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2020年5月31日日曜日

Step by step『茜色の夕日』 [志村正彦LN256]

 五日ほど前、正午の直前だった。

 UTYテレビ山梨をなんとなく見ていると、綺麗な夕焼け雲を背景に富士山とその裾野の街が映し出された。ドラムの音と共に「茜色の夕日眺めてたら」の歌声。志村正彦の声。フジファブリックの『茜色の夕日』だ。反射的に録画ボタンを押した。すぐに画面に「富士吉田市 ♪茜色の夕日♪フジファブリック」の表示。 UTYなので、あの「STAY HOME」のシリーズなのかと思ったが、「STAY HOME」の広告はすでに終わったはずだ。60秒ほどの映像だったが、次の言葉が流された。


 Step by step
 今できることを
 一歩一歩新しい日常へ…

 いつかみんなで眺めよう
 その日のために今できること


 画面の右上には「50TH Uバク UTY」のクレジット。あの「STAY HOME」に継ぐ「Step by step」というテーマのUTY開局50周年と連動した公共的な広告のようだ。「STAY HOME」の『若者のすべて』に続いて『茜色の夕日』が使われたのである。「STAY HOME」から「Step by step」へ。一歩一歩、「新しい日常」へ歩んでいくというメッセージである。
 この映像は山梨県内でしか視聴できないのが残念だが、こればかりは仕方がない。UTYのホームページでもこの動画を見ることはできない。
 『茜色の夕日』の中で使われた部分は下記の通りである。 


  茜色の夕日眺めてたら
  少し思い出すものがありました
  君が只 横で笑っていたことや
  どうしようもない悲しいこと

  君のその小さな目から
  大粒の涙が溢れてきたんだ
  忘れることはできないな
  そんなことを思っていたんだ


 映像は富士吉田市の上空からのドローン撮影だろう。富士山に向かって北東の方向からドローンは飛んでいく。下には富士吉田の市街が広がる。街や車の灯り、川や大きな通りも見える。
 富士山の南西の方向に、茜色に照らされた雲の群れが水平にたなびいている。富士山の頂上あたりのラインで、地平線に近いところに茜色のグラデーションの雲、その上方は青いグレー色の雲に分かれているが、その色彩の差異がコントラストをなしている。しばらくすると夕闇に包まれていくのだろう。その前の「茜色の夕日」の時間。見た瞬間に引き込まれていく富士山と吉田の街の空間、「茜色の夕日」の空間。時間と空間の美しい光景に『茜色の夕日』の歌が流れていく。

 フジファブリック『茜色の夕日』と富士山の「茜色の夕日」の風景。あからさまと言えばあまりにあからさまな組合せだが、これが意外なほどに合っていた。この風景と志村の言葉が見事に融合していたのだ。志村の記憶の中にこの自然の光景が刻まれていたとも言えるほどに。

 文芸批評家の吉本隆明は、『吉本隆明歳時記』(1978年、日本エディタースクール出版部)で、「自然詩人」について次のように述べている。

 わたしの好きだった、そしていまでもかなり好きな自然詩人に中原中也がいる。この詩人の生涯の詩百篇ほどをとれば約九十篇は自然の季節にかかわっている。しかもかなり深刻な度合でかかわっている。こういう詩人は詩をこしらえる姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。景物が渇えた心を充たそうとする素因として働いてしまう。 (「春の章 中原中也」)


 「自然詩人」は、「空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触り」を手がかりにして詩的世界を創る。この論を参考にして考えてみた。
 志村正彦も「茜色の夕日眺めてたら/少し思い出すものがありました」、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」と歌い始める。「茜色の夕日」、「真夏のピーク」。風景と場所の感覚、季節と時間の感触。志村の数多くの歌は、自然から受け取った感覚を一つのイントロダクションのようにして、自分自身の世界を語り始める。

