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2020年11月15日日曜日

「ロックの時代」の「最後の男」-ブルース・スプリングスティーン

 先日、〈ロックの時代「俺が最後の生存者」 グラミー賞20回、71歳のスプリングスティーンが語る〉という記事が朝日新聞に掲載されていた。今回はその記事を紹介したい。ブルース・スプリングスティーンの新アルバム『レター・トゥ・ユー』発売を機に、世界の複数メディアの合同インタビューに応じたもので、日本からは朝日新聞が参加したそうだ。

 


 この記事で、ブルースは改めて自らのロック人生を振り返っている。『レター・トゥ・ユー』の歌詞とインタビュー内容を照らし合わせた優れたテキストであるので、長くなるがここに引用したい。署名者は定塚遼氏である。


 啓示的で隠喩に満ちた詩世界は、ときに宗教世界とも接近する。半世紀前と現代を行き来し、通り過ぎてきたもの、失ったものを探りながら、やがて来る自らの死と静かに向き合う。

 「大きな黒い汽車が 線路の上をやってくる」「今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と歌うアコースティックナンバー「ワン・ミニット・ユア・ヒア」でアルバムは静かに幕を開ける。

 人生の夏と秋の時代の一シーン一シーンが走馬灯のように巡り、最後に「星々は消える 石のように黒い空に 今ここにいると思ったら 次の瞬間もういない」と結ぶ。人間の営みをロングショットで俯瞰(ふかん)した詩は、ある種の諦念と無常観をたたえている。「ささやくような曲でロックアルバムを始めるのは非常に奇妙だ。だが、それでアルバムは離陸した」と話す。

 ブルースは、自身の「夏の時代」についてこう語る。「初めてバンドを組んだ60年代半ばは、ロックンロール音楽を演奏するのはティーンエージャーだけ。至る所に、バンドが演奏して、技術を磨くことができる場所があった。一種の黄金時代だった」

 半世紀が経ち、「最初のバンドの最後の生存者になった」というブルース。ロック音楽が文化や社会を牽引(けんいん)した時代にバンドを始め、「ロックンロールの未来」と評されたブルースは「ラスト・マン・スタンディング」でこう歌う。「ロックの時代が俺を押し上げた」「俺は今、その時代の最後の男」


 ここでブルースは、自分自身が「ロックの時代」の「最後の男」だと述べている。「最後の男」というのも使い古されたフレーズだが、それを修飾するのは「ロックの時代」である。1960年代から2020年まで、この半世紀以上の年月が「ロックの時代」だろうが、少なくともアメリカという場においては、ブルース・スプリングスティーンはその始まりの頃から(実際はその始まりからやや遅れてだろうが)現在まで、彼の渾名どおりの「The Boss」ボスであったことは間違いない。そのロックの「ボス」が自らを「ロックの時代」の「最後の男」だ位置づけている。その発言がそのまま受けとめられることが、ブルース・スプリングスティーンのブルース・スプリングスティーンたるゆえんだろう。『レター・トゥ・ユー』、彼の新アルバムを聴いてみたくなった。

 この記事の終わり近くで、「50年間にわたり曲を書き続けてきたブルースだが、いまだに曲作りに恐れのようなものを抱くという」という説明と共に、ブルースの次の言葉が直接引用されている。


それはただ空中にある。感情の中にある。心の中にある。それは魂、精神、心、知性の中にある。そして、ただ何かを空中から引き出して作るだけなので、ある意味で非常に恐ろしいところがある


 何かを空中から引き出して作る行為。その行為の「恐ろしいところ」に触れていることが、非常に興味深い。創作という行為はおそらく、至福と共に、何か恐ろしいところにたどりついてしまう。光あふれるものと闇に閉ざされるところ。ポピュラー音楽であるロックは、そのポピュラリティの反面、そもそもの始まりから、光と闇が相争いながら共存する世界を歌っていたとも言える。ロックの魅力はそこにあった。そしてロックの時代はその証人としてもある。

 このブルース・スプリングスティーンの発言を読んで瞬間的に、ある自伝的小説の一節を想いだした。芥川龍之介『或阿呆の一生』の「八 火花」である。


 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。


 芥川龍之介は、十数年という短い作家生活の中で、この「空中の火花」をつかまえつづけようとしていた。特に『蜃気楼』のような晩年の作品では、光と闇のつづれ織りのような小世界を構築した。

 インタビュー記事に戻ろう。その最後でブルースは「私の後悔の一つは、長く日本に行けていないことだ。以前ツアーで日本を旅したとき、素敵な観客と出会った。子どもができるなど、色々な事情で行けなかったが、私は再び日本に戻って、観客とつながりたいと思っている。うん、そうするつもりだ」と述べていた。

 彼の単独の日本公演は、1985年4月の「Born in the U.S.A Tour」、と1997年1月の「The Ghost of Tom Joad Tour」の二回だけである。(他は、1988年9月、「A Concert Human Right Now」への参加)

 その二つとも、僕は会場に出かけていた。85年の「Born in the U.S.A Tour」は国立代々木競技場第一体育館。Eストリート・バンドとの3時間を超えるライヴだった。歌と演奏もそうだったが、それ以上に会場の異様なほどのものすごい熱気が今でも記憶に刻まれている。97年の「The Ghost of Tom Joad Tour」は東京国際フォーラムホール。ソロのアコースティック・ライブだった。こちらの方は逆に会場が静まりかえっていた。その静寂の中でのブルースの内省的でいてしかも力強い声が、印象に深く残っている。この時はコンサートの始まる前に、「今回の歌のイメージから、席を立たないで座って聴いてほしい」という意味のブルース自身による要請がアナウンスされていた。

 今思い返せば、この二つの日本公演ライブによって、ロックの時代の最後の男、ブルース・スプリングスティーンの「動」と「静」、「光」と「闇」の二つを体験したとも考えられる。


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