるが実際はそれよりも長く生きるようだ。そうであるなら、桜と人間の寿命は同じくらいの時間になる。「桜の季節」と「人の季節」が重なる。

 桜の季節とは、桜が咲き散るという桜の「花」の季節だけでなく、新緑、桜紅葉、葉の枯れる季節、桜の「樹」としての時間のすべての季節だとすればどうか。私たちの桜の見方感じ方が変わるだろうか。最近そんなことを考えている。この一年、桜の樹を眺めていたことが影響しているのかもしれない。

 「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」。志村正彦がそのような表現で思い描いたのがどのような光景、どのような世界だったのかはかは分からない。ただ彼には故郷で、桜の一年、桜の春夏秋冬を見つめていた時があった。それは確かなことのように思われる。

 『桜の季節』には「桜」そのものを見つめる時間、そのような季節が凝縮されている。

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