 そういう捉え方をすれば、志村正彦も中原中也と同じような「自然詩人」と言えるだろう。しかし、実際の語り方、言葉の展開の仕方は異なる。書かれる詩と歌われる歌詞という違いもある。それ以上に、生の根本的感覚がこの二人は異なっている。しかし、そのような差異を超えて、志村正彦と中原中也の間にはどこか響き合うところがある。


【追伸】
 このブログのページビューが30万を超えました。どうもありがとうございます。



2020年5月16日土曜日

Analogfish / 下岡晃 『 I say 』【S/R007】

【S/R007】はAnalogfish 『 I say 』。

 S/R(Songs to Remember)は、洋楽と邦楽を交互に取り上げている。邦楽は、フジファブリック、HINTO、メレンゲ、そしてAnalogfishと続いてきた。HINTO、メレンゲ、Analogfishは、志村正彦とのつながりの流れだと受けとめられるかもしれない。自然にそう思われることはその通りなのだろうが、そうではないという気持ちの方がはるかに強い。この三つのバンドは日本語ロックの最高水準にある。安部コウセイ、クボケンジ、下岡晃の歌詞、そして楽曲、バンド演奏も、洋楽・邦楽を超えてロック音楽の「Songs to Remember記憶すべき歌」に入る。

 Analogfish 『 I say 』は2013年リリースのアルバム『NEWCLEAR』収録曲。アルバムではバンドサウンドだが、映像『Analogfish - I say / TOKYO ACOUSTIC SESSION』では、下岡晃、佐々木健太郎、斉藤州一郎の3人によるコーラスとアコースティックギターがとても美しい音楽を響かせている。クレジットには「Sunday 25th of August 2013 経堂 しゅとカフェ」とある。8月の日曜日のカフェ。やわらかい光と樹の緑に囲まれている。
 これと対照的なのがもう一つの映像『 “I say”【下岡晃バージョン】』。クレジットは「@代官山ノエル 2018/12/22-23」、クリスマスの前夜に本多記念教会で収録されたものだ。

 『Suono Dolce「Music Go Round」』(GUEST : 下岡晃、聞き手 : 小野島大)で、下岡は次のように語っている。

 「I Say」は、街を歩いてる時にずらずらっと出てきましたね。

 「I Say」みたいな歌詞は、もう完璧にそぎ落として、何度聴いても耐えうるように磨きこんでいく。

 この歌街を歩いてる時に出てきてから完璧にそぎ落として磨きこんでいくまで、どれくらいの時間が流れたのだろうか。「夕日が道行く彼女の頬を染めれば/もう済んだ事をなんだか思い出して/テールランプの灯りが夜に滲めば/無い物ばかりがやけに気になって」のところが染み込んでくる。
 下岡は日常の光景、見える世界を掴みながら、それを見えない世界、不可視のものへとつなげていく。
 「I say / 愛せ」という音の戯れ。音の戯れを通じてあえて語ろうとする愛であろう。愛とは持っていないものを与えることである、というジャック・ラカンの言葉を想い出す。
 
 2013年、TOKYO ACOUSTIC SESSION」versionの夏の昼の光、自然の陽光。Analogfish3人のおだやかな「I say」が漂う。2018年、「代官山ノエル」versionの冬の夜の光、クリスマスのキャンドルの灯り。下岡晃の「祈り」のような「I say」が教会に広がる。



 『Analogfish - I say / TOKYO ACOUSTIC SESSION』
     Sunday 25th of August 2013 経堂 しゅとカフェ
 Editor:Yuko Morita  Camera:Tetsuya Yamakawa,
 Takaaki Komazaki  Director and Producer:Rie Niwa




 “I say”【下岡晃バージョン】@代官山ノエル 2018/12/22-23
 撮影:澤崎昌文  (VANESSA+embrasse)  制作補助:有吉達宏
 ディレクター:西川啓




