一昨日の日曜日。昼、県立図書館から甲府駅の北口へと歩いていた時のことだった。(この界隈に来ると、昨年の「ロックの詩人 志村正彦展」のことを想い出す)
この日は、月一度の「甲府空中市ソライチ」の日。焼き菓子の店やいろいろな店が並んでいた。
駅構内に入ると、ロック風のサウンドが聞こえてきた。音の方向には4人編成のバンド。アコースティック楽器を奏でている。CDを売っていた棚を見ると、「ココロネコ」とあった。
ココロネコ?偶然の遭遇だった。
地元メディアで紹介されていたので記憶にある名。確か、山梨県立大の学生が結成したバンドで、最近、インストアライブもやった。知っていることはそれだけだったが、ココロネコというありそうでなさそうな名は面白い。少しだけ時間があったので、2曲ほど聴いた。
ヴォーカルとコーラスのハーモニーがなかなか美しい。声はやや線が細いが、のびやかに広がっていく。演奏にもインディーズレベルの確かな技術がある。
声と音の透明な感触とその広がりがこのバンドの可能性を感じさせた。
その場で『リフレイン』というミニアルバムを購入、帰宅後視聴した。
若者の内面を素直に吐露した歌詞は、変に言葉をこねくり回すこともなく、好感が持てる。かっこつけることもなく、ひねくれてもいないが、まだまだありふれた言葉が多い。しかし、次の一節には、作り手が自分の言葉を探りあてつつある予感がある。
この街の夢も希望も明日も何もかも
一つも君を裏切ること無く、そこにあってほしい
それ以上はもういらないんだ (『この街の』)
「一つも君を裏切ること無く」と一度区切られ、「そこにあってほしい」と記された願望はみずみずしい。あえて言うなら、「この街の」というモチーフの中心にある、「この」の指し示す像を何らかの言葉で表すことができれば、この歌はもっと聴き手に届くのではないだろうか。
[ ココロネコ / この街の MusicVideo ショートバージョン https://www.youtube.com/watch?v=JYjn6F8Ts9A がネットにある ]
卒業後もバンドを続けているようだが、引用した歌詞の一節をもじるならば、彼らの言葉が「そこにあってほしい」。ロックは言葉だと考えるからだ。
偶々、街で、山梨発のロック、ココロネコに出会う。
日曜日の昼の偶景のような出来事を記した。
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2015年4月21日火曜日
2015年4月12日日曜日
出来事と再現-フジファブリック武道館LIVE8 [志村正彦LN103]
注文した『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]が届いた。
初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。
リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。
時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。
『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。
《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。
武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
(この項続く)
初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。
リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。
時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。
『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。
《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。
武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
(この項続く)