おばさんはめったなことでは驚かない。長年生きてきた中で、世の中、考えられないことが起こることを知っているから。初めて何かを見聞きしたとしても、これまでにどこかで見聞きしたものからついつい先を予測してしまうから。動じないと言えば聞こえはいいが、感受性が鈍っているかと思えば、寂しくもある。
しかし志村正彦の歌はやすやすとおばさんの予測を超える。
例えば、このシリーズのタイトルにいただいた『Strawbarry Shortcakes』(『Teenager』)
の「ところかわって ここはどこ?」というフレーズを聴いたときには、しばし唖然としてしまった。
こんな歌詞ってあるだろうか。
大体においてへんてこりんな歌なのである。皇居沿いの道でランナーが信号待ちをし、また駆け出すという場面が、一度聴いたら忘れられないメロディー(私の筆力では到底伝えることはできない。未聴の方は是非お聴きいただきたい)で歌われる。と思っていると、レストランで向かい合う「君」と「僕」の場面になる。この二つの場面は交わらない。
この断絶されたように感じる二つの場面をつなぐことばが、
ところかわって ここはどこ?
ランナー見下ろせる レストラン
である。
「ところかわって」も「ここはどこ?」もありふれたことばだが、並ぶとずいぶん奇妙に聞こえる。「ところかわって」は場面の転換を表すことばで、物語の登場人物の生のことばというより物語の外側にあることばだと考えたほうがわかりやすいように思う。テレビドラマか何かを思い浮かべても、場面が変わるときに登場人物が「場面が変わって」とせりふとして言うことはない。具体的な地名や場所などのテロップが流れるか、ナレーターが語るか、いずれにせよ物語の外側の何かが語るのである。
「ところかわって」と言う何かは当然その場所を知っているはずである。だから、「ところかわって ランナー見下ろせる レストラン」なら違和感がないのに、間に「ここはどこ?」が挟まっているから奇妙なのだ。
しかし、繰り返して聴いているうちに、この余計に思える 「ここはどこ?」がこの曲の物語を構成する上で非常に効果的なのではないかと思えてきた。
「ここはどこ?」というのは周囲がわからなくなっている、つまり見失っている状態である。この場合、周囲というのはランナーが走っている皇居沿いの道の風景、「ドンパンドンパンドンパン」で表現される喧噪の光景であろう。しかし、その光景はすっかり消え去ってしまう。もちろん実際に消えるわけではない。登場人物の「僕」の意識から失われてしまうのだ。「僕」からそれを失わせたものはもちろん「君」である。「君」への極度の集中が「僕」から周囲を奪ってしまう、その感覚を「ここはどこ?」ということばが実に的確に表現している。平易なことばでこんなことをやってのける志村正彦に「君さすがだよ」と言ってあげたい。
そんなことを考えていたら一つの映像が浮かんだ。カメラは最初皇居前の道の雑踏を映す。それから切り替わって道沿いの二階か三階にあるレストランの内部、窓際の席に座るカップルをとらえ、テーブルのイチゴショートケーキ越しに「君」のバストショット、そして顔から目、まつげへとだんだんズームしてそこに留まる。そんな映像。
さて、登場人物の「僕」がそこまで集中している「君」はどんな人だろう。「左利き」に「違和感」を感じるのだから、差し向かいで物を食べるということ自体がおそらく初めてというような関係。「君」はイチゴショートケーキを食べているだけだが、食べると言う行為自体がどこか魅惑的だし、「僕」の目には蠱惑的に映る仕草や表情によって「僕」はすっかり心を奪われてしまっている。
微笑ましいと言えなくもないが、おばさんはちょっと心配だ。「そんな小悪魔風の女はやめときなさい。きっと苦労するわよ」
でもおばさんの声は「僕」にはきっと届かないんだろうな。
0 件のコメント:
コメントを投稿