    アナログフィッシュ 『 I say 』

              作詞:下岡晃
              作曲:アナログフィッシュ


              悲しいときは泣いたら見つけてくれた
              パパはいないよママもいないよ
              なんにも言わずにただ抱きしめてくれた
              人はいないよ君に会いたいよ

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              夕日が道行く彼女の頬を染めれば
              もう済んだ事をなんだか思い出して
              テールランプの灯りが夜に滲めば
              無い物ばかりがやけに気になって

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              悲しいときは泣いたら見つけてくれた
              パパはいないよもうママもいないよ
              なんにも言わずにただ抱きしめてくれた
              人はいないよ君に会いたいよ

              愛されたいより愛せ
              I say ただI say
              ただ愛せ

              世界じゃなくても
              時代でもなくても
              卵が先でも
              鶏が先でも

              I say ただI say
              ただ愛せ

2020年5月10日日曜日

Lou Reed 『Perfect Day』 [S/R006]

  Lou Reed ルー・リードの『Perfect Day』パーフェクト・デイをS/R(Songs to Remember)第6回にとりあげたい。
 1972年、ソロ2枚目のアルバム『Transformer』(トランスフォーマー)の一曲。彼の数多くの作品の中でも最も親しまれているものだろう。

 この歌は、ルー・リードが当時の婚約者(後の最初の妻)とニューヨークのセントラルパークで過ごした一日をモチーフにして書いたそうだ。「この男にとっての完璧な一日のビジョンは、女の子、公園のサングリア、そのように過ごして家に帰ることだった。完璧な一日、すごくシンプルなものだ。この言葉は私が言ったことだけを意味している」とインタビューで述べている。

 ルー・リードが言うように、シンプルな言葉でショートストーリーが綴られる。何でもない日であるがそれゆえに完璧な一日の物語。しかし、歌詞の後半に彼らしい屈折が現れてくる。
  「Just a perfect day/You make me forget myself/I thought I was/someone else, Someone good」のところが気に入っている。誰だって自分のことを忘れたい。何か別のものになりたい。そうしてくれる存在がほしい。

 そしてラストの「You’re going to reap/Just what you sow」は、『ガラテヤの信徒への手紙』(パウロ書簡)第6章 第7節にある「A man reaps what he sows.」(この英訳は新国際版聖書による)から着想を得たようだ。この「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」の次の第8節は「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」とある。Lou ReedにしろPeter Gabiriel にしろ、欧米のロックの歌詞の中には聖書や文学作品の言葉が織り込まれている。キリスト教文化圏の人々にとっては自明のことでも僕たちには分からないことがある。
 あなたが蒔いたものは何だろうか。そしてあなたはそれを刈り取っていく。詩的な想像が膨らむ。

 2000年10月の"ECSTASY" TOUR で来日したときに、この『Perfect Day』が最後に歌われた。この曲らしい余韻を残す終わり方だった。この時はLou Reed、Mike Rathke(ギター)、Fernando Saunders(ベース)、Tony Smith (ドラム)の4人編成だった。ロックバンドらしいユニットによるグルーブ感とPAの音が素晴らしくクリアだったことが印象に残っている。

 紹介する映像は、『Lou Reed - Perfect Day (Live At Montreux 2000)』。"ECSTASY" TOUR と同じユニットである。youtubeにある『Perfect Day』映像の中でもベストテイクであろう。





  Lou Reed  『Perfect Day』

 Just a perfect day
 Drink sangria in the park
 And then later
 when it gets dark we go home

 Just a perfect day
 Feed animals in the zoo
 then later
 A movie, too, and then home

 Oh, it’s such a perfect day
 I’m glad I spent it with you
 Oh, such a perfect day
 You just keep me hanging on
 You just keep me hanging on

 Just a perfect day
 Problems all left alone
 Weekenders on our own
 It’s such fun

 Just a perfect day
 You make me forget myself
 I thought I was
 someone else, Someone good

