「『Surfer King』の企み」を読んで、『Surfer King』を聴き直した。
歌詞の最後の言葉が「サーファー気取り アメリカの…」というように、あえて歌われていないことが大いに気になるようになった。歌詞カードで確認すると、それまで「アメリカの彼」「アメリカの波」と歌われていた箇所が「…」と空白になっている。にぎやかなサウンドにかき消されて、うっかり聞き過ごしてしまうか、あるいは気がついてもあまり気にとめないかのどちらかかもしれないが、確かに「…」なのだ。
歌われていない「…」、書かれていない「…」には、どういう言葉が入るのか。あるいは言葉は全く入らないのか。普通は「彼」なのだろうが、「君」が入るのかもしれない。あるいはすごく飛躍して「僕」はどうだろうか、あるいは人ではなく、「波」かそれ以外の何かか、などと想像してしまう。あるいはそんな想像など無用で、「…」は「…」のまま受け止めればよいのかもしれない。
どちらにしろ、空白の言葉「…」がそこに漂っているのだ。聴き手は漂いながら、「…」が何か知りたいと思うのだが、結局、自分の想像するものを描いて進んでいくしかない。
聡明な志村正彦は『Surfer King』で「…」という企みも仕掛けたのだろうか。彼は何度でも楽しめるように歌を作っているという意味のことを言っていたはずだ。
確かに何度でも楽しめる。「…」の波に揺られて、ボード代わりのCDにノリながら。
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