久保ミツロウは、漫画『モテキ』最終話のラストシーンの直前で、ある種の「目覚め」を「俺(幸世)」に与える。
「土井亜紀」から別れ話を告げられた「俺(幸世)」は彼女に会うために、フジロックフェスに出かける。だが、彼女が他の男と一緒にいるのを目撃すると、「もともとそんな俺のこと 好きじゃなかったんだ」と思い、再び現実から逃げ出そうとする。
そのとき、「俺(幸世)」の心の中で、「林田尚子」が「土井亜紀に今の自分見せつけてこい」と、「中柴いつか」が「やっぱりすぐに逃げんだね 変わってないじゃん」と、「小宮山夏樹」が「”本当の本”の私を理解したなんて 思い込みだか思い上がりがいやなの」と語りかける声が聞こえてくる。「俺(幸世)」は、ある心の変化に気づいて、こう呟く。
心の中に ちゃんといる
皆に会えて
不安にさせたり 励ましてくれたり
心の声が増えている
他者の声、「幸世」のモテキを巡る四人の女性たちの声、そして友人や両親の声が、「俺(幸世)」の内面で「心の中」としてしっかりと根づき始めている。そのような「心の声」が増えてくることによって、「幸世」は変わり始める。
他者の声は、時に「不安」にさせたり、時に「励まし」てくれたりするという両値性を持つが、そのような両値性に揺れたり、引き裂かれたりするのではなく、その両方を、良いことも悪いことも、肯定したいことも否定したいことも、心に受けとめ、心の枠組の中で的確に位置づけること。そのような過程を通じて、他者の声が心の声に変化していく。その心の声に向き合い、丁寧に時間をかけて対話を重ねていくこと。そのような心の動き方が、人の成長と人間関係の形成にとってとても重要となる。
漫画『モテキ』の描く「幸世」はやはり、女性作家久保ミツロウが自分の分身として描いたということもあって、男性からすると、時に「男性」の心の動き方とは異なるところが垣間見られる。それは否定的なことではなくて、それゆえに、「幸世」は男女の差異を超えた普遍的な人間として造形されているとも考えられる。この「心の声」に気づくシーンにはそのような普遍性がある。
ドラマ&映画『モテキ』の方は男性監督大根仁の演出ということもあって、男のどうしようもなさ、優柔不断ぶりというか端的に駄目さを強調している。それゆえに逆に、ある種のぎこちなさや純粋さを「幸世」に与えている。特にドラマの最終話では、漫画の最終話のような「目覚め」を「幸世」にもたらすことはなく、まだまだ「幸世」を迷いの状態に置きざりにする。だから、ドラマ『モテキ』の「幸世」は、漫画『モテキ』とは異なり、成長への彷徨いの過程にある。そのあたりを比較して愉しむことができるのも、漫画、ドラマ、映画という三つの作品がある『モテキ』の豊かさであろう。
志村正彦は漫画の最終話もドラマも映画も見ることがかなわなかった、という悲しい事実がある。もしも彼が作品の全体を知ることができたのなら、どんな感想を抱いただろうか。
漫画、ドラマ、映画の『モテキ』を読み返したり、見直したりして、志村正彦が作詞作曲し歌った『夜明けのBEAT』を聴いてみること。そのことによって歌の新たな意味が生まれてくるような気がする。
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