 Oh, it’s such a perfect day
 I’m glad I spent it with you
 Oh, such a perfect day
 You just keep me hanging on
 You just keep me hanging on

 You’re going to reap
 Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow
 You’re going to reap Just what you sow




2020年5月6日水曜日

メレンゲ『火の鳥』 [S/R005]

 S/R(Songs to Remember)第5回は、メレンゲの『火の鳥』。
 このブログでもう何度も取り上げたのだが、前回の記事「空を飛ぶ鳥の視線[志村正彦LN255]」を書き終わったときに、次の[S/R]はこの曲しかないと思った。
 レクエイムとしてこの作品は記憶されるべき歌である。

 フジファブリック『若者のすべて』音源のUTY「STAY HOME」60秒version。「いつもの丘」の上空を飛ぶ4Kドローンの速度と高度から、空を飛ぶ鳥を想像した。空をゆるやかに旋回する鳥の視線から眺めている風景の映像に、フジファブリック『若者のすべて』が重なることによって、空を飛ぶ「鳥」になった志村正彦が「いつもの丘」を眺めながら歌っている、そのような想像が浮かんできた。その直後に、メレンゲ『火の鳥』を想起した。この曲は「まっすぐに空を鳥が飛ぶ」光景を歌っている。クボケンジが志村正彦を追悼した作品だと言われている。

 メレンゲ『火の鳥』にはミュージックビデオがある。以前、この歌について次のように書いた。

 海辺の光景。荒れた白い波。波打ち際に寄せられた無惨な花。赤い花、青い花、橙色の花。上空で旋回する一羽の鳥。黒い影。鳥が落ちてきて、花と化したのか。それとも、これから、花が鳥と化して、飛び立っていくのか。

 この映像の冒頭部分は、海、波、花、鳥、空で構成されている。空を飛ぶ鳥と波打ち際の花は、その対比が際立つがゆえにある象徴性をもつ。「STAY HOME」映像は、僕の想像の中で、鳥があたかも桜を愛でるようにして空を飛んでいく。「いつもの丘」を慈しむようにして旋回していく。
  メレンゲ『火の鳥』の映像、UTY「STAY HOME」映像。偶々の取り合わせであるが、この二つの映像が「偶景」のように現れてきた。志村正彦が愛した花の光景が互いを照らし合う。

 クボケンジは「世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる」「世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう」と語っている。ツンドラは地下に永久凍土が広がる凍原。凍りつく世界の向こうへと鳥が飛び立っていく。そのような光景を思い浮かべることができる。そしてツンドラの凍原にも花が咲く季節はあるだろう。


   メレンゲ『火の鳥』MV 2011.10
(監督 / 編集: 江森丈晃、撮影監督 / 編集: 北山大介、カメラマン: 林洋輔、制作: 前田久美子)


   


 メレンゲ『火の鳥』 (作詞作曲:クボケンジ)

      まっすぐに空を鳥が飛ぶ
      急いでいるのでしょうか どちらまで?
   
    急いでいるように見えましたか?
      実は私にもわからないのです

      意味もなく 意味もなく ただ羽があるから飛んでたのです
   
      泣きそうな声 悲しい事言うなよな
      ならその空の旅を 僕と行かないかい?
      道はなく壁もなく ただ空は青く その青さがゆえに 青い海

      争ったり 仲直りしたり 勝った方が正義か 遊びじゃないんだぜ
 
      いろんな人と いろんな命と 微妙なバランスで青い地球

      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      君にだって会える 言えなかった事言おう 言えなかった事を言うよ

      世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる
      それでも僕ら欲張りで まだまだ足りない
 
      他人事みたいに 世界中を見に行こう ツンドラのもっと向こう
      優しくなれるかい 人は変われるって言うよ?
      同じように僕も 他人事じゃなくて 他人事じゃなくて
      ツンドラのもっと向こう
   


2020年5月2日土曜日

空を飛ぶ鳥の視線[志村正彦LN255]

