四月末のことになる。キングサリの花がようやく咲きはじめた。
二年前の春、園芸店で探し、小さな苗木を見つけた。家人が鉢植えでしばらく育てたが、一度枯れそうになって、庭に植え替えた。一年すると枝は育っていったが、花を咲かせることはなかった。いつか咲くのか、それとも、一度枯れそうになってしまったので咲くことはないのか。待ち遠しいような、心配のような、幾分か諦めも混じる気持ちで、時折眺めていた。
春の始まりの頃、葉に勢いがあるのに気づいた。今年はもしかするとと期待していると、四月の中旬頃から徐々に、蕾がふくらみはじめた。蕾そのものが花として開かれるのを待つ。それを眺めている私たちも待つ。
一週間程経って、黄色い、可憐で小さい花々が咲きはじめた。
蝶々のような形状の花弁。一つ一つは小さいが、それが集まり、たくさんの束となって黄色い鎖をつくる。朝の日差しをあびて、房のようにたわわになり、地面の方へ垂れさがる姿。視覚だけでなく、聴覚も刺激される。打楽器の小刻みなやわらかい音のように、黄色の花の粒々が戯れている。
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朝のキングサリ |
亡き父が好きな花だった。庭木として植えられていたが、三年前、庭を作り直す必要に迫られた際、大きくなりすぎて植え替えるのも難しいゆえ、しかたなく伐採した。その代わりに、新しい苗木を植えて、時を待った。今年、キングサリの花に再会することができた。年を超える時の中で花を待つ、という初めての経験をした。
調べると、キングサリの花言葉は「哀愁の美」、「儚い美」「淋しい美」、「哀調を持った美しさ」らしい。
朝日をあびるキングサリの黄色は明るい華やかな美にあふれている。夕方になり、周囲の色合いが落ちついてくると、そこはかとなく、黄色が沈んでくる。花言葉のように、幾分か、儚いような淋しいような色調に見えてくる。夕方のキングサリは、自らの花の房の量感をもてあましながら、とりとめもなく、想いにふけっているようだ。朝と異なり、弦楽器の奏でるメロディ、「哀調」を帯びてはいるが、起伏の少ない抑制のとれた旋律がふさわしい。
どうしたものか 部屋の窓ごしに
つぼみ開こうか迷う花 見ていた (志村正彦作詞作曲 『花』)
志村正彦、フジファブリックの『花』をこのところ最もよく聴いている。
「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」。この眼差しが志村正彦そのものである。そして、「つぼみ開こうか迷う」というのは彼でしか成しえない表現であろう。
彼がこのとき見ていた花が何の花か、路地の花か鉢植えの花か、何もかも分からない。彼の心のありかも分からない。
しかし、彼が、「つぼみ開こうか迷う」花の時間、蕾から開花へと至る時間そのものを慈しんでいることだけは分かるような気がする。ほんとうは分かってはいけないのかもしれないが、分かりたいという心持ちになる。
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