 前回の記事はたくさんのアクセスをいただき、300を超えた日もあった。
 フジファブリック『若者のすべて』を音源にしたテレビ山梨の「STAY HOME」60秒versionが反響を呼んだのだろう。この映像は毎日UTYで流されている。この一週間で2回ほど、リアルタイムで放送版を見ることができた。もう何度も見たのだが、それでも感動してしまう。なぜだろうか。そのことを考えたい。

 今日は、あの記事に対する「yuko」さんのコメントを最初に引用させていただく。


ファンとしては、上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました。そして、STAY HOME のテロップとともに写し出された忠霊塔の画面は、志村君が「ここにいるよ」とでも言っているかのようでした。


 このコメントへの返信に書いたことだが、この《上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました》という捉え方に非常に考えさせられた。

 あの映像はUTYによると、高精細の4Kドローンのカメラを使って撮影したようだ。「いつもの丘」、新倉山浅間公園の界隈は僕も何度か訪れたことがある。桜の季節に、新倉富士浅間神社から忠霊塔へと続く400段ほどの階段を上っていくと、右側奥の斜面の方にも美しい桜の光景が広がっていた。その時、周辺を含めて「いつもの丘」の桜の全体の姿を見てみたい気持ちになった。でもそのためには、丘のかなり上の方に上らなければならないだろう。とりあえず無理なのでその気持ちはしまいこんだ。

 そういう経緯があるので、4Kドローンによる「いつもの丘」の映像を見て、上空からはこのように見えるのだという感動があった。桜と忠霊塔と富士山、丘、階段、下の駐車場、周辺の家並、中央道、富士吉田の街並、そして富士山が再度登場、最後に「いつもの丘」の斜面、全景。
 通常では得られることのない「視線」によって、志村正彦が生まれて育った地の風景をたどることができたのだ。志村さんは友だちと「いつもの丘」よりさらに高い場所へと歩いて登っていき、特に何をするわけでもなく、そこから見える風景を眺めて時を過ごしたという話を伺ったことがある。少年にとっては冒険の丘、秘密の場だったのかもしれない。もしかすると、あの映像に近い風景を見ていたのかもしれない。

 「STAY HOME」60秒versionは、どういう視点から撮影されたのだろうか。あのドローンは地上十数メートルから百メートルほどの上空を飛んでいたのだろう。また、ゆるやかな速度で進んでいる。ヘリコプターからの映像とくらべて、高度も速度も異なる。この高度と速度は、空を飛ぶ鳥の視線に近いのではないだろうか。
 鳥が空を旋回して「いつもの丘」を眺めている、そんな視線を思い描くことができる。そうすると、あの映像は、空を飛ぶ「鳥」になった志村正彦が「いつもの丘」を眺めている、そのように想像することもできる。《上空から眺めた「いつもの丘」が、まるで志村君の目線のようにも感じました》というコメントは、そのことを直観したのかもしれない。

 そしてこの映像は、『若者のすべて』歌詞の「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」とも結果的にもシンクロしてくる。その流れの中で、最後の最後に「STAY HOME」が出てくる。この映像の制作者は志村正彦と『若者のすべて』のことを深く理解している。
 「僕らは変わるかな」と志村は歌っている。この歌詞の文脈からかなり離れてしまうが、「僕らは変わるかな」は若者の、いやすべての人間の問いかけの言葉だ。

 「STAY HOME」といっても、私たちの「生」を維持するための仕事に就いている人々は、「HOME」ではなく各々の場所で働いている。「HOME」ではなく「AWAY」にいる。この危機の中で、私たちの命、生活、社会を守るために、忍耐強く過酷で困難な仕事を続けている。「STAY HOME」が可能となるのはこのような働きによって支えられていることを忘れてはならない。深い感謝を持つ。

 私たちは変わるだろうか。私たちの「生」が真に守られる社会に変わることを